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「お疲れ様、バーボン」



束の間の休息を取っているとアマレットが缶コーヒー片手に僕の隣に来る。僕は差し出された缶コーヒーを一瞬見つめ、少し驚いた表情を見せた。バーボンと呼ばれることに違和感はなかった。組織内での呼び名だ。



「おや、気が利きますね。ありがとうございます、アマレット」

「ええ。何だか疲れた顔をしていたもの」



アマレットはそう言ってウィンクをしてみせた。缶を開け、一口飲んだ僕は満足げに息を吐いた。昨夜からの張り込みで疲れていた体に、カフェインが染み渡る。



「最近、ジンとの任務は増えているんですか? 彼は相変わらず厳しいでしょうけど...…貴女のことは認めているようですね」



僕の視線は柔らかくなり、少し遠くを見るような目になった。アマレットの安全を気にかけつつも、組織内での立場を維持するという二重生活の難しさが垣間見える。アマレットはこの組織の人間にしては毒気が薄い……というのか、どこか周りの人間とは雰囲気が違う気がしていた。



「そうね……彼とは長い付き合いになるもの。物心つく前からここにいたから……。貴方もいつも忙しそうじゃない? もしキツいようなら任務を減らすようジンに聞いてみようか?



アマレットはどこか遠い目をして言ったが僕に視線を向けると冗談っぽく笑いながら聞いてくる。冗談のようでいて実はさりげなく僕の事を気遣ってくれている感じがした。僕は缶コーヒーを握りしめながら、アマレットの言葉に目を細める。彼女の過去に関する断片的な情報が、探偵としての好奇心を刺激した。僕はコーヒーを一口飲み、言葉を選びながら続ける。



「物心つく前から...…ということは、組織に生まれたようなものですか。そういった境遇は珍しいですね。僕の任務については心配無用です。むしろ、貴女こそ大丈夫ですか?ジンは決して優しい人間ではありませんから」



アマレットの表情を窺いながら、彼女の安全を気遣う気持ちを隠せない。二重スパイとしての立場を忘れかけている自分に、内心で警告を発する。



「ところで.…..差し支えなければ、どんな子供時代を過ごしたのか、少し聞かせていただけませんか?」

「私は大丈夫よ、ジンは意外と優しくしてくれてるの。幼い時からずっと組織にいるわ。本ばかり読んでたわね。特に推理物が好きで……こんな組織にいるのにおかしいかしら?」



そう言って彼女は悪戯な笑みを浮かべた。僕はアマレットの言葉に興味深げな表情を浮かべた。組織のメンバーでありながら推理物を好むという意外な一面に、自分との共通点を見出したような感覚があった。



「推理物ですか...…それは意外ですね。僕も実は好きなんですよ。現実の捜査とは違う部分も多いですが、論理的思考を鍛えるには良い題材です」

「あら、そうなの? それこそ意外ね。貴方も読んでたなんて。でも、推理しながら読み進めるのが楽しいのよね。人間的観察にもなるし。……結構人間観察は好きなのよ」



アマレットは僕の言葉に驚いた顔をする。彼女からしても意外だったのだろう。それから悪戯な笑みを浮かべる。僕はコーヒーを飲み干し、空き缶を手の中で軽く回す。少し視線を落として思案するように言葉を選ぶ。



「人間観察が好きだというのは、貴女の洞察力の鋭さを説明していますね。ジンが貴女を気に入っているのも頷けます。それにジンが貴女に優しいというのも興味深い情報です。彼があの冷酷な表情の下に隠している一面かもしれませんね」



僕は少し身を乗り出し、声をやや落とした。



「もし良ければ、お気に入りの推理作家は誰ですか? 読書から何か..….影響を受けたことはありますか?」

「お気に入り作家はアーサー・コナン・ドイル。それから江戸川乱歩ね。そうねえ……思考深くはなったかも。これは推理と関係ないけれど夢見がちなのかもしれないわ」



アマレットはコーヒーをゆっくり飲みながら僕を見る。貴方は何が好きなの、と瞳で訴えている。僕は微笑んで頷いた。アマレットの選んだ作家の名前を聞いて、心の中で何かが共鳴するのを感じる。



「ホームズものとアケチ警部ですか。古典的で良い選択ですね。僕もドイルは愛読していました。論理的推理と人間心理の描写のバランスが絶妙です」

「あら、気が合うのね! まさかこんな所でこんな話ができるなんて思わなかったわ。ホームズは特にお気に入りなの。一番好きな小説よ」



アマレットはあまりの嬉しさに、思わず仮面を外したかのように素の顔で微笑んでいた。僕はアマレットの素顔の笑顔に一瞬見とれたが、すぐに表情を整えた。その無防備な瞬間に何か純粋なものを見た気がした。再び顔を上げ、アマレットの表情を探るように見つめる。



「夢見がちになった、というのは...…どういう意味ですか? この組織での生活と、物語の世界との間に何か...…ギャップを感じることがあるのですか?」

「……私には王子様も、ヒーローもいなかったみたい。なんてね」



アマレットは多くは語らず、それだけ言って笑いかけた。



「王子様もヒーローもいなかった...…か。そんな風に思っていたんですね」



静かに言葉を紡ぎながら、僕は彼女の言葉の奥にある孤独を感じ取っていた。



「子どもの頃は警察が助けてくれるって信じてた……もう昔の話だけどね」



一瞬だけ寂しげな顔をしたあと、すぐにいつもの作り笑いに戻る。僕はアマレットの「警察」という言葉に、一瞬だけ目を細めた。彼女の幼い頃の信頼が失われた理由を想像し、胸に痛みを感じる。静かに言葉を続け、彼女の作り笑いの奥にある傷を見透かすように僕は呟く。



「警察が助けてくれなかった記憶があるんですね...…」

「……そうね。実際、助けてくれたのはジンだったわね。今の話内緒ね、昔の話なんだもの。ここでは警察は裏切り者なんだから」



そう言ってアマレットはいたずらっぽく笑った。僕はアマレットの言葉に一瞬硬直し、「ジンが助けた」という情報を慎重に受け止めた。これは重要な手がかりだ。



「ジンが...…ですか。意外な一面がありますね。彼の行動原理は複雑だ」

「路地裏に捨てられてた私を拾ってくれたのがジンだからね。それからはずっとここにいるの」



アマレットの目の光が影を潜め、少し暗い色になる。僕は彼女の言葉に衝撃を受け、「ジンが拾った」という情報を心に留めた。路地裏で捨てられていた少女がアマレットになるまで、一体何があったのだろう。



「物語の中の正義や救いを求めて本の世界に逃げるのは、時に現実よりも理解しやすいものかもしれませんね。僕たちが生きる世界は灰色で、善悪の境界線が曖昧すぎる。だからこそ、白黒はっきりした推理小説の世界に惹かれるのかもしれません」



僕は窓の外を見やりながら、思わず本音が漏れる。



「そうね、本を読んでる間は没頭してられるもの。……善悪の境界線。少なくともこの組織内でははっきりしてるわね」



アマレットは自分は悪の側だと理解しているようだった。だが、僕目線からはアマレットは悪の側だとは思っていない。そうは思えなかった。



「組織内の善悪は確かに明確ですが、それが本当の姿とは限りません。私たちはみな何かの事情で今ここにいる。選択の余地がなかった人も多いでしょう」

「選択の余地……。それでも私はここで任務をしてきたわ。バーボンからは、私はどちらに見えてるの?」



そう言って、彼女は少し探るような目を向けてくる。彼女の探るような目に真っ直ぐ応えるように、僕はコーヒーの缶を回しながら少し考え込むように間を置く。そして静かに言葉を選ぶ。



「貴女がどう見えるか...…それはまだ謎に包まれています。組織に忠実でありながら、どこか別の場所を見ているような。鳥籠の中で歌いながらも、空を見上げる小鳥のようです」

「鳥籠の鳥? なあに、それ。まるで囚われのお姫様みたいじゃない?」



アマレットは可笑しそうに笑った。けれどその実、アマレットの内心ではあながち間違いでもないかもなあと思っていた。僕は再びアマレットに視線を戻し、少し柔らかな表情で問いかける。



「もし物語の外で、貴女自身が何かを夢見るとしたら...…それは何ですか?」

「物語の外で? ……それは今は秘密かな。ふふっ」



彼女は人差し指を唇に当てて微笑んだ。残念。もう少しのところで彼女はいつも秘密をチラつかせる。



「秘密は大切にするものですね。でも、いつか...…その秘密の夢を叶える日が来ることを願っています。どんな組織にいても、人は自分だけの希望を持つ権利がある」



そう言って、真剣な眼差しでアマレットを見つめる。彼女に何か伝えたい思いが溢れているような感じだ。



「そうね。ヒーローは遅れて登場するものだものね。貴方がなってくれるのかしら? ふふ、冗談よ」



彼女は僕の眼差しに気付くと、どこか揶揄うように笑っていた。僕は少し身を乗り出し、声を落とした。



「ヒーローですか? 僕にはなれませんよ。灰色の世界に生きる者は、白い羽を持ちながらも黒く染まっていく。けれど...…」



僕はそこで言葉を切り、アマレットの目をじっと見つめ、真剣な表情で続けた。



「誰かの夢を守ることができるなら、それだけでも意味があると思っています。貴女の夢について、もう少し聞かせてもらえませんか?」

「あら、私達は白い羽なの? 面白い事言うわね。私そんなに純粋じゃないわよ。……秘密にしておくわ。謎は暴いてこそでしょ? じゃあね、バーボン」



彼女はくすっと笑ってコーヒーを飲み干すと手を振ってその場をあとにする。



「待ってください」



思わず声をかけ、彼女の後ろ姿に向かって一歩踏み出した。



「え……?」



アマレットは呼び止められるとは思わなかったのか、僕の言葉に驚いたように目を丸くさせて振り返る。



「謎を暴くのは確かに僕の仕事ですが...…全ての謎が暴かれるべきとは限りません。特に、守るべき夢や希望に関わることなら」



静かな声で続けるバーボンの目には、珍しく温かみのある光が宿っていた。



「いつか貴女が鳥籠から飛び立ちたいと思った時は...…」



言葉を途中で切り、意味深な沈黙を作った後、口元に小さな笑みを浮かべる。



「その時は僕にも教えてくださいね。鍵を持っているかもしれませんから」

「鍵……? だめよバーボン、鳥籠から出たいなんて思っちゃ」



一瞬は驚いていたもののアマレットはそっと僕に歩み寄ると、僕のタイを引っ張って耳元でそっと囁きかける。タイを引っ張られたことで頭身が下がった僕の耳に届くあまりにも危険すぎるワード。



「……でももし私が裏切ったとしたら……その時はどうせならバーボンに殺されたいなぁ」



彼女の言葉に一瞬、息が止まった。タイを引っ張られた僕の体は硬直し、耳元に響くその囁きに心臓が早鐘を打つ。組織の人間が「裏切り」という言葉を口にすることの重みを、彼女は本当に理解しているのだろうか。冗談なのか本気なのかよくわからないような顔をした彼女は、茶目っ気たっぷりに笑うと背を向けて歩き去ろうとしている。



「冗談にしては重すぎる話題ですね、アマレット」



僕は彼女の肩に手を置いて動きを止め、周囲に誰もいないことを確認した。声のトーンを落とし、真剣な表情で続ける。



「裏切りも殺しも、軽々しく口にする言葉ではありません。貴女がそんな状況に追い込まれないことを...…祈っています」



一瞬だけ、公安警察官としての素の表情が漏れ出た。すぐに組織の一員としての仮面を取り戻し、少し冷たい笑みを浮かべる。



「ですが、もしその時が来たら...…誰よりも僕が貴女の元に現れますよ。約束します」



アマレットも組織の女らしく冷たい微笑を浮かべてみせながら何も返さずにその場を立ち去っていった。

しばらくアマレットの背中を見つめていると、ヒールの鳴り響く音が聞こえてくる。



「あら、バーボン。見てたわよ。うちのお姫様と何を話していたの?」










その何気ない仕草が僕の水槽を濁らせる

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