プロローグ
星の降る夜だった。
クレアは桟橋に出て、次々と降ってくる流れ星を目で追っていた。
今月、仕事先の契約が切れる。
だから今月中に別の仕事を見つけなければならない。
旅客船の甲板の上で一人、満天の星空を見上げていた。海上特有の強い風がクレアの長い金髪を巻き上げる。星空を見上げるうちに、ふいに一筋、流れ星が光って消えた。
いつの間にか彼女の隣に男が来ていた。年齢は中年に差し掛かった頃だろうか。身なりは悪くない。
ここはクレアが占有する権利があるスペースではない。だから嫌な顔ひとつせずに隣に来た男をちらりと見やり、少し距離をとっただけだ。
「流れ星か……なにか、お願いしたのか?」
赤くなった顔に少しかすれた声。この男は酔っているらしい。クレアはまた男をちらりと見やり、静かに首を振った。
「俺はお願いしたよ。誰かに酒をおごってもらえるようにってな……へへ」
聞いても無いのにそんなことを口にする男。しかしクレアにはその男を拒む気などない。もともと他人への関心は薄かった。話しかけられたのなら、ただそれに答えるだけだ。
願い事を三回唱えると、願い事が叶う……。
昔、施設にいたおばさんが言っていた事を思い出した。だけど、別に願い事なんて何もなかった。今の私には、何もない。
「ところであんた、お金貸してくれんか」
「貸せると思う?」
彼女は初めて口を利いた。涼しげな声だった。高くも低くもない、子供っぽくも大人びてもいない、涼やかな声。
「……まあ、いいさ。お互い金を貸せるような顔してないもんな」
「そうでしょう」
クレアは知らない間に微笑んでいた。
この船に乗り込んでからずっと一人だったので、成り行きで彼と話すのも悪くない。私には身寄りもないし、この男は悪い人には見えない。
きっと私は、誰かと話したかったのかもしれない。
誰でもいいから、話し相手が欲しかったのだろう。
「あんた、仕事は何をやっているんだ?」
「大きな工場で、一年間限定の従業員をしているわ。その契約期間は、今月一杯で終了するんだけどね」
そう。
ひとつの仕事の期限が終わればまた新しいところを探して、引っ越して、それの繰り返し。
クレアには親しい友人も恋人もいないし、派遣先でいちいち親しい交友関係など築いたりもしない。誰とも深入りせず、仕事だけをこなして後腐れなく常にあちこちを転々としてきていた。
「ふーん……ヒック、アンタも見かけによらず、苦労してるんだな……」
「別にそうでもないわ。もう慣れたし、こういう生活も割と性に合ってるみたいね」
「あんた、名前は?」
「クレア。あなたは?」
「好きに呼んでいいよ」
「じゃあ、オッサンね」
「ひでえなあ」
オッサンは苦笑いしたあと、少しクレアとの距離を詰めた。会話をするにはこれくらいの距離がちょうどいい、クレアもまたその距離を拒むことは無かった。
「………あんたの笑顔は素敵だ。瞳で微笑んでいる」
その言葉に、クレアは視線をオッサンの方へと移した。オッサンは瞳の奥に温かな光を宿して、じっとクレアを見据えていた。
「大抵は口だけで笑ってるもんだ。そんなのはつまらない」
「ナンパしてるの?」
クレアが問うと、オッサンは酔っ払い特有の潤んでぼんやりした瞳をクレアから海に向けた。
「さあ、好きに受け取ってくれ。どこから来てどこへ行くかは知らんが、きっとあんたには素晴らしい未来が待ってるぞ。そんな、いい顔だ。……よくは分からんが……」
凍りついた心が融かされていくようだった。
オッサンの話は、たしかに私の心に響き渡った。
私はその言葉を素直に受け取り、頷いた。
そして二人で夜空を見上げた。
何となくだけれど、星たちも“そうだよ”って囁いているようだった。
次の日の夜、クレアは船内のバーで"オッサン"を見つけた。
オッサンはバーテンダーと話し込んでいた。
近づくと二人の会話が聞こえてきた。
「今日は俺の奢りでいいよ。オッサンの話、面白いから」
バーテンダーは笑顔でそう言っていた。
オッサンと呼んでいる男には、人を取り込む話術と柔和さがあった。
「へへ、ありがとよ」
「あっ、友達が来た。……じゃあ、ごゆっくり」
クレアが近づいてくるのを見たバーテンダーが、遠慮して離れていった。
クレアはオッサンの隣に座る。
「カルアミルク一つ」
私はオッサンの隣に座り、注文をした。
「……あんた、連れはいないのか?」
クレアを見やりながら、オッサンがそう問うてきた。
「いないわ」
「うん、そりゃあそうだな。こんなオッサンに付き合ってくれるようじゃよっぽどの変わり者か、独りぼっちの寂しがり屋かどっちかだ」
クレアは否定しない。
確かにこの船に乗ってから、ずっと寂しかった。
私にはもう両親も肉親もいないし、恋人どころか友達さえいない。
きっと、おじさんの言うように……。
私は寂しがり屋なのだろう。
「俺もそうだが、独りぼっちもいいもんだ」
その言葉に私はまたオッサンに顔を向け、オッサンには家族や恋人はいないのか、と尋ねた。
「ん、家族?恋人?………どっちもこの世界のどこかにいるよ…それは、あんたも同じことだ」
「そう、かしら……」
私はオッサンから視線を外し、俯いた。
私の事を愛してくれる誰かが、この世界のどこかにいるなんてとてもじゃないが考えられない。
「何か辛いことがあったかは知らんが、まずは落ち着ける場所を探すことだ。なぁに、恋人なら向こうからやってくるさ」
「さぁ、どうかしらね……」
クレアはいつの間にかバーテンダーが差し出してくれていた酒に口をつけた。
「それより、もっと人生を楽しまないとな」
「オッサンは、楽しそうね」
「ああ。俺は楽しいぞ」
オッサンは酒を口に含んで飲み込みながら、うんうんとうなずいた。
「そう、人生は祭りだ。つかの間の出会いも祭りのいいところさ」
つかの間の出会い。
クレアとオッサンは、船を降りればお互いまた知らない人間になるということだ。
「さあ、一緒に楽しもう」
「そうね。つかの間の祭りだものね」
クレアとオッサンはここで初めてグラスを重ねあい、微笑みあった。
それから二人は退屈を紛らわすように一緒に過ごした。
音楽がかかっている甲板の上でぎこちなく踊り、船内のレストランでともに食欲を満たした。
オッサンの話はとても面白かった。
私たちは何度も会って話をした。
オッサンの話は正直よく分からないことも多かった。
けれど……。
どうしてか耳に心地よかった。
オッサンの言葉の一つ一つは、私を魅了した。
どれもこれも、私にはない考え方だった。
レストランに行ったりもした。
いつも独りで食べていた私にとって、こんなに楽しい食事は初めてだった。
何日目かの夜、たくさんの乗客が詰め込まれた安い寝室。オッサンはクレアが寝そべるベッドの横に座り、他の乗客の邪魔にならないように小声で語りかけてきた。
「この世の素晴らしさは、マヌケと言われら人々による信念の賜物なんだよ。……だから楽しいんだ」
眠りに落ちる直前の無防備な姿をさらしていても、不快ではなかった。むしろたいていの人が子供時代に体験する、寝る前の父親の語りかけとはこのようなものだろうかと思い、心が温まった。
私はまるで詩人みたいな事を言うって、笑った。オッサンの言葉はまるで一つの詩のように、とても美しかった。
「確かにそうだったかも知れん。でも、今は本当の詩人になったよ。一行も書かないからね……」
聞けば、オッサンは詩や本を書いていたという。本が大好きで、暇さえあればいつも読書をしているとか。だからオッサンの話はどこか抽象的で、あんなにも言葉の一つ一つが輝きを放っていたのだろう。
その夜も、オッサンは私が眠りに就くまで話を聞かせてくれた。
翌日の夜、二人はそろって甲板に出て並んで雲行きを見つめていた。風が唸りを上げて吹き荒れていた。そのうち雨でも降って来そうな、どんよりとした空模様だった。今、向こうで空がピカッと光った気がした。雷かしら……。
「……荒れてるわね」
クレアは不安げにつぶやいた。
「嵐が来そうだ。結構、荒れるかも知れんな」
「……そう」
「…なぁに、心配することはない」
「アンタには未来があるんだから…」
「それにアンタはまだ若いし、誰に借りがある訳でもない。自由に生きればいいんだ」
オッサンにはあるの?と尋ねるとオッサンは、俺は自分に借りがある、と言ってまた夜空を見上げた。
「……でも、どうやら借りを返せそうだ。さぁ、荒れないうちに部屋へ戻ろう」
「ええ、そうね……」
戻る前に、もう一度空を見上げた。
「さ、早く」
オッサンは私の肩をそっと抱き、私を部屋までリードしてくれた。
それから先のことは覚えていない。ただ、なにかが船にぶつかる強い衝撃と、周囲の喧騒がかすかに記憶に残っているだけだ。
「面舵いっぱい!! 船首を波に向けろ!」
怒号も掻き消すほどの雷鳴、何もかもを攫い尽くしてしまいそうなほどの強風で海は大荒れだった。そんな中、必死に船を操縦する二人の姿があった。
「駄目です! 舵がききません!!」
「頑張れ! あんな波をまともに食ったらひとたまりもないぞ!!」
今にも船を覆い尽くそうと、巨大な波が迫ってきていた。
「だ、駄目です!! とても間に合いません!!」
「くそっ! エンジン全開!! ……うわっ!!!」
「うううわあああ!!」
操縦士の懸命な運航もむなしく、あっという間に船は波に飲み込まれてしまった。
[ 4/5 ]
[*prev] [next#]
[back]/[AQUALOVERS]
[mokuji]
[しおりを挟む]