Walkure


蜜と紫煙





蜜と紫煙


赤い箱から覗く一本の白を、ゆっくりとなぞる。医学書の上に乗せられたそれは、硝子が置き去りにしていったものだ。煙草。私にはおおよそ縁のない娯楽。生後間もなく、ほふく前進ができるようになった頃に父の煙草を誤飲して家中が大騒ぎになった以来口にすることのなかったそれが一体どんな味であるのかを、私は知らない。そもそもその出来事だって母から何度も聞いたから知っているのであって、私が煙草を口にした記憶なんて一切ないのだけれど。

箱から出した一本を一丁前に人差し指と中指で挟み込んでみる。煙草は私の小さな手の、小さな指を嘲笑うかのように、いとも簡単によろめいた。空いた手でキャッチして事なきを得たものの、その時初めて、思い出したように深呼吸をした。

「何してるの」

耳元で聞こえた蠱惑的な声が私の鼓動を速めた。煙草は今度こそ指から滑り落ちたが、声の主によって、若干増えた重みと共に私の手元に戻る。

「えっとその、これは……」
「あるんでしょ、興味。ライター貸すから、点けてみな」

言われるがままにライターを構える。いつも硝子がしているように親指で歯車を回そうとするにも、硝子のじっとりとした試すような視線と絡みつく腕、それから心臓の動悸で、うまく力が入らない。やっとの思いで火を点けると煙が目に沁みて、思わず顔が逸れた。

「そう。それをそのまますーってするの」

硝子が私の右手首をそっと掴み、ゆっくりと近付ける。次第に増える発がん性の煙が、私の肺を浸食する瞬間を待ちわびているように見えたので思い切り目をつぶって口に含んだ。しかしそれはほんの一瞬のことで、噎せ返るような苦味に耐え切れずに顔を離した。

「ごめん、私には無理だった」
「それは残念。いいところまで行ったのに」

げほげほと咳き込む私の背中を、硝子は優しくさする。私はいつだって幼稚で、硝子には適わない。

「でも名前は煙草をぷかぷか吸ってるよりもあんみつを食べてる方が似合うよ」

そう言って彼女はいつの間にか買ってきたコンビニのあんみつを私にそっと手渡した。そのまま私の右手から煙草を受け取り、灰皿に火を仕舞った。まだ長さの残っていたそれは、恨めしそうに姿を消した。

「もったいないことしちゃったね、ごめん」
「あんみつを美味しそうに食べたら許したげる」

見慣れたプラスチック製のスプーンを開けて、蜜のかかった寒天を頬張る。大好きなそれは、いつもよりもほんの少し、甘くとろけた。






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