Walkure


赤いイヤホン





赤いイヤホン


 
くすくすと、私を笑う声が、聞こえる。
私を笑う、静かで、けれど暴力的な声。

「名前ちゃんは、好きな人とかいないの?」
中学二年生の、休み時間。トイレの鏡の前で、ある子はリップクリームを塗りながら、またある子はスカートの丈を折りながら、きゃはきゃはとはしゃいでいる。
「まだそういうの分からなくて」
「そっかぁ。きっと名前ちゃんも分かるようになるよ。ね?」
一緒にいる子たちは無邪気にそう言うけれど、きっと気付いている。
鏡に映る、私の顔。腫れぼったい一重瞼も、ぺちゃんこの鼻も、ひどい肌荒れも。こんな容姿で、一生恋などできないということを。ぺちゃくちゃと話す彼女達の横に立つひょろりとした私は、なんて惨めなのだろう。鏡を見る度に、息が詰まりそうになる。
「ごめん、私先生に呼ばれてたんだった。先行ってるね」
窒息しそうな空間から抜け出したい一心でその場を離れると、背中越しに刺すような視線を感じた。
「何あの子。感じ悪い」
「元々可愛くないのに、あんな態度で恋なんて無理よね」
「ちょっとちょっと、聞こえてっるて」
私のことを話すときは必ず、甲高い声からひそひそ声へと変わる。私はそのことを、もうずっとずっと前――背丈が急激に伸び始めた頃から、知っている。
泣いてやるものか。ここで泣いたら、私の負けだ。
 

実家の引き戸を開けると、玄関に見慣れないエナメル素材のパンプスが置いてある。夏のこの暑い時期に我が家に訪問するなんて、余程の暇人か、身内だろう。
「あ、名前ちゃん。久しぶり」
鈴の鳴るような声の主は姉だった。進学を機に家を出てから音信不通だった彼女は、何事もなかったかのようにけろりとしている。
「おか、えり……?」
実の姉に緊張するのは年齢差のせいもあるけれど、それよりも、姉は美人だった。くっきりとした二重も、美しい鼻筋も、きめの細かい肌も、私が持っていないものは全て姉が持っている。私が早々に辞めたバレエも姉は長く続けていたし、チュチュもトゥシューズもよく似合っていた。今も、ユリのネックレスが控えめに光っている。
「久しぶり。驚かせてごめんね。ご飯、食べようか」
食卓に並ぶ料理は今まで見たことのないほど豪勢なものだった。父も母も異様に笑みを絶やさず料理を口に運び談笑しているし、姉もそれに合わせるかのように上機嫌だ。どう立ち振る舞えばいいのか分からない私は、とりあえず目の前にあったローストビーフを一口齧る。
姉が五条悟と婚約を交わす運びになったことを知ったのは、ついさっきのことだ。 呪術師の家系である我が家は、御三家には及ばずとも歴史ある家系で、見合いの話はよくあることだった。それを全て蹴って五条悟を掴んだのだとしたら、姉は強力な運の持ち主であると共に、やはりその美貌も要因なのではないかと、思う。遥か昔に一度だけ五条家を訪問した時に、彼を遠目に見たことがある。漫画やアニメに出てきそうな様相。それが第一印象で、私とは別世界にいることを、無情にも突きつけられたあの日の記憶が蘇る。
「本当に、めでたいね」
父がにたにたと笑いながら、酒を呷っている。その瞬間吐き気が込み上げて、部屋を後にしていた。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
どうして今更、姉に対してそのような態度が取れようか。私は知っている。父が姉を部屋に呼び出して、そこからずっと出てこなかった、あの頃のことを。それを見て見ぬふりをしていた母のことも。全部、知っている。
それでも、選ばれたかった。
食べ物をろくに口にしていないせいで、胃液ばかりが込み上げてくる。苦しい。一人でうずくまっている私は、なんて惨めなのだろう。
そのままずっと、枯れるまで、泣いていた。

◆◇◆

高専に入学したのは、必然だったと思う。他の誰にも知られないような場所で、ひっそりと生きていたかった。私はこうしてずっと日陰で誰からも注目されずに消えていく、はずだったのに。


「何聴いてるの?」
後ろから突然イヤホンを抜かれ、ヴァイオリンのメロディが途切れて意識が浮上する。その代わりに、ころんとした声が私の耳をくすぐった。
「またクラシック?」
桃ちゃんは呆れながらも右耳にイヤホンをはめ、曲を聴き始めている。閉じた目から長い睫毛がくるんとカールされていて、お人形さんみたいだ。
西宮桃――唯一の同性の同期――は、私と話がよく合った。アメリカ人の父親を持つ彼女は海外在住歴も長く、文化の造詣も深い。
「シューマンの交響曲第一番?」
「正解。さすが桃ちゃん」
「でしょう?」
桃ちゃんは反対側のピアスを弄りながら、作曲家について話している。シューマンよりもブラームスが好きだとか、オケも良いけどピアノとギターのコラボも捨てがたいだとか、そういった話が通じる友人ができるなんて、高専に入学するまで考えられなかった。
「今度私の好きな指揮者が来日するのだけど、時間が合ったら一緒に聴きに行かない?チケットは父が工面してくれるみたいで」
音を操る家系ということもあり、音楽界との繋がりも多少は、あった。父は酷い仕打ちをしようと、芸術や文化に関しては子どもに惜しみなくお金と時間をかける人だった。
「本当に?絶対に行きたい、行こう」
桃ちゃんが、瞳をきらきらと輝かせている。私はそれを見て、この子と出会えて良かったと、心の底から思う。

◆◇◆

桃ちゃんに恋人がいることを知ったのは、思いもよらぬ形だった。というよりも、そもそも桃ちゃんに恋人を作るという選択肢があったということすら、私の中には存在していなかったのだと、その時初めて自覚した。

桃ちゃんと三輪と真依と私で、ファミレスでランチをしていた時のことだった。ランチセットのパスタを食べて、セットのデザートを待ちながらジュースを啜る、なんてことのない日常の風景。
桃ちゃんのスマートフォンから軽快な呼び出し音が鳴ると、彼女ははっと息を飲み、全身をこわばらせた。
「…あいつですか?」
「うん、」
三輪に話しかけられた桃ちゃんは、より縮こまった。スマートフォンは未だに鳴り続けているし、真依も身を前に乗り出して様子を見守っている。

何、これ。
そんなの、聞いてない。

同じテーブルにいるはずなのに、私一人、断絶されている。三人の、どうする?という会話が次第に遠くなり、いつかのひそひそ話が蘇る。
「…‥‥だからもう会わないって言ったでしょ?いい加減にして」
隣から聞こえた声は、震えていた。
「ねえ、これ、どういうこと?」
声を振り絞り、桃ちゃんに問いかける。桃ちゃんはしまった、とでも言いたそうな表情を一瞬見せ、ため息を吐いた。
「名前ちゃんはこういう話、苦手かなと思って」
背筋が、凍る。私がこの場に相応しい存在ではないと言われたような、気がした。

◆◇◆

「ごめんね、なまえちゃんに余計な心配かけたくなかったの」
帰りの電車で、桃ちゃんは弱弱しい声で私に説明した。桃ちゃんには恋人がいて、連絡がつくまで執拗に着信が鳴り続け、更にはいつ誰とどこにいるのか確認が来る。聴覚には言葉として入ってくるのに、言葉と言葉が繋がらない。彼女たちは私の知らないところで、何歩先も前を歩いている。
そもそも、私達のこの関係だって、おかしい。三輪も真依も、桃ちゃんのことを互いに呼び捨てで呼んでいるのに、私たちは「桃ちゃん」「名前ちゃん」とちゃん付け。私がそんな桃ちゃんの隣にいることができるのは、あくまでも唯一の同期だから。
左肩にほんのりと重みがのしかかり、桃ちゃんの微かな寝息が空気を揺らす。目の下にはうっすらと隈が見えて、私の知らないところで闘っていたのだと思うと、今更ながらに胸が痛む。
気付けば肩はさらに重くなり、規則正しい寝息が聞こえてきた。
残りの駅までの十五分は、音楽でも聴こう。そうすれば気分も多少は晴れるだろうか。カバンの中を漁ると、底でぐちゃぐちゃに絡まった赤いイヤホンが姿を見せた。解くのも面倒になって、私もそのまま目を閉じた。


男が姿を現したのは、その日の夜のことだった。彼女がお風呂に入っている間、私はリビングで本を読んでいた。けたたましくベルが鳴り、何事かと思ってドアを開けると背の高い男が立っていた。瞬間、例の男だと悟る。
「何か用ですか」
「あ?誰だお前、桃はどこだ」
「桃は今いませんが」
「嘘つけ、金が無いんだよ、金が」
なんてだらしのない男なのだろう。桃ちゃんには、不釣り合いだ。
頭に血が上っている――と気付いた頃にはもう、乾いた音が響いていた。男を叩いていた。
「何なんですか、いい加減桃と別れてください」
男は私を一瞥すると、私の顔を引っ張った。
「お前、誰かに執着されたことないからそんなこと言えるんだろ」
また来る、そう言葉を残して男は去っていった。へなへなと座り込み、何も言い返せない自分を、呪った。
 
「さっき来てたよ」
お風呂から上がるなり、桃ちゃんは血相を変えスマートフォンを耳にくっつけ、自室に駆け込んだ。私に対しては謝らないのに、部屋の向こうからは何度も何度も、ごめんなさいと言う声が聞こえる。
しばらくすると、桃ちゃんは部屋から出てきた勢いのままに、ドアへと向かった。
「どこ行くの」
沈黙が、流れる。時計は二十二時を指している。
「勝手だけど、私、別れた方がいいと思うよ。あんな男、桃ちゃんのためにならないよ」
行かないでほしい。祈るように抑えた腕は、やんわりと解かれていく。
「ごめん」
そのままばたんと、ドアが閉まる。静寂がより濃くなり、重く流れていく。

友情と恋を天秤にかけた時、どうして、恋の方に重く傾くのだろう。
どうして、友達の私の方が付き合いも長く、彼女のことを知っているはずなのに、それでも彼女は恋人と築く今に夢中なのだろう。恋愛というものは、それほどに崇高なものなのだろうか。


翌朝、彼女は目元に大きな痣を作って帰って来た。
「ちょっと、どうしたの」
「どうもこうも、殴られただけよ」
諦めたような表情でソファに腰かけた彼女に、 急いで冷凍庫から取り出した保冷剤を瞼に当てる。白い肌が、内出血の痛々しさを余計浮き彫りにしている。
「今日は休みな。歌姫先生に伝えておくから」
「ありがとう、ごめんね」
頼りなく、ぐったりとしている彼女にベッドまで寄り添う。元々小柄な身体が、更に小さく感じられた。
「名前ちゃんが恋人だったら、こんな風にならなかったかな」
「そういう冗談はいいから。ちゃんと休みなね」
はあいと間延びした返事を背に部屋を出ようとすると、再び呼び止められた。
「ねえ、イヤホン貸して。私のやつ、あいつの家に置いてきちゃった」

 ◆◇◆

この日は任務が延びて、帰路につく頃にはとっぷりと日が暮れていた。蝉の泣き声と生温い風が辛うじて夏であることを告げている。夕飯の食材を買うために高専の敷地から離れ歩道を歩いていると、見覚えのある後ろ姿があった。あれだけ今日は休みなさいと言ったのに、どうしたのだろう。
そうこうしている間に、彼女は曲がり角を進んでいった。
人通りのほとんどない、小さな歩道橋。そこで彼女と男が、何かを話している。男が抱き着こうとした瞬間、桃ちゃんは――強い力で――男を、突き落としていた。明らかに、殺す意思を持った瞳で。短い悲鳴と鈍い音、それからうめき声が遠くから聞こえる。桃ちゃんはその場で、しゃがみこんでいる。私は、駆けだしていた。
「立てる?」
「……どうしてここにいるの」
歩道橋を降りると、肉塊と化した遺体の傍に血の池が出来ていた。関節はあり得ない方向に曲がり、つい先ほどまで生きていたものだとは思えない物質がそこにはあった。
桃ちゃんは声にならない悲鳴を上げ、その場に腰から崩れ落ちた。私は黙って、桃ちゃんに手を貸す。血の海の片隅にあったイヤホンをさっと手に取り、制服のポケットに押し込んだ。震える手がばれないように、そっと。
「どうしよう、私、私」
どうにか腰を上げた彼女は肩をがたがたと震わせながら、辛うじて立っている。
「桃、大丈夫だよ、私がいるよ」
こんな時に、初めて彼女の前で呼び捨てで呼ぶ私は狡いだろうか。
それでも、手をぎゅっと握ると弱々しくも握り返す姿に安堵し、この世の全てのものを手に入れたような錯覚を、不謹慎ながら覚えるくらいには冷静になっていた。
「私、これからどうすればいいの」
「何も心配いらないよ」
縮こまった桃の肩をそっと支えて、その場から離れてゆく。


◆◇◆

じっとりと汗が首筋を伝う。夏の湿気が充満する林の中で二人、土を掘り起こしていく。スコップでほぐされ柔らかくなった地面は、命の始まりであると共に、生の終わりをも包み込む。
「いい?いくよ」
私の合図と共に、どさりと塊を投げ込むと、鈍い音と共にすっぽりと収まっていく。余裕を持って掘り起こしたその空間は隙間なく埋まり、棺にはうってつけだ。
「さよなら」
桃は言いながら、土を被せていく。脚、胴体、首が、次第に隠れていく。頭部がすっぽりと埋まるまで、沈黙に見守られていた。こんなに静寂をうるさく感じるのは、後にも先にもないだろう。
スコップを動かす手は止まることを知らない。身体を動かす度に、頭が冴えていく。ひどく冷静でいられるのは、死は私たちにとって、あまりにも身近な存在だからだろうか。
「行こうか」
表面を整え、とんとその場を一蹴りした桃は一歩出て、私に手を差し出している。
私たちに明日はあるのだろうか。明日が来ることすら許されるのだろうか。もう戻せない時に思いを馳せながら、その手を取った。

赤いイヤホンは、ポケットの中で眠り続けている。



♪赤いイヤホン / アンジュルム

百合夢企画「彩れ世界、あたしは色鉛筆」にて寄稿させていただいたものです。






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