
燃ゆる炎を仕舞うとき
その知らせを聞いた時、どうか嘘であってほしいと、何かの間違いではないのかと、心の底から本気で思っていた。まだどうにかなるんじゃないか、間に合うのではないか。例えば、今日提出のプリントを家に置いてきてしまったりだとか、自転車の鍵をなくしてしまったりだとか、それでも結局なんとかなるような、そういった類のものだと、思っていた。 妹の魂は、夏の暑さが嫌になって、再び戻ってくるんじゃないか。まだその辺にいる魂を、誰かがそっと戻しておいてくれるのではないか。そんな希望さえ、抱いていた。
神様、お願い。
妹を、返して。
最後に妹に連絡したのは、昨晩の午前二時。妹と最後に連絡が取れたのは、約二カ月前。ここ数ヶ月情緒不安定な彼女が心配で、頻繁に連絡を取っていた。そんな矢先の、今朝。
「みょうじなまえさんの番号でしょうか?ちょっと来てくれますか、妹さんが――」
実家に着いた時にはもう、妹も、両親も息をしていなかった。眠るように、目を閉じていた。
「部屋からコンロと石炭が発見されました。おそらく自殺でしょう」
警察官にそう言われた瞬間、その場にだらりと膝から崩れ落ちる。全身の、力が、抜けていく。嘘だ、そんなの絶対に嘘だ。
自宅には残穢が、蔓延っていた。
私以外非術師である実家から、何者かに狙われている妹の相談を受けていた。「見える」という妹は明らかに憔悴していたし、何よりも厄介なのは精神を蝕む類の呪霊が要因であることだった。未解明の部分の多い呪霊であるが故に、下手に刺激して状態を悪化させることは避けたかった。だからせめて連絡だけは取っておきたかったのに、いや、だからこそ救えなかったと思うと、やるせなかった。
どうしてもっと早く五条や夏油を頼れなかったのだろう。自分の弱さを素直に認められたら、もっと違った結果になったのではないか。そう思うのも虚しい。しかしそれ以前に、死にかけた五条にも、日に日に目が落ち窪んでいく夏油にも声を掛ける勇気なんて、一ミリも湧かなかった。私はそこまで、馬鹿になれなかった。
◆◇◆
「怖くて眠れない」
そう言って、硝子の隣で横になるようになってから何度目の夜だろう。寝返りを打つ度に頭が冴えるのは、重くのしかかる熱帯夜の暑さのせいだけではないと、思う。硝子は隣で、手のひらサイズの箱を振っている。
「いる?」
「遠慮しとく」
咥えながら一本差し出すからに、硝子は寝る気など毛頭ないのだろう。起き上がって隣に寄り添えば、ライターの明かりが互いの顔を朱く、照らしていく。ゆらりと揺れるそれは、やがて煙へと姿を変える。微かな匂いが鼻腔を満たし、むせそうになると、硝子が「お子様」と小言を洩らした。
「硝子だってまだお子様じゃない」
「どの口が言ってんだか」
煙草は再びゆっくりと、朱く燈っていく。
二人で同じ煙を吸い込んで、少しずつ死に近付く感覚が好きだ。
生き急いでいると言われたらそれまでだけど、生きる意味も見いだせない今、唯一許された行為だと、思う。 満たされて安心したのか、気付けば瞼を閉じていた。
「いい子」
遠くでそう呟く声が聞こえた、気がした。
◆◇◆
その日も私は部屋で惰眠を貪っていた。締め切ったカーテンに、十八度まで下げた冷房。外に出る気力など無いほどに、消耗していた。
「名前」
硝子が部屋に入ってくるなり、私は緊張の糸が切れたかのように、泣いた。どうしてこんなことになってしまったのだろう、どこかで取り戻せたのではないか、正義だとかなんだとかもう知らないと、夏油のことを、悔いていた。この世界に入ってから、何もかもがおかしくて、私にはもう、耐えられる気力などなかった。
もう無理、嫌だ。両耳を塞ぎ首を左右に振る私は、硝子の腕の中にいた。
そのまま雪崩れるようにして、硝子が私をくしゃくしゃに撫でると、より大粒の涙で頬が濡れていた。六畳一間の狭い部屋で、私の叫び声だけが虚しくも響いていた。
その日を境に、私はことあるごとに硝子を求めるようになった。硝子も何も言わず、細くてひんやりとした指で、ただただ私を甘やかした。その時だけが絶望から目を逸らせる、脆くとも、なくてはならない時間だった。心の中に帯びた熱は、少しずつ、でも着実に燃え上がるように広がってゆく。
「悪い子」
いつだったかシーツに横たわる私を見て、硝子はそう言った。互いの肌の赤紫のそれが、生々しく映っている。
「誰の所為で」
硝子は何も言わずに、相も変わらず煙草をふかしていた。
寂しさで壊れてしまいそうなほどに脆くなったのは、誰の所為だろう。もうこのままでは、硝子なしでは生きていけないような気さえ、している。
「は、だっさ」
五条に言われたそれは事実で、私はもう使い物にならないだろう。筋肉は落ち、食事もままならない。一番最後に倒した呪霊の様相も、もう思い出せない。だから。
「ごめん、外の空気吸ってくる」
「いってら」
「すぐ戻るね」
硝子は黙って、私を見送った。
◇◆◇
彼女が搬送された頃には手遅れで、それでも処置を施す手はいつものように淡々と動く。目立った外傷はなく、一酸化炭素中毒だろう。完全なる遺体として戻れる保証のない世界で、このように生を終えることが彼女にとっての正解なのかもしれない。そう素直に思えるのは、彼女を隣で見てきた同級生としての矜持だ。穏やかな表情で眠る彼女は、この世界の地獄から解放された安らかささえ纏っている。こんな日が来ることは十分に予想していたけれど、それでも早すぎないか。
無性に口寂しくて、おもむろに屋上へと向かう。風がびゅうびゅうと吹き、前髪が視界を遮っていく。
ライターを片手にポケットに手を突っ込むと、小さな紙切れがひらりと舞った。身に覚えのないそれは、けれど開かなければならないような気がして――煙草もライターも投げ捨て、紙を広げていく。見覚えのある懐かしい丸っこい文字に、あっと思わず声が出る。
「硝子ちゃんへ 愛していました」
一言だけ書かれたそれは、確かに彼女の文字だった。
やれやれと天を見上げると、入道雲が空を覆っている。太陽から降り注ぐ熱は、そのまま地を焼き尽くす勢いすら持っている。
「名前、それは私もだったよ」
指先に、全身に、脳裏に焼き付いた、この熱の仕舞い方を思い出せないまま、その場に立ち尽くしていた。
♪ってあなた / 京本大我・松村北斗 (SiXTONES)
百合夢企画「彩れ世界、あたしは色鉛筆」にて寄稿させていただいたものです。