
真夜中は私たちの楽園として
朝起きたら身体が動きませんでした、なんて都合の良いことは起こらなかった。けれど限界を迎えるという兆候があったのは確かで、しかし「長女だから」「根性が足りていないから」と片付けてしまうものばかりだった。身体そのものが蝕まれると、思考も狭まっていく。だからこそ、どうにかなると思ってしまう。そうなると当然、周囲は私の異変に気付かない。自分を救うことができるのは自分だけだ。
新卒カードを補助監督に使ったことは後悔していない。だって、それしか能がないから。就職氷河期と呼ばれる世代に生まれた私は、大企業に就職するための努力を放棄して、持って生まれた才能を活かせる世界に骨を埋める決意をした。それが一番楽だから。でも、もう少し冷静に考えても良かったのではないか、と今になって思う。死人が常に続出し、若い少年少女を戦地へ送り出す。狂っていることが正常であるこの世界で、私の中の常識は少しずつ、私を壊していった。
「また何か考え事してるの?」
「ごめん、起こした?眠れなくて」
隣で眠る恋人――硝子――がもぞりと動いて寝返りを打つ。珍しく夜勤ではないので少しでもゆっくりしてほしいけれど、不規則な生活のせいで眠れないのは私と一緒なのかもしれない。
補助監督として働くのに疲れてしまったので休ませてほしい、と上――と言っても五条だけれど――に意を決して伝えた言葉は想像以上にすんなり通った。不健康な状態で働いてミスを連発して事故が増えても面倒だから、ということだった。だったらここ最近の些細なミスから察して面談なりなんなり入れて無理矢理でも休職を勧めろよ、と思ったけれど、きっと他人は恐ろしいほどに他者に興味がない。ここで働くのも休むのも、全て自己責任だ。
「昼間寝ちゃったから、眠くなくて」
「そういう日もある。いずれ戻るだろうから、気ままに過ごすといいよ」
私に休職を勧めたのは硝子だった。顔色が悪い、髪のケアがおざなりになった、日に日に雑になる食事等々、隣で見ているからこそ誰よりも早く気付いていた。しかし硝子に心配かけまいと躍起になってしまった私は、縮こまる身体に鞭を打ってスーツに身を包んだ。けれど吐き気と共に目が覚めたある朝、トイレに吐き出された吐瀉物を見て初めて、自分で自分を休めることを決めた。決定的な出来事がないと自分を止められない程、判断力が鈍っていた。その後硝子に叱られるかも、と身構えていたけれど、彼女は「そう」と流すだけで、それが有難かった。
窓の外から雨が降る音が聞こえる。静かな夜だ。ゆっくりと過ごすようになってから、季節の移ろいを感じられるようになった。春の穏やかさ、緑萌ゆる夏、物憂う秋、和気藹々とする冬。いくつもの季節を共に乗り越えた人が隣にいることの有難みを、ようやく思い出す。彼女も私と見た光景を、覚えているだろうか。
「寝れない夜もありかも。だってこうして、硝子と話せるんだもの」
ぽつりと出たつぶやきは、私たちを包む毛布に吸収される。硝子のいない昼間はつまらない。医者から処方された薬の副作用もあって、昼間はとにかく寝ている。その分夜中は起きて言葉を交わす。そうしてまた、眠りにつく。
「そうかもね」
硝子はおもむろに起き上がり、ライターを灯す。禁煙を心がけている彼女が煙草を吸うのは、決まって学生時代の頃を思い出す時だ。
「寿命縮むよ?」
「数日前まで生き急いでいたあんたに言われたくないね」
そうだね、と笑って返す。小言を言えるのも、笑えるのも、今では奇跡のように感じられる。それを教えてくれた硝子はやはり、戦友でもある。
「硝子、一本頂戴」
「ん」
箱を渡され、一本咥えるなり互いの顔が近付く。硝子の息遣いと共に、私の煙草の先端が灯る。暗闇の中で二人、あの頃のように笑う。それはかつて同級生たちの目を盗んでキスした時ような、甘美で悪い笑み。
橙に灯された部屋で二人だけの時間が流れる。雨音は遠く離れていった。
ワンライ お題「雨上がり」「真夜中は私たちの楽園として」