
記憶の迷路
◇◇◇
運命の赤い糸というものは、本当に存在するのでしょうか。
だとすればその赤い糸は、本当に貴方と繋がっているのでしょうか。
もっと正しい位置にあったのではないかと、私は思ってしまうのです。
◇◇◇
イルミネーション。ジングルベル。噎せ返るほどの人混み。結婚適齢期の私と、その恋人を名乗る男。最適なシチュエーションで迎えたクリスマスイブは、傍から見たら幸せなカップルそのものなのだろう。仕事ができるが故に大忙しな彼が、私のために休みを取り、一緒に過ごしてくれる。これ以上に幸せなことはない。
海外出張も稀ではない悟とのクリスマスデートはこれが初めてだった。アイシャドウは硝子と一緒に選んだものを丁寧に塗り込み、服は選びに選んだ結果、ニットのワンピースにした。まだ若いからと寒さよりも可愛さを重視したそれはVネックで、首元が肌寒い。マフラーを自宅に忘れてしまったからだ。デートの支度の時間配分が下手な私が慌てて家を出た結果だった。悟との任務は緊張感を持って死なずにここまで来れたのに、基本的な生活力は抜けてしまっているのかもしれない。
悟に寄り添いながらぎゅっと身を縮こめると、彼は異変に気付いたのか足を止めた。
「どう考えてもそれじゃ寒いだろ」
言って、彼は身に着けていた上等なマフラーを私に寄越した。黒地のカシミヤでできたそれは、私の首元を瞬時に暖かくした。生地由来の暖かさだけではなく、彼の体温そのものが私の肌を温めた。
「あったかい。ありがと」
その言葉は、確かに目の前にいる悟に向けられたものだった。そうでありたいと願った。ほんの数秒前は悟一色だったのに、マフラーから悟の匂いを感じた瞬間、思い出してしまったのだ。遠い昔の、あの人の匂いを。
◆◆◆
夏油傑は、私の初めてを全て搔っ攫た男だった。
手を繋ぐことも、キスをすることも、もちろんセックスも。初心で未熟で何も知らなかった私を、一つ一つ丁寧に染め上げた。それを悟と硝子は冷やかしながらも微笑ましく見守っていたと、思う。高専という狭い空間の中で、確かに互いに愛し合っていた。思い出は美化されるものだけれど、彼と過ごした日々はその中でもいっとう、尊くて美しいものだった。
その日もクリスマスイブだった。聖なる夜だというのに、私は傑と任務に駆り出されていた。人でごった返す渋谷の路地裏で、私達は返り血を浴びていた。
ハンカチで拭き取ればどうにかなる量の血だった。この程度の呪霊のためにクリスマスが潰れるだなんて、どうかしてる。ひとり溜息をついた矢先のことだった。
「こんな時に言うのはなんだけど」
傑が、真っ直ぐに私を見つめた。彼は何かを教える時、必ず視線を相手に合わせる。何か小さなミスをしてしまったのではないか。表情をこわばらせると、傑は困ったように頬を緩めた。
「私達、付き合ってみないかい?」
瞬間、全ての音が消える。
「どうしたの、急に」
「名前は少々強すぎる。もっと守られても良いんだ。君が無理しないように、私が常に隣にいればいい」
「それって、子守りと同じじゃ――」
ぐらりと、視界が揺れる。なのに強い衝撃がないのは、傑に抱きしめられていたからだ。
「ほら。弱っているじゃないか。君は女の子なんだ。もっと自分を大切にしなくちゃ」
ぽたぽたと、止血したはずの箇所から血が染み出ているのが分かった。傷は思った以上に深かった。
呪術師たるもの、強くあれ。ずっとそう思っていた。隙を見せたら一瞬で死ぬ世界で、私はずっと気を張っていた。誰よりも、男よりも強く。それでも、私の弱い面を一瞬で見抜いた目の前の男の子に、私は呆気なく陥落していた。
「電車で帰るのはやめにしよう。代わりにタクシーを呼ぶ。事情を説明すれば、分かってくれるだろう」
クリスマスイブの深夜。いくら混雑しているとはいえ、心配性すぎないか。だけどそんな傑の優しさがくすぐったくて、か弱い女の子になれたみたいで、嬉しくなる。
「それと」
寒いからと、傑は私にマフラーを巻き付けた。傑の体温と匂いが、私を満たしていく。体温がじんわりと上がっていくのは、マフラーの生地だけではなく、傑への熱もあると、思う。
かくして私たちは恋人同士になったのだ。
深夜の長電話。
会話をするように重ねたキス。
人の温もりを知ったあの日。
まだ幼かった私には、一つ一つの経験があまりにも鮮烈だった。
雪がきらめく冬、花萌ゆる春を過ぎ、季節は太陽が地を焼き尽くす夏を迎えた。十七の彼の瞳がずっとずっと揺れていたことを、この時の私はまだ知らない。
その日も傑と行動を共にした。雲一つない、虹が遠くまで伸びた昼下がりだった。
任務の帰り道、途方もなく長い山道を二人並んで歩いた。
「喉乾いてない?」
「平気。それよりも早く帰りたい」
終始無言で歩き続ける。最近は二人でいても無言でいることが多くなった。別に苦痛ではないけれど、なんだか寂しくて、だから私は呼びかけた。目の前にある背中がどこか儚く消えそうで、存在を確かめたかったのかもしれない。
「ねえ。傑は今幸せ?」
「…………」
返事が無い。怖くて、背中を必死に追いかける。
「随分と急だね。そういう君は、幸せかい」
「私はね、傑と出会えて幸せだよ。今も」
傑が振り返る。太陽が眩し過ぎて、逆光で表情は良く見えなかったけれど、彼は確かに笑っていた。
その日私たちは境目がなくなるほどに、ぐちゃぐちゃになるまで抱き合った。それが最後の夜だった。
「五条、ずっとあんたのこと見てたんだよ」
「本当に?」
「本当。あんたと傑がいないところで私にずっと相談してたよ」
喫茶店にて。硝子は煙草を吸いながら、しれりと私に言った。傑が姿を消してから数ヶ月。私はすっかり痩せてやつれていた。硝子はそんな私を見かねて、無理矢理外に連れ出したのだ。
やっとの思いで口にできたパフェの生クリームは想像以上に甘ったるく、吐き出しそうになった。少なくとも私の目に映る悟は人でなしで、私と悟が結ばれることなど、想像したこともなかった。
「昔の思い出に浸るのもいいけどね、そろそろ前を向かなきゃだめよ」
硝子は視線を落とし、煙を吐く。硝子の物言いは、自分にも言い聞かせているようにも感じられた。店内を流れるクラシックがクレッシェンドし、最高潮の盛り上がりを見せる。そのままフィナーレを迎え、曲が終わり、僅かに沈黙が流れる。
この数ヶ月の間、私達は時が止まったままだった。刻一刻が大事とされるこの世界で後ろを向くことなど許されない。私達がたとえ、十代半ばの少年少女だとしても。
「そうね」
私は立ち上がり、千円札をテーブルに置いた。
「行っておいで」
硝子は意味深に私を見送った。店内では新たにヴァイオリンのソロが鳴り始めた。
高専に戻ると、待ってましたと言わんばかりに悟がいた。勇気がないので強引に通り過ぎようとしたけれど、彼の力強い腕により、私の迷いは呆気なく頓挫した。
「話がある。部屋に来い」
腕を引っ張られ、そのまま目的地へ連れて行かれる。不思議とその腕の力は弱く、歩幅もなんとなく私に合わせていることに気付いてしまい、その後の展開に眩暈がしそうだった。
ばたんとドアが閉まる。もう逃げられない。
「好きだった、ずっと」
悟の瞳は、まごうことなく私を見つめていた。いつか見た瞳の色とは随分と違う色だけれど、真っ直ぐだった。
そう、と返すのが精一杯だった。真っ直ぐな瞳に、彼を重ねてしまったから。
ぼろぼろと涙を零した私に悟はキスをした。泣きじゃくる私を、ただ優しく包み込んだ。パフェよりも甘いキスに、ほんの少し甘えてみせた。私は恋を知ってから随分と弱くなってしまったようだ。
「今度は僕に守らせてよ」
きざだなあ、と半ば呆れながらも涙は止まらなかった。
「置いてったり、しない?」
「死なない限りは」
ふっと笑うと、ようやく部屋に緩やかな空気が流れた。身体が急に宙に浮かぶ。姫抱きなんて、普段の任務で慣れっこだろう。私に対しても、こんなに優しい一面があるのか。そう物珍しく顔を覗くと、「惚れた?」なんて言うから、笑って誤魔化した。
悟は私をゆっくりベッドに押し倒すと、ガラス細工を扱うように触れた。傷だらけでぼろぼろになった私を、新たに塗り替えるように抱いた。
行為中、悟は何度も愛を囁いた。雨のように降り注いだそれは興奮と共に、心を満たす何かを与えた。それでも私は、「ありがとう」と返すことしかできなかった。彼の愛の温度に応えられない私がいた。
◆◆◆
月日は流れ、私達も大人になった。
あれから何度かの冬を越え、雲一つない晴天の下、私は着飾り、肩を晒している。
ある年のクリスマスを境に、悟は私に婚約指輪を渡した。「僕の可愛い生徒に触発されちゃってね」 そう言って、さらりと。
婚約を硝子や歌姫さんに報告すると、なんだかんだ喜んでくれた。「一時期あんた死にそうだったし。よく頑張ったね」と、労いの言葉と共に。
私の家族も祝福してくれた。五条家だからどうとかはなく、一人の娘の門出として喜んでくれたのが救いだった。
悟も相変わらず、誰に似たのか尽くしてくれた。
私は今、幸福の絶頂にいる。悟は時々何か言いたげな顔をしていたけれど、その理由は尋ねなかった。きっとそれは私にとって福音にはならないから。私はそれに耐えられる自信がないから。
今日は一点の曇りのない、誰もが祝福されるべき日。呪いとは対極にあるべき日。着飾った硝子や歌姫さんが私を見つけるなり、歓声を上げる。七海くんや猪野くん、伊地知くんも駆けつけてくれた。そして隣には私の大切な人。幸せは目には見えないからこそ、二人で作っていくものだ。今日はそのための、儀式の日。
指輪を手に取る。
ベールアップし、視界が拓ける。
近付く影。
傑、私は今――
幸せそうで良かったと、聞こえもしない声がした。
♪記憶の迷路 / High-King