
最強ツインテール
仁礼は確かに、その瞬間を見逃さなかった。天高い青空の下で乙女が涙を流す、その瞬間を。
「仁礼ちゃん、お疲れ」
二年生が全員参加する台風の目を終えると、彼女は乱れた髪をなびかせて入場門へと急いだ。運動が大好きな彼女はどんな競技にも引っ張りだこ。体育祭は正に彼女のために用意された日とも言える。そんな彼女を見送り、真っ先に応援席に戻った仁礼は日傘を手にした。反対の手にはハンディファン。十月と言えど、直射日光に長時間晒されれば肌がひりひりしてしまうし、何よりも暑い。仁礼は冬の凍えるような寒さはもちろんのこと、秋の良天候の日差しさえ――つまり、極端な気候が苦手なのだ。冬に炬燵を出すように、紫外線が気になる時期には日傘をチョイス。仁礼ゾーン(対紫外線バージョン)の完成である。仁礼は五月の大型連休が終わると、日傘を差して登校する。それを見た生徒も日傘を差し始めるようになり、登校のピーク時には優雅な日傘の列が、ここ三門市立第一高校までの道を見事に埋め尽くす。
「また始まったよ」競技から戻ってきた女子生徒から呆れた声が洩れるものの、なんだかんだ皆日傘を差し、ジャージで腕を隠している。乙女は美白が命なのだ。
日傘の中で器用にシーブリーズを塗りたくっていると、彼女がハチマキを結び直している姿が見えた。
「お、気合入ってんね」
運動は人並み、炎天下は嫌い。そんな仁礼に「だるいよね、まあ気楽にがんばろ」と練習の度に声を掛けていた彼女が、屈んで靴紐を結び直している。次に控える競技は借り物競争。何かとプチイベントが発生する競技でお馴染みのそれは、選ばれし女子だけが参加できるもの。グラウンドで待機する女子も、応援席で見守る男子もどこかそわそわしていて、ピストルを構える教師も困惑している。
「頑張れ!」
「気合入れてけ!」
「ワンチャンあるよ絶対!」
観衆が、がやがやと口々に声を上げる。皆一体何をそんなに期待しているのだろう。
「死ぬ気で頑張れ!」
仁礼もその声に混ざり、日傘の下で彼女に呼びかけた。その声に応えるように小さくガッツポーズをした彼女の瞳にも、メラメラと闘志がみなぎっていた。
「それでは始めます」
放送委員の声を合図に、グラウンドが一気に鎮まる。
「位置について、用意――」
「プロコフィエフの肖像画……?」
パン、とピストルの音が響くと同時に、歓声が会場の熱を更に上げる。乙女たちが箱に向かって一斉に走り出していく。
お題の入った箱から中身を取り出し中身を確認した彼女はぽかんと口を開け、そしてまた確かめるように二度見した。何度見ても、裏返しても、ゴシック体で書かれたそれは、覆ることなく事実を突きつける。
不吉な予感がした。
いつもはすぐに結べる靴紐が、結べなかった。
朝家を出た後に、カバンにお弁当が入っていないことに気が付いて、ダッシュで家に戻った。
こういったレベルの地味に良くないことは二度三度続きがちだが、ここでも貧乏くじを引くというのか。
この競技は毎年、究極に無理難題なお題を突きつけてくる。基本的なお題はグラウンド内で解決するもので構成されている。しかし一つだけ、校舎内に入らないと取れないものがあると、彼女は情報を把握していた。二年生にもなると情報収集も得意になるのだ。一昨年は三階の物理室から。昨年は二階の化学準備室から。あまりにも遠くて出題される側が可哀想だから、どうやら今年は手加減するという情報を耳に挟んでいた。
それでも、ついてなさすぎる。
なんで、なんで。こういうのって、「好きな人」とかを引いて、どさくさに紛れて好きな人を連れ込んで、審判の前で告白するのが王道じゃないの?彼女はそのままフリーズしてしまったのか、足が地面にくっついたように動けないでいる。
「おいどうした!らしくないな!」
耳に入った聞き慣れた声。振り返ると仁礼がハンディファンをぶんぶんと振り回しながら声を上げている。
そうだ、これはクラスの得点がかかっている競技だ。周りの子たちも、応援席で人探しを必死にしている。ここで負ける訳にはいかない。仁礼の声ではっと我に返った彼女は、校舎に向かって走り出した。肖像画といえば音楽室。校舎に入ってすぐの場所にある。そこにいけば何かがあるだろうと、普段の冷静さを取り戻した。
土曜日の音楽室はひんやりしている。遠くから聞こえる天国と地獄の人工的な響きが、この部屋と不釣り合いだ。彼女はそっと肖像画を手に取り、埃を軽く掃った。
この競技で彼に告白しようとしていた。賭けていた。茹だるような暑さの練習の後に、そのことを仁礼にだけ伝えていた。姉御肌な仁礼であれば、応援してくれるだろうという期待だった。
彼女の予想通り、仁礼は彼女の背中を叩きながら全力で応援すると応えた。太陽がよく似合う、白い歯を浮かべてにかっと笑うその姿が、眩しかった。
「よし、もう少し頑張ろう」
グラウンドに戻ると、悲鳴のような声が上がり、けれど異様な熱量を持った空気が彼女を待っていた。状態が掴めないまま小走りで進むと、彼女の意中の男子が、女子を連れて颯爽と走っている。ぎゅっと互いに手を握り、女子が走りやすいように歩幅と速さを調整しつつリードする姿はカップルそのものだが、これでは貸し手が借り手をエスコートしている状態ではないか。しかし観衆はそんなことも気にせず、やれヒューヒューだのお似合いだの祝福モード一色である。二人が晴れやかな表情で審判の前に立つ姿を見た彼女は、その場にへたり込んでしまった。ここはいつから結婚式場になったのだろう。
にこにことした審査員が、お題の紙を高らかに読み上げる。
「お二人とも、お疲れ様です。お題は【左利きの人】ということですが、何か証拠はありますか?」
審査員も雰囲気に飲まれて合格としたいところだが、ここはあくまでも厳正に。探りを入れたいのをぐっと堪え、お決まりの証拠を探す。
「私と彼は付き合って一ヶ月ですが、彼は鉛筆もお箸も包丁も、全部左なんです」
マイク越しに、女子の澄んだ声がグラウンド中に響き渡る。「おめでとー!」「あいつら付き合ってんのかよ」「包丁って、同棲してんの!?」「いや調理自習だろ」あちこちから悲鳴と冷やかしの声が上がる。
「それに」
女子は繋いだままの手を審査員の視線まで上げて高らかに言った。
「彼は今もこうして、私と左手で手を繋いでエスコートしてくれます」
割れんばかりの歓声と拍手が二人を包み込む。眩しく照らす太陽が本日最高潮の場面をより引き立てている。
「あっちゃ〜、これは来ますわ」
大歓声の中、グラウンドの隅でゲリラ豪雨並のどんよりとした空気を醸す彼女を目にした仁礼は彼女の元へと駆け出した。遠くから見えた彼女の頬は、僅かに濡れていた。
◇◆◇
じりじりと、高くなる日差しが肌を刺していく。秋のからりとした空気が救いだが、運動後の身体はやはり火照るのか、応援席側にも熱気が籠る。ずっと座って観戦しているのも退屈なのか他クラスに移動して席を外す者も多く、人影もまばらだ。近くで女子が四、五人、席を陣取って水筒を片手に駄弁っている。次の競技は三年生の棒引きだから、落ち着けば人も戻ってくるだろう。
仁礼が彼女を隣に座らせると、彼女は両手で顔を覆って、何も言わなかった。小さな膝が震えている。
「辛かったね、思いっきり泣いていいよ」
突然の異様な雰囲気に驚いたのか、周囲の人間がこちらを向くので、頭からジャージをそっと被せた。彼女の肩をそっと抱き、日傘の中に彼女の空間を作ると、すっぽりと収まった。
「ここなら誰にも見られないから大丈夫」
「ありがと。仁礼ちゃんのジャージ、いい匂いがする」
どうしたの?と駆け寄る女子達にウインクをして人差し指を立てれば、皆察したのか、それ以上何も言わなかった。乙女というものは、こういう点に於いては鋭いのだ。
呼吸が落ち着くと、むくりと顔を上げた。目は赤くなり、髪は乱れている。いつかの授業中に国語便覧で見た、与謝野晶子のようだ。
「もう知らない!」
突然彼女がそう言い、一瞬にして場の空気が凍る。借り物競争で取ってきたプロコフィエフの肖像画を両手で摘まみ、破ろうとしていた。
「それ学校の備品!」
「毎晩この人が夢に出る呪いにかかっちゃうよ!」
いきなりの奇行に、グラウンドの三年生の入場も構わず、その場にいる全員が全力で止めにかかった。
「まあまあ、落ち着いて」
仁礼がどうにか彼女を捕まえプロコフィエフの寿命に貢献すると、彼女はぐったりと項垂れた。だぶだぶのジャージから覗く小さな指が可愛らしい。こんなに可愛い女の子が泣いているなんて、この世は不条理である。
「ちょっとこっち来て!」
仁礼は彼女を自席に呼ぶと、バッグの中から何かを取り出した。
「どうしたの」
「気持ち切り替えよ!」
彼女をすとんと座らせると、ハチマキを外し髪をゆるりと解いていく。ばらばらと乱れる束が、日の光を反射していく。その髪にブラシを通していくと、柔らかな弾力が仁礼の手に触れた。
「ちょっとじっとしててね」
彼女は目を瞑り、そっと仁礼に身を委ねた。普段は人遣いの荒い面を見せる仁礼も、相手が女子となると話は別。仁礼と彼女の周辺に、穏やかな時が流れ始める。
艶のあるそれは、健康の証。枝毛がなく肩まで伸びた焦げ茶の髪は、彼女の努力の賜物だろう。ここまで伸びるまでの間、彼女はどれだけ彼に恋焦がれていたのか、仁礼はそっと思いを馳せる。自分がこれから何をされるのか察した彼女は背筋を伸ばし、その時を待っている。
「痛かったら言ってね」
「まあ仁礼ちゃんなら平気でしょ」
櫛の柄の部分で髪の毛をざっくりと分け、右側の髪の毛を耳の高さまでまとめていく。あらかじめ手首に用意しておいたゴムでくくると、白いうなじがこちらに向かって晒された。一学期から体育の授業の度に日焼け止めを塗っていた彼女は、仁礼にも日焼け止めを何度か貸していた。例えば、仁礼が日焼け止めを忘れてしまった日。そういう日に限って太陽が熱烈に地面を照らすので、心配性な彼女は「いる?」と日焼け止めをさっと投げた。仁礼は彼女のそのちょっとした優しさが好きだった。仁礼の美白は、日傘と彼女によって守られている。
きゅっ、と右耳の真上が引きつる感覚を覚えた彼女は、その久々の感触に心が躍った。最後にこの髪型をしたのはいつだろう。確か、小学校の卒業式だった気がする。小学校に入学したての頃は周りの友達も皆、この髪型をしていた。学年が上がるにつれてその髪型をする者は少なくなり、高校の入学式ではついに見ることはなかった。
皆、現実を知ってしまうのだと思う。私にその髪型は似合わないだとか、この髪型をすればぶりっ子だと思われてしまうとか。だから、しなくなるのだと思う。彼女もその自覚こそなかったが、周囲に合わせているうちに自然消滅していたという面では、自分に屈してしまったのかもしれない。大人になるとは、こういうことなのだろうか。
「はい、お待たせ」
左耳の真上が引き締まると、今度は手鏡を渡された。と同時に、周囲から歓声が沸き上がる。競技は終わり、あとは退場というタイミングで。
「これが、私?」
鏡に映るのは確かに彼女自身だった。何年振りかのツインテール。そして毛先を揺らして振り向いた先には、仁礼がピースサインをして構えている。その周りには、いつの間にか戻って来たのかクラスメイト達が、目を見開いて彼女をまじまじと見つめている。
「可愛いじゃん」
「似合ってる!」
「写真撮ろうよ!」
彼女の周りを多数のギャラリーが囲み、皆スマートフォンを取り出していく。インカメに入り込んだ仁礼は、私がやりましたと言わんばかりに抱きつき、レンズを覗き込んだ。初めはぎこちなかった笑顔の彼女の表情が次第に柔らかくなっていく様子をスマートフォン越しに確認した仁礼は、一先ず安心した。
「あんた、本当に可愛くなったねえ」
「ヘアスタイリスト仁礼のお陰だね」
画面越しではない実物の彼女と目が合うと、先ほどまでの暗さはどこへやら。風に揺れるツインテールと眩しさに照らされた笑顔に、仁礼は思わず目を逸らした。
「仕上げにハチマキ、結ぼうか」
一か八か、そんなことを言ってみる。これが一目惚れなのか衝動なのかは分からない。しかし今この瞬間、ハチマキを結んでいいのは私だけだという驕りが、仁礼の脳内を支配している。そんな仁礼の気持ちを知ってか知らずか、彼女は人差し指を口元に当てて考え込んでいる。やはり、ジンクスのことを気にしているのだろうか。仁礼が慌てて訂正しようとすると、彼女は背を向け、ハチマキを差し出した。
「今年はもうノーチャンだし。ヘアスタイリストに全てお任せで」
にっこりと笑ってお願いする彼女は、なんて罪深いのだろう。仁礼は黙って頷き、ゆっくりとリボンを形作る。勿体ぶって結び目を整えると、完璧な後ろ姿の完成だ。
「できた」
ツインテールに加え、しっかりと結ばれたハチマキがカチューシャのようでとても可愛らしい。派手な色合いのクラスTシャツが似合う彼女にぴったりだ。
「私と仁礼ちゃん、並ぶと髪型強くていいね」
「まあね」
仁礼は再びスマートフォンを取り出して、彼女と肩を並べた。この瞬間だけは、彼女は仁礼だけのもの。写真は一瞬を永遠に残しておくための手段であり、一瞬を共にするための口実だと知る。
「来年もヘアアレ仁礼ちゃんにお願いしようかなあ。好きな人にハチマキ巻いてもらう前に」
「任せなって!今度こそ良い人に会えるよ」
「だといいな」
仁礼がシャッターを切ると、彼女はリズム良くポーズを変える。今度は同じ姿勢で、ピースサイン。
そうか、彼女のこの笑顔が見たかったのだと、仁礼はこの時悟った。大切な子の幸せは、心の底から願っている。だけど、その幸せを見つけるその時までは、どうか隣にいさせてほしい。ハチマキを結んで貰う人と出会う、その時までは。
頭が僅かに痛いのは、締め付け過ぎたハチマキの所為か、それとも自身に芽生えたわがままの所為か。秋にしては生温い風が、二人の間を通り過ぎた。