
今和の死神
愛情というものは至極抽象的なものであり、また行為で示さなければこの世には存在しない摩耶化しであるという事実は、物心ついた頃からの思想であった。しかし父が母に対して愛情を持っていたかどうかと問われたら、どう答えるのが正解なのだろうか。私という存在がこの世に存在するのならば即ち父は母を愛していた、ということになる。例えそれが間違った行為だったとしても。愛というものが私にはよく理解できない。人間の生殖機能を尊ぶための動機づけ、または快楽の肯定のための高尚な言い訳に過ぎないとすら思える。だとしたら今あるこの状況は、愛情によって肯定されたものになり得るのだろうか。
「百之助さん」
遠い昔のこと、私にも恋人がいて――顔も名前も思い出せないが――雪のように白い肌と澄み渡る声だけは覚えている。
「この花を知っていますか? カスミソウと言って、無垢な愛という花言葉があるんですよ」
「花には、興味がなくて」
そうですか、あなたにぴったりだったのに、と言う彼女は些か落胆していた。果たして彼女は私の何処から無垢な愛を見出したというのだろうか。無口で、殻を破ることを拒む私の、何処から。
「だって、百之助さんはまだ染まっていないでしょう。愛というものを知らないでしょう」
そんなものを私は持ち合わせていない――とは言えなかった。彼女の強い瞳に射抜かれたあの日から、ずっと。彼女が己の正義を信じて疑わない弟と似ていたからなのか、彼女に魅せられていたからなのか、はたまた両方だったのか、今はもう思い出すことなどできない。
その日の夜、私は夢を見た。私は彼女を組み敷き、貪っていた。目の前の彼女の白い肌は火照り上気し、玉のような汗が滴っている。私は気が動転していた。甘やかに喘ぐ声も、私を繋ぐ指も、夢か現実か区別がつかないほどだった。首筋が、腰が、中が。蠢くのを感じるのと目が覚めるのは同時で――残ったのは、肌着に残る汗とは違うぬめった感触だった。
不思議と落胆はなかった。結局私も彼女も同罪なのだ。無垢な彼女も、彼女にとっては無垢に見える私も、所詮はただの人間で、本能のままに動く欲深い生物だった。欲を放った私も、そのきっかけとして夢の中で欲情していた彼女も、私であり彼女であった。愛情という不確かな動機がなくとも人間は行為に及ぶのだと、この時知るのだった。
彼女とそれきり会うことはなかった。しかし私は夜ごと彼女を思い出しては事に及び――その度に嫌悪した。私は既に穢れている。だから穢れを知らない、偶像である弟に軽蔑すら感じる。敬虔な動機がなくとも行為に至れるというのに、知らぬ振りをする弟を、軽蔑する。それでも自身に嫌悪を感じるのは、少なからず私は彼女を偶像のように愛で、穢したくなかったのだと考えるほかなかった。
「百之助さん」
女は、私を誘惑する。そういう場であるから当然のことだ。会ったばかりの女とこうして交わすことに慣れると、何も感じなくなる。私は、私を正当化したいのだと思う。軍人なのだから当然の行為だ、と。その度に目の前の女をいつかの彼女と重ね合わせるのだった。私は愛情というものを知らないが、快楽は理解できるそうだ。それは獲物を捕らえた時の澄んだ心地とは対極にある、禍々しいものであった。だから私はそれを、目の前の女を穢すことによって果たすのであった。
「兄様」
遠く、記憶のどこかから聞こえた私を射抜く声を遮るように、私は女の首元に舌を這わせる。女は嬌声を上げ、震え上がった。私はそれを愛おしく見るでもなく、己の欲のためだけに、女を抱いた。しかし女は至極満足気で、やはり私には愛情というものは一切理解できなかった。何度繰り返しても同じことだった。
「尾形」
目の前の少女が私を呼ぶ。
少女の目は、いつか見た瞳と同じ強さをたたえていた。少女はきっと、この世のあらゆる穢れを知らない。そんな彼女の手を引こうとする私は、死神以外のほかでもない。