
来い来い、音が鳴る未来
鍵盤に手を滑らせると音がふわりと舞う。彼を見送ってから一切調律をしていないそれは、微細に濁った響きを残した。
「流石に無理でしょう」
「可哀想に」
「帰りを待つ姿が哀れでなりませんわ」
揃いの着物を着た女が三人、ひそひそと話している。私はそれに気付くと、わざと強めに鍵盤を押した。しかし指はついていけず、今度はつっかえてしまう。もう一度始めから。息を整え準備をすると、ぴしゃりと空気が変わった。洋琴に見覚えのある姿が映った。
「随分と上達したものだな。お前達もそう思わないか」
振り返ると、誰よりも帰りを待つ人がいた。女達の顔がみるみるうちに引きつっていく。
「音之進様、いつの間に帰って来られたんですか」
「つい先ほど。玄関にいなかったからどこにいるかと思ったら、どうりでここにいた」
「申し訳ございません。私としたことが……」
「いや、構わない。待たせてしまって済まなかった」
「もう帰って来ないのではないかと思ってました」
許嫁たるもの、相手の帰りを辛抱強く待つ。それが私にできる最大限の務めだ。しかし不安というものは付き物で、それを癒してくれたのが洋琴だった。音を鳴らす度に、彼が私を護ってくれる気さえした。
「元気そうで良かった」
「音之進様もご無事で何よりです。月島さんは?」
「無事だ」
「良かった。今度改めてご挨拶に伺いましょう。鶴見中尉は?」
「……」
「そうですか……」
その時の彼の表情が全てを物語っていた。私の洋琴を初めて褒めてくれたのは他でもない鶴見中尉だった。その頃の音之進は鶴見中尉しか見えておらず、私の洋琴も下手だと言っていたのに。今目の前にいる音之進はあの頃のあどけなさはなく、最後に見た時よりもずっとずっと大人になっていた。それは左頬にできた傷が物語っている。
「本当にご無事で良かったです。話したいことも沢山あるでしょう。お茶を淹れてきますね」
「っと、その前に」
台所へ向かう私の右腕が優しく掴まれる。人を殺めたかもしれないその手は、吃驚するほど慈悲に満ちていた。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、音之進様」
何を見た?何を感じた? 聞きたいこと、話したいことが山ほどある。それから、私達の未来のこと。きっと今よりももっと忙しくなるし、新しい生活も待っている。そうなる前に、ほんの少しの憩いになれたら。そう思いながら、彼の腕をそっと包んだ。
金カ夢文字書き24時間一本勝負/お題「ただいま」「おかえり」より