
つめたい熱帯夜
※嘔吐表現あり。アキ君の存在がほんのり出てます。
無機質な音の中で熱帯魚が揺れている。水槽の中で舞うそれらは退屈そうにしていて、まるでいつでも酸素を得られると疑わない。その態度は見た目と反してふてぶてしいとも思う。いや、逞しいと言った方が正しいだろうか。少なくとも今の私よりは。
知らない天井が私を迎え入れてからどのくらい経つだろう。私を連れ込んだであろう張本人は隣で寝息を立てている。ずれたキャミソールとシーツに食い込む生足がここの家主であることを証明している。私は本当にやらかしてしまったのだと、未だに打ち付けるように痛む頭を抱えながら、ほんの数時間前の失態を思い出すのだった。
「ナマエちゃんはこう…付き合ってる人はとかいないの?」
「いません」
「じゃあ、気になってる子とか」
「いません」
女は露骨に嫌そうな顔をして煙草に火を点けた。真っ赤に塗られた爪が毒々しくて、本当に私と同じ人種なのか疑いたくなる。私は黙ってウーロン茶を啜った。
お酒の席では定番のこの手の話にはできるだけ乗らないようにしている。人のゴシップなんていつどこで漏れ出るか分からないし、そんな噂話を蜜に労働をする連中のことを考えると反吐が出る。職場恋愛であれば尚更だ。だからたとえ意中の相手が斜め前に座っていようと、決して悟られぬよう無関心を貫き通す。
「酔っぱらったら何か話してくれるんじゃない? まだ飲んでないでしょ?」
先輩はそう言って私にジョッキを突き出した。ストロー付きのグラスを持つ私にそれを差し出すのは完全な嫌がらせだった。
「困ってるじゃないですか」
斜め前の席の男はそう言ってグラスを奪った。ほっとしたのも束の間、女達から嫌な視線が降り注ぐ。
「は?」
「つまんな」
人はアルコールが入ると幼くなるのだろうか。下戸の私には分からない世界だった。そんな調子だから周りからの当たりが強いと言われるのだけれど、今回は運良くアキに助けられてしまった。
女たちは他の面白い話を探しに席を立った。一瞬、アキが私を庇ったことを話すかもしれないと期待して、やめた。彼女達の向かう席には姫野先輩がいた。公然の秘密を持つ本人に燃料を投下するほど馬鹿ではないだろう。
「いいの? 放っておいて」
「何かあったら殺すからいい」
「またまた物騒な」
アキは酔っても普段と変わらず悪態をつく。頬の色もほとんど変わらないものだから、アルコールの影響を受けないのだろう。そんなことは心底どうでもいいけれど、私はいつもアキが煙草の箱を手にした瞬間泣きたくなる。
「非喫煙者の前で吸わないでよ」
「成人してるからいいだろ別に」
「そうじゃなくて」
そうじゃない、そうじゃない。アキの心の中に姫野先輩がいることが憎い。姫野先輩がアキに煙草を教えたと知った時は世界に取り残された気分になった。酒も煙草も二人だけの共通言語であることが悲しかった。煙草はむせるし、肝臓は隔世遺伝で弱い。下戸な祖父を何度も呪った。公安で働く気力と体力はあるのに、それだけはどう足掻いても駄目だった。
「あんたこそあっち行ったら?」
「いい」
「だよねー、二人はバディだもんねー」
悪態をつきながら枝豆をつまむ。周囲の喧噪が今はありがたかった。いっそのことこのまま消えてしまいたい。だから今夜くらいは無理しても許されるだろう。
「すみません、生一つ」
「おいナマエ飲めないんじゃ、」
「私に構わないで」
遠くで姫野先輩がにやりと笑っていた、気がした。
「あらよっと」
私に肩を貸したのはアキではなくて、姫野先輩だった。
「だってアキくん男の子だもん。さ、こっちこっち」
連れ出されたのは情緒も何もないトイレだった。申し訳程度にあぶら取り紙が置いてある洗面所を横目に、これから何をされるのだろうと予想する間もなく便座とにらめっこをする。中身が既にせり上げてきて限界だった。
もう喉まで来ているのに、あと一歩のところで出せない。吐くのが怖い。潰された蛙が出すような声が出た後息ができなくなるのが苦しくて、涙が出る。
思えば最後に吐いたのは小学生の時だっただろうか。季節性の胃腸炎で胃が空っぽになるまで吐いた。布団も汚して、臭くて、点滴が痛くて仕方がなかった。その時の恐怖を昨日のように思い出す。
「怖いの?」
答えられないままえずく。気持ち悪い、吐きそう、息ができない。
「ちょっとごめんね」
姫野先輩はあろうことか私の口内に指を突っ込み、ぐっと押した。吐瀉物が逆流し、汚い声と一緒に便器へ流れ出る。
姫野先輩は汚れていない手で私の背中を優しくさすった。その手を払いのけたかったけれど、今の私にそんな余裕など微塵も残っていなかった。一刻も早くこの地獄から抜け出すべく胃に全神経を集中させる。
「どう? 少しは楽になった?」
「姫野先輩は戻らなくていいんですか」
「後輩ちゃんの面倒を見るのも私の仕事なの」
姫野先輩はずるい。本人は無自覚だけれど、誰に対しても平等に距離が近くて皆にいい顔をする。飼い主に餌をねだる子猫のようだ。彼女なりの処世術なのかもしれないけれど、全方位にいい顔をすることはヘイトを買う恐れもあることを知っているのだろうか。勿論そのヘイトを買っているのは紛れもなく私なのだけれど。
先輩はまた指を突っ込んだ。刺激が舌から食道を伝い、目をかっ
「じゃあアキにも同じようなことをしているんですか」
「アキくんにはしないよ。だってあの子、ナマエちゃんほど下戸じゃないし」
吐き気が会話の邪魔をする。再び下を向くとすかさず姫野先輩のフォローが入る。突っ込む、えずく、出す。上手く呼吸ができず意識が朦朧とする中、私は先輩の指にすがるように吐いた。吐く、さする、震える。そのうち夢と現実との境界線が曖昧になり、快楽にすら感じた。吐く、吸う、撫でる。触れられた背中が溶けるように熱くなるのをピークに、私の胃にいる悪魔は落ち着きを取り戻した。
「ん、いい子」
先輩はミネラルウォーターを手渡して飲むように促した。舌に残った指の感触はまだ熱を帯びていた。
「で、なんで私がここにいるんですか」
「なんでってあの後、ナマエちゃん寝ちゃったから放っておく訳にはいかないでしょ」
起き上がった家主はそう言って大きな欠伸を一つした。とんだ失態だ。介抱された上に、持ち帰られている。ベッドの上に並ぶ二人。よりにもよって姫野先輩。何をされるのか今度こそ分からない。
私を家に運んでから更に飲んだのだろう。ほんの少し酒臭い先輩は危なっかしくて呂律も怪しい。
「先輩こそ大丈夫そうに見えないんですけど」
「いつもこうだから大丈夫だって」
酔うとその人が普段押さえている感情が現れるというけれど、酒の力を借りても先輩は先輩のままだった。いつもの先輩に輪をかけて面倒になるくらいで普段と大差ない。根本の性格なのだろう。アキはいつもこんな先輩の相手をしているのだろうか。そう考えると胃の辺りが焼けるように痛くなった。
「先輩、あの、水を頂いても」
ベッドから立ち上がろうとした時だった。バランスを崩して上手く立ち上がれないまま、そのまま寝そべるように先輩が私を抑えつけた。手首に巻き付く手を払おうにも無慈悲にも強く握りしめられる。
「あの、」
「ん〜?」
先輩は躊躇うことなく私の口の中に指を入れた。不自由になった口の中で必死に酸素を求めて口を開けると、更に指が侵入してくる。数時間前の感触を思い出し、背筋に緊張が走った。
「もう気持ち悪くないでしょう? 大丈夫。吐かない吐かない♪」
やっぱり酔っている。何を根拠にそんなことを言えるのだろう。もし万が一私が吐いたら先輩は許すだろうか。ううん、許さないと思う。きっと酔っているから今夜のことなんてすっかり忘れたまま朝を迎えるのだろう。だから私は反抗するのをやめて寝るふりを試みた。なのに。
指が抜けたかと思うと、唐突に先輩の顔が近付いてきて、気付けば舌が入り込んでいた。突然のことに吃驚して口を開けると更に深く入り込む。
「吐いてた時のナマエちゃん、嫌いじゃなかった」
「それ今言うことですか?」
この状況から打破すべくもがいても無駄だった。先輩に背中を撫でられる度に骨の髄から溶けそうになる。一体誰がこんな魔法をかけたのだろう。いっそのこと、全て酒のせいにしてほしかった。
「ナマエちゃんにもちゃんと欠点あった」
子どもが秘密基地の鍵を見つけた時のような笑みで姫野先輩は言った。虚を突かれて、黙り込む。まるで全てを見透かされているみたいだ。
私はあの時、安心していた。吐くのが不安で怖くてたまらない中先輩に介抱されて、公安に入ってから初めて人の温かさを知った。
新人の二月、同期を喪い一人でやけ酒をした。当たり前のことだけれど、帰り道は新宿駅の冷たいトイレで顔を真っ赤にして吐いた。無力感と孤独と寒さが身に染みて、二度と飲まないと決めた。けれど私は目の前にいる先輩とそのバディのせいでまた失敗して、かつ助けられて安堵さえ覚えている。果たしてこれは現実なのだろうか。
「昔のことを思い出してました」
「誰にだってあることだよ。私にもね」
先輩はそう言い残して眠りに就いた。
「昨日のこと、アキくんには内緒だからね」
昨晩の出来事が夢ではなかったことを先輩が証明した。先輩は相変わらずキャミソールのまま、バルコニーでコーヒーを啜っている。私もそれに倣ってちびちび飲んだ。
「当たり前じゃないですか。私にも手を出すなんて信じられない」
「本当は嬉しかったくせに?」
マグを持つ手を先輩が撫でる。何事もなかったように受け流せた自分に安心した。「可愛くない後輩ちゃんだなあ」と拗ねる先輩も相変わらずだ。
「だって先輩の本命はアキなんでしょう?」
タワーマンションから見下ろす景色は、なんてことはなかった。規則正しく通る山手線、案外騒がしい高速道路、せわしなく歩く人々。きっとこの景色は明日地球が粉々にでもならない限り続くだろうし、姫野先輩もきっと変わらないだろう。
「まあ女ふたり、仮の未亡人同士でもよろしくね」
先輩の視線はとっくに遠くを見ていた。私だけが昨日の夜に取り残されている。思い出そうとして苦しくなって、慌ててやめた。
熱帯魚は朝日を浴びて揺らめき、今日も酸素を求めている。
【あとがき】
チェンソー初書きは姫野先輩でした。チェンソーの女の子はみんな魅力的ですが、改めてアニメを見ると姫野先輩ってかなり沼だと思います。
タイトルはWinkの「淋しい熱帯魚」をモチーフにしています。「私の思いをジョークにしないで」が姫野先輩の本心っぽいなというのと、おそらく姫野先輩世代のヒット曲なので。姫野先輩が運転する車で流してくれないかな、なんて願望があります!