
Good bye, my mues.
この変わり映えのしない晴れた日に、空に指を向けて引き金を引いた。空が落ちてこればいいと思った。けれどそんなことをしても当然空が落ちてくることはないし、むしろ神様に罰当たりだ。だけど今の私にはそういう刺激が欲しかった。
学校なんて大嫌い。ガキばかりの教室に、つまらない授業。そのくせ居眠りにはうるさい大人たち。私だけが取り残されている。
音大附属の高校受験に失敗してから、私は天才ではないという事実を突きつけられた。神の子なんて一握り。だから私は音楽を辞めた。失意のまま今の学校に進学して、どうにもならない日々をこなす。きっとこのまま三年間が過ぎるのだろう。
忘れ物を取りに音楽室を訪れたのは、運命だったのかもしれない。その証拠にドアを開けるのを躊躇った。今までに聴いたことのないような歌声が聞こえたからだ。
のびやかで芯のある声は決して高くはないけれど、天井まで突き上げそうな威力がある。ピッチは安定しているし、しゃべるように歌っている。
思い切ってドアを開けても、歌声が止む気配はない。
神様がいる。私はこの時直感で悟った。
強い風が吹き、カーテンに視界を遮られて我に返る。歌声は止み、声の主がこちらを向いた。
「お、お邪魔しました……」
室内は私と声の主の二人。邪魔するのも申し訳ないので、そそくさとドアに向かう。けれどその足は声の主によって止められた。
「歌は好き?」
「嫌いでは、ないですけど……」
「じゃあ感想教えて!」
真っ白な歯を見せて笑う彼女は歌声はもちろん、そのルックスにも目を引いた。すらりとした脚に、ピンクと白のツートンカラーのロングヘア。窮屈な校則とは反対に、彼女はどこまでも自由だった。
「お上手でした。自由で、のびのびしていて。ここから出られそうな気分がしました」
これは間違いなく本心だ。一瞬聴いただけで、彼女の歌は世界を変えられそうな力があると感じた。こんな学校にいることがもったいないくらいだ。
「ちょっとよく分らないけれど面白いこと言うのね」
彼女は満更でもなさそうだ。誰かを褒めたのはいつぶりだろう。壁を埋め尽くす作曲家の肖像画を眺めながら思う。ベートーヴェン、ショパン、リスト、順々に追って視線は元の場所に戻る。先客はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「一人は好き?」
「嫌いじゃないです」
「あたしも一人好き! 一人でも歌があれば楽しいもん!」
そう言いながら彼女は目の前の楽譜を指さした。音楽の授業で使う練習曲の楽譜。練習曲でここまで魅せられるとは。
「ちょっとお借りします」
楽譜を手に取り、ピアノの椅子に座る。彼女は目を見開き、私の横に立った。
ピアノを弾きたいと思ったのはいつぶりだろう。けれどそんなブランクなんて気にならないほどに指が動く。彼女の歌に魅せられるように、魅せるように音に濃淡をつける。こちらで上手くコントロールしないとすぐに飲まれてしまいそうになる。けれどその緊張感が心地良い。二人で目を合わせ、息を揃える。照明などないのに、ステージで照らされた気分になる。声が弾み、スタッカートが跳ねる。この瞬間だけは世界中で私たちが主役だった。
「ねえあんた、すごいよ!」
息が上がる。カーテンが靡く。暖かな風が私たちの髪を撫でる。
世界がほんの少しだけ、鮮やかに見える。
「ごめんなさい!つい調子に乗って……」
慌ててピアノから身を引く。心臓がいつになく激しく鳴っている。
「こんなに楽しく歌えたの久しぶり! ありがとう、あたしウタ。あなたは?」
神様は名乗り、私に手を差し出した。
ウタ。歌と音楽の神様に愛された少女。
彼女は私にとっての、春の風のような存在となる。
それからというものの、私たちは時間が合えば音楽室で合わせるようになった。私が一年生でウタ先輩は二年生。互いに時間割も異なるので、昼休みや放課後に音楽室に入り浸った。
先輩は自他共に認める天才だった。
渡された楽譜をその場で読み上げるのは序の口で、歌いながら曲を自分のものにしていく。先輩が歌えば空気ががらりと変わり、音楽室がステージになる。
私もそれに合わせてピアノの練習を少しずつ再開させた。先輩の実力や表現に全力で応えたいのもあるけれど、新しい私の音楽の在り方を見つけたからだ。神にはなれなくても、神に仕える何者かにはなれるかもしれない。先輩の手によって、私の第二の音楽人生が図らずとも始まった。
「ナマエってウタ先輩といつも一緒にいるよね」
クラスメイトにそう言われた時にはもう手遅れだった。私は教室の中で完全に孤立していた。
元々第一志望ではなかったこの学校での態度は最悪だったし、休み時間はずっと音楽室で過ごしている。そんな人間が教室にいたら誰だって除け者にしたくなるだろう。けれどもそんなこともお構いなしに私は音楽室へ通った。先輩の隣でピアノを弾いている時が一番楽しかったし、世界で一番尊いものだからだ。
夏休み前、そんな私たちに転機が訪れた。
文化祭に出ないかと先輩に誘われたのだ。文化祭のステージに出演する生徒は夏休み中、校内のピアノを自由に使えるそうだ。私は両手を挙げて返事をした。先輩と二人の夏が確約された。
先輩と過ごして分かったことがある。
先輩は甘いお菓子が大好き。必ずイチゴ味ののど飴を持ち歩いているし、帰り道にアイスクリームショップに寄り道した時は三種類のアイスクリームを注文した。先輩はそれをぺろりと平らげると今度は私のアイスクリームを狙った。渋々一口あげると満面の笑みを見せてウインクをした。私はそんな先輩の笑顔にめっぽう弱い。
「あたしさ、幼馴染の男の子がいるんだ」
ある日の練習の帰り道、先輩は言った。
一瞬、何のことを話しているのか分からなくなる。
幼馴染。男の子。神様とは不釣り合いな、聞き慣れない言葉を必死に拾う。
「そうなんですね」
なんとか絞り出した声は酷いくらいにぶっきらぼうだった。
私にだって、先輩には話していない自分のことの一つや二つある。昔好きだった人のことや昔出ていたコンクールのことも話していない。先輩はきっと、私に知って欲しくて言ったのだろう。けれどその一言は私の心の奥底に鉛のように静かに、確実に沈んでいった。
「拗ねてる?」
「別に拗ねてなんかないですよ。ちょっと意外だなって」
先輩が私の頬を両手で軽くつまむ。ひんやり冷たい指先はまぎれもなく存在する先輩のもの。私は確かに、先輩の実像の部分に触れ始めている。
先輩のことをもっと知りたいと言えば嘘になる。本当の姿を知るのが怖いのだ。そんな先輩の心の内側に、私ではない他の誰かがいることは一大事だった。その幼馴染はどんな人で、どんな関係で、いつ知り合ったのか。気になることは山ほどあるけれど、余計なことは一切尋ねなかった。だって私の神様は、音楽にだけ愛されているはずなのだから。
その代わりに、先輩から頼りにされるために練習を積んだ。私のことだけを頼りにしてくれればいいのにという、完全なるエゴだった。
先輩も日に日に曲を自分のものにしていった。喩えると、初めて歌った時の歌声が宝石だとすれば、今の歌声はその宝石でドレスを縫っている場面を想起させる。大胆にかつ繊細に、先輩は自分を表現している。私はそれをいつも真横で独り占めしている。
文化祭のステージは大成功を収めた。スポットライトを浴びて大歓声を受ける先輩は、ずっとずっと先を見ているように見えた。
「ナマエちゃんお疲れ! 大成功だったね」
舞台袖に戻った瞬間、先輩は私に抱き着いた。
ステージの熱に浮かされた先輩はいつになく興奮していた。ぎゅうぎゅうに抱きしめるせいで持っていた楽譜が全て落ちた。この見果てぬエネルギーを秘めた先輩はどこへ行くのだろう。正直、先輩に学校の体育館は小さすぎる気がした。
「楽譜拾わせてください。あと、来年も出ましょう。私もすごく楽しかったので」
「もちろん! 」
スキップして出ていく先輩の後を駆け足で追う。大丈夫。少なくともまだ来年の文化祭までは一緒にいられる。私はその事実にほんの少しだけ安堵した。
文化祭で注目を浴びてからというものの、私の学校生活の風向きも変わった。教室で話しかけられることが増えたし、放課後もクラスメイトと遊ぶことも増えた。皮肉なことに、音楽によって廃れた心は音楽によって救われたのだ。
再びピアノの練習を始めてから出場したコンクールでは五位だった。まずまずの結果だ。けれど中途半端な成績を持っていてもどうしようもない。私は結局、何者にもなれないままでいた。
先輩は先輩で学校生活を楽しんでいるようだ。廊下ですれ違う時は必ず隣に誰かがいたし、時間がある時は教室まで来て私をセッションに誘った。私はその誘いに乗る日もあれば、レッスンがあるからと断る日も増えた。このままではいけない。何者にもなれない私から脱さないといけない。その焦りが、私をレッスンや練習の熱へと変えた。
その日も学校からレッスンへ向かうところだった。ホームルームが終わり下駄箱に向かっていると、クラスメイトから声を掛けられた。
「ナマエちゃん、ウタ先輩が留学するって本当?」
「……え?」
一体何を言っているのだろう。何かの冗談ではないかと、目を逸らした。
「合唱部の友達から聞いたの。有名なコンクールで賞を取ってスカウトされたって」
コンクールに出ていたことも、賞を取ったことも直接本人から聞いている。けれど留学するとは聞いていない。どうしてそんなに大事なことを教えてくれなかったのだろう。
「ナマエちゃん!」
クラスメイトを横目に音楽室へ向かう。今の今まで留学することを隠して私と一緒にいたなんて、許せない。どうして早く言ってくれなかったのだろう。言ってくれたらいくらでも音楽室で待ち合わせしたのに。
怒りのまま音楽室を駆け上がりドアを開ける。先輩は何事もなかったように楽譜を眺めている。
「あれ? 今日レッスンじゃなかったの?」
「レッスンよりも重要なことがあるからここまで来たんです」
先輩は一瞬目を見開いたけれど、すぐ元の調子に戻った。
「時間は平気なの? 先生厳しいってこの間言ってたじゃん」
ひらひらさせる先輩の手を思い切り跳ね除けた。こんなに大事な話をはぐらかされてたまるものか。
「どうして留学するって教えてくれなかったんですか」
先輩は溜息を吐いた。私こそ溜息を吐きたい気分だ。
「だってナマエちゃん、あたしがいなくても楽しくやってるからもういいかなって」
何も言えなかった。
確かに文化祭で成功を収めてから、自信を取り戻して生活が軌道に乗った。先輩と合わせた曲の数よりも自分のピアノの練習曲の方が多くなった。いつの間にか先輩が世界の全てではなくなっていた。
「ナマエちゃん、あたしと出会った時はすごく寂しそうにしてた。でもあたしと曲を合わせるようになってから笑ってる時間の方が多くなった」
そう言う先輩がとても寂しそうに見えた。
「じゃあもっと伴奏させてくださいよ。文化祭だけじゃなしに」
「そうだね。‥‥…でも、ようやく見つけたナマエちゃんの道の邪魔もできないし」
「どうしてですか。どうして夢を追う先輩の隣には私がいないんですか。先輩のコンクールの伴奏だって言ってくれればやったのに」
「ナマエちゃんのことを応援しているからだよ」
先輩は私と視線を合わせた。
「伴奏だけだなんてもったいない。絶対にソロでも活躍できた方がいい。歌は伴奏があって初めて成り立つけれど、ピアノは主役にだってなれるんだから」
肩の力が抜ける。
先輩のためにピアノの腕を磨いていたつもりが、いつの間にか音楽の道を目指していた。先輩と私がずっと一緒にいられないという事実を突きつけられる。
「本当に行ってしまうんですか」
「もちろん。あたしには
「贅沢ですね」
「負け惜しみしないの。 ナマエちゃんこそ勉強もできて音楽もできるって贅沢だよ。まだ時間があるからもう少し悩めるし。私はここでチャンスを掴んでおきたいの」
やはり先輩には適わない。
先輩は互いの進路を見据えて、自分で選択を決めたのだ。そこまで言われたら見届けるしかないだろう。
「ほら。レッスン遅れちゃうよ」
「先輩。ありがとうございました。文化祭については今度また打ち合わせさせてください」
深々と頭を下げる。何もかもが先輩にはまだ及ばない。だから私は今できることを精一杯やる。
全速力で坂道を駆ける。先輩によって閉ざされた世界は先輩によって開かれた。先輩はあの時からずっと先を見ていた。先輩の描く先――つまり今も含まれているわけで――に私がいないことは悲しいけれど、だったら私が迎えに行けばいい。
待ってて、先輩。
幕が上がる。私たちには小さすぎる会場から大歓声が上がる。
今日、先輩はこのステージを最後に出発する。
照明がいつもより強くても、観客が多くても、これが最後の演奏だとしても、いつも通りに。それがプロを目指す者同士の約束だ。
目を合わせる。二人で頷く。息を吸う。
さよなら私の女神様。
別れの言葉を掻き消すように、指を滑らせた。
【あとがき】
ウタちゃん初書きでした。ウタちゃんと音高や音大と絡めたエピソードはいつか書きたいとずっと思っていました。
ウタちゃんはREDを見た時にトットムジカの楽譜がリアルトットムジカだということに気付いてからかなり印象が変わりました。あの年齢であの曲を初見で歌えるんだ!?と。天才って本当にいるんだな〜と思いました。学パロですが、ウタちゃんのキャラ作りはそんなところから始まりました。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです!