
正しい欲とか理性とか、そんなものかなぐり捨てて
「恋」という文字は一見ファンシーに見えるけれど、それは幻想にすぎない。世間にそのイメージを可愛らしくコーティングされているだけだからだ。例えば、喜劇やおとぎ話。物語に恋模様が描かれればたちまち華やかになり、聴衆は皆耳を傾ける。例えば、占い。恋の行方を話せば皆占い師に釘付けになり、利益のある壺を売られたらその場で買ってしまう。恋とはそれほどにキャッチーなものだ。
けれど恋愛感情とは本来子孫を繁栄させることを第一の目的とした、本能に基づいた禍々しい衝動である。
ハッピーエンドを望むのは自分もそうなりたいから。壺を買うのは意中の人間と結ばれ、温かなベッドで共に眠りたいから。食べることと寝ること。それらと匹敵する欲求は時に人を狂わせる。
そう。私は今、狂わされている。目の前にいる彼女に。
***
「だ〜か〜ら〜〜〜どうしていつもロビンから抱きしめてくれないの」
「いいじゃない、いつもナミから甘えてくれるんだから」
ページを捲り、ナミの頭を撫でる。ナミはそれでも飽き足らず、人懐っこい猫のように顔を肩に摺り寄せた。
本を読んでいる時にナミが膝の上に乗るようになったのは、つい最近のこと。付き合って間もない頃は遠慮がちだったものの、欲しいものは自分で手に入れると言わんばかりに私に近付いては、こうして夜な夜なねだるようになったのだ。
「ロビンのケチ! あたしの身体なんて触ったところで減るもんじゃないのに勿体ないわよ」
「自己評価が高くて結構ですこと」
「もうっ、はぐらかさないでよっ」
時折ナミの、自分のことを高く見積もれる能力を羨ましく思う。真っ直ぐ愛されて育った証拠とも言えるそれは、私を後ろめたくもさせた。そんな彼女に、私は釣り合うのか。私から触れたら今度こそ壊れてしまうのではないか。私は彼女に求めることを止められるだろうか?
恋人同士とはいえ、大切なクルーでもある。そこの境界は守らなくてはならない。だからこそ制限する必要があった。
「もう今夜は遅いから寝た方がいいわ。明日も早いんでしょう? 航海士さん」
「その呼び方はやめて」
「冗談よ」
ナミはぷりぷり怒りながら、じゃあ寝る前のハグ! と言って私に飛びついた。ふわふわの長い髪から彼女のお気に入りのシャンプーの香りがした。
***
なかなか寝付けないので、枕元に置いてある香水に手を伸ばした。
ナミのシャンプーと同じ香りのするそれは、昼間に街の市場で見つけたものだ。世界的に有名なブランド製の、華やかな花の香り。これをひと吹きすれば眠りが良くなるかもしれない――そう思った時だった。
暗闇からくぐもった声が聞こえる。それは寝言と呼ぶには弱々しく、泣き声と呼ぶには高すぎる声だった。どうしたのだろう。 熱? 悪夢にうなされている? 不規則に弾むそれは聞いてはならないようで、けれど本能が耳をそばだてさせた。
息を潜めていると、やがて音は少しずつ形を成していく。
「……ん、っ、♡びん、♡♡っろびん……♡」
はっと息が止まる。聴覚が物音を捉え、脳内で意味を成すのにコンマ数秒。この部屋にいるのは二人だけ。幸いなことに、向こうは私が起きていることに気付いていないようだ。
「ぅうっ♡…ぁ♡♡」
嬌声に混ざる粘着質な音がそれらをより一層いやらしいものにした。
明日の洗濯当番、私だけど平気かしら。昔からの癖でこんな時こそ冷静になる。リスクヘッジは抜かりなく。それは航海にも恋愛にも言えることだろう。
明日の朝、どんな顔で挨拶すればいいのだろう。洗濯はやはりナミに頼んだ方が良いのではないか。ではその場合、如何に気付かれないように気遣うべきか。すっかり冴えた頭で考え事を始めた時だった。
「ろ、びん♡♡……っすきっ♡♡、すきだよ♡♡♡」
「――!!」
今度こそ息が止まり、心臓が跳ね上がった。
ナミはその行為で私を求めていた。
「恋」という文字は一見ファンシーに見えるけれど、それは幻想にすぎない。世間にそのイメージを可愛らしくコーティングされているだけだからだ。けれど恋愛感情とは本来子孫を繁栄させることを第一の目的とした、本能に基づいた禍々しい衝動である。例えば、喜劇やおとぎ話。物語に恋模様が描かれればたちまち華やかになり聴衆は皆耳を傾ける。例えば、占い。恋の行方を話せば皆占い師に釘付けになり、利益のある壺を売られたらその場で買ってしまう。恋とはそれほどにキャッチーなものだ。そしてナミも同様に、禍々しい感情を抱えていた。私よりも小さな身体で、ずっと一人で。
その時になって初めて私は、自分のことしか考えていなかったことに気が付いた。私には何もない、何も与えられない。だから手を出せない。それが彼女にとってどれだけ孤独であったかを知ろうとしていなかった。私はずっと、自分でねだることができる彼女に甘えていた。こんな時に本能のまま飛び込むことができたならば、彼女は救われるのだろうか。
理性で動いてばかりの自分をここまで恨めしいと思った日などない。生唾を呑んで部屋の照明を点けた。
「ごぎげんよう。魘されてるから心配で電気点けちゃった」
爽やかな笑顔を心がけ、何も知らないふりをする。部屋に残る多少の甘やかな空気を払うように、丁寧に声を掛けた。
「ま、待って、ちがうの、」
「何が?」
目の前の彼女は涙目になって私を見つめている。涙は女の武器とはよく聞くけれど、これは対男性だけではなく同性にも言えることなのかもしれない。けれど必死の抵抗も虚しく、ベッドの周りに散らかった下着が先の出来事を証明していた。
「その、これは、暑くて……」
「どうして?」
にこにこしながら尋問する。普段人前で泣かない子が目を真っ赤にしている姿が可愛くて、つい意地悪したくなってしまう。
「察しがいいなら分かってよ!」
「ごめんなさいね。最初から気付いていたわ」
ナミはみるみるうちに耳を赤くした。私は堪らず抱きしめた。
「ごめんなさい。悪いことをしたわ。寂しかったでしょう?」
背中をそっと撫でる。私よりも一回り小さいそれは小刻みに揺れている。
「……ならないで」
「なあに?」
「嫌いにならないで! あたしがこんなことをしていても、お願い、嫌いになんかならないで」
ナミはそう言うと、一層強く私に腕を回した。ぎゅうぎゅうと胴に巻き付くそれは、彼女の願いにも思えた。
何よりも彼女が私に対して求めてきたことが嬉しい。こんな私でさえ必要とされていること。彼女も彼女なりに理性と闘っていたこと。同じ部屋でふたり、似たようなことを考えていたこと。
「嫌いになるわけないでしょう。人間が持つ当たり前の欲求なんだから」
「こういう時ばっかり学者ぶっちゃってさ」
ナミはむくれながら私を小突いた。
「言い返せる元気はあるのね」
ナミがいつもの調子に戻ったことを確かめると、ベッド脇の香水のボトルを手に取った。
「何それ」
「香水。自分用に買ったけど、ナミにあげるわ」
「これ上等品じゃない? いいの?」
「いいのよ。貴女が使った方がこの香水も喜ぶわ」
ナミが蓋を開けて手で扇ぐと、花の香りが広がった。先の泣き顔とは打って変わったほころんだ表情をしている。
「これ、私が好きな香り――!」
「ごめん、ちょっと貸して」
ナミからボトルを奪う。自分の手首に一吹きし、不思議そうな顔をするナミの首に手を回した。そのまま耳の裏からうなじにかけて手を滑らせ、香りを移していく。ちらりとナミを盗み見ると、花の甘い香りにうっとりしている。
「やっぱり貴女に似合う香りだわ」
耳元で囁き首筋に顔を埋め、すんすんと香りを堪能する。私の好きなナミの香り。素肌に触れるまでに時間はかからなかった。
***
「おはようロビン。まだ寝てていいのよ?」
朝起きると、ナミは既に朝の支度をしていた。航海士の朝は早いのだ。数時間前の出来事が嘘のようだけれど、命を預かっている以上、太陽が顔を出している間は浮かれるわけにはいかないのだ。
「私も起きるわ。洗濯物を回さないと」
ぐちゃぐちゃになった衣類とシーツを見て二人して笑う。今後もこういう日が続くのかと思うと先が思いやられるけれど、それも悪くない。
「私も手伝うわ。みんなが起きる前にやっておきましょ」
「助かるわ」
こうして今日も一日が始まっていく。文明が発達しても、人類の進化は亀以上に遅い。だから私たちは飢えを恐れ、富を求める。それは昔から変わらないことだ。人と繋がることだって、きっと同じだろう。
「そうだ」
ぱたぱたとナミが近付いて、私に囁いた。
「もう少し激しくてもいいのよ?」
ハッピーエンドを望むのは自分もそうなりたいから。壺を買うのは意中の人間と結ばれ、温かなベッドで共に眠りたいから。食べることと寝ること。それらと匹敵する欲求は時に人を狂わせる。
そう。私は今、狂わされている。目の前にいる彼女に。