終焉 (1/3)


















サァアアアアア───────────…










どんよりと曇り始める鈍色の空。

今は梅雨の時期というわけでもないのに、最近のお天道様はあまり元気がないらしい。

まるで、空が泣き出したかのように。

先程までは晴れやかだった空が一変して、零れ落ちた小降りの雫が大地へと注いでいく。

やがて雨に包まれる湿った大地。

シトシトと草木が奏でる音色は心地好く、朝露の澄んだ空気が肺へと入ってくる。

次第に霧も出てきて視界を奪うが、そんなものは一切気にもせず一足先を元気に駆けていく小さな幼子の足取りは、やけに軽く。


パシャンッ。


幼子が踏み締めた瞬間ゆらりと波紋を生んだ水溜まりに、映り込んだのは綺麗な薄桃色。

それに気付きふと空を仰げば、今日も変わらず美しく咲き誇る桜の樹がそこに在った。



「ここの桜はいつも綺麗だね!父ちゃん」

「ああ、そうだね」

「でも、どうしてこの桜の木だけはいつもお花が満開に咲いてるの?他の桜は、雨が降っただけであっという間に散っちゃうのに」



人里から少しだけ離れたこの場所。

海が一望できるこの丘は辺りは森と断崖だけで何もないが、どこか神聖で清らかな力を強く感じる特別なこの地はこの国の民だけが知る古より伝承されてきた大切な聖地だ。

此処へ来るまでの道中。

娘が言ったようにここしばらく雨が続いていたせいで他の桜の花びらは全て散り果て、すっかり大地を薄桃色に染めた当の本人たちは既に緑へと染まり掛けているというそんな中でも、ここの大樹だけは不思議と一年中いつだって満開に咲き誇っている。

ひらり、ひらりと。

幾度散っても枯れることを知らない花びらが、男の掌にふわりと優しく舞い降りていく。

それだけで心が安らぐのは、やはり古くから伝わるあの"伝承"が真であるからだろうか。

この国で生まれ育った者ならば誰もが親より受け継がれゆく、かつてこの世界に存在したある一人の女性の話。

もう……この子だって赤子じゃない。

不思議そうに桜の樹を見上げているこの子にもそろそろ教えてもいいだろうと、娘の目線に合わせて腰を落とした父親はその小さな頭を撫でながら瞳を細めて優しく囁いた。






「それはね、この木には───……」










サァアアアアアアア────────…。







───────────────……
───────────……
───────……
─────……
────…
───…










──────少しだけ、昔話をしようか。


これは誰も知らない、遠い遠い昔のお話。

だけどお伽噺よりもずっとずっと残酷な話。

唯一。事実を知る者は、そう……。

当事者である“自分たち”だけ。



あれは、数百年も前のことだ。



『ねぇ……テラ、フィロ?』

『なんだい?』

『……どうした』



鈴音のような彼女の声が聞こえる。

ころころと玉を転がすみたいに笑う彼女の声音は、天界に生息する極楽鳥の囀ずりよりも遥かに美しいと……今でもそう思う。



『下界の海って、とても綺麗ね』



そう言って……ゆっくりと振り返った彼女は綺麗に笑っていた。

いつものように眼下に広がるあの青を羨望の眼差しで見つめては、叶いもしない自身の夢に少しだけ憂いの表情も滲ませて。

それでも彼女は焦がれてしまう。

例え"それ"が禁忌であったとしても。

いつしかあの青に心を奪われてしまった彼女の瞳は、もう俺を見てくれることはない。

自らの使命に目を背けてまでしてあの青に恋をしているのだと……そう気付かされたのは時既に遅いその瞬間だった。





この世界には誰もが欲したものがあった。


簡単には手の届かないものを。

美しく咲き誇る、高嶺の花を。


私欲のため、利益のため、快楽のため。

そして……永遠の命を得るために。

ただ一心不乱にその≪唯一≫だけを求めて、武器を片手に愚かな群勢は地を駆け抜ける。

その身がボロボロに朽ち果てるその時まで。

弱く脆い人々の手を踏みつけながら、多くの命を犠牲に自らの潤いだけを執拗に望む。

愚かな願いというのは地位や種族など関係なく皆考えることは同じで───だからこそ、彼女は何処へ行ってもいつも孤独だった。

こればかりはどうしようもない。

彼女こそが、神がお創りになられた最高傑作だったから────────……。



彼女は、特別な力を持っていた。

あらゆる怪我を治し、数多の悪しきものを浄化してしまうような……そんな癒しの力を。

さすがは神の愛娘というべきか。

治癒の力を持つ者は他にもごまんといるが、彼女の力の前では誰もが足元にも及ばない。

それくらい彼女の力は寛大であった。

何より花をこよなく愛していた彼女は他者にも分け隔てなく慈しみの心で対話し、人々の悲しみにそっと寄り添っては見返りのない愛情を与えられる心優しい人で。

ゆえに例えそれが悪意を持った相手だとしても彼女は自らを頼ってくる者を皆平等に迎え入れてしまう節があるため、おかげで"ここ"では異端者扱いをされることもあったろう。

正と悪はいつの時代も解り合えぬというのに、彼女はいつだって調和を願っていたから。

自らの理想を周りに理解してもらえずいつも聖と惡の狭間にぽつりと佇んでいた彼女は、ここ以上に争いの絶えない下界の大地を悲しげな瞳で見つめていた気がする。





やがて、彼女は堕ちてゆく。

何千年、何億年と果てなく続く神々の闘いの中、その戦乱に巻き込まれた彼女は真っ逆さまにあの青の世界へと堕ちていった。

それが悲劇の始まりだったことも知らず。

かつて"花の女神"だった偉大な彼女は、この大海原で"あいつ"と運命の出逢いを果たす。










───────────────……
───────────……
───────……
─────……
────…
───…










「花の女神様が宿っているんだよ」



刹那、ぶわっと辺りを柔らかな風が吹く。

仄かな甘い香りを風に乗せて宙を舞う花びらが、親子の身体を優しく包み込んだ。

その光景に思わず息を飲んだ娘が、瞬く間にキラキラとした眼差しで父親を見上げる。



「え!?お花の神様が?」

「ああ、そうだよ。この国の言い伝えによると、その女神様は聖なる癒しの御力でたくさんの人々の命を救った慈悲深い御方だそうでね。今から何百年も前の大昔、女神様はこの地で………当時既に朽ち果てていたはずのこの桜の木の傍らで、静かに寄り添うようにして永い永い眠りにつかれたのだそうだ」



これは、大人なら誰もが皆知っている話。

ある日突然海から現れたかと思えば地をその脚で歩いただけで朽ちた大地に生命の息吹を咲かせてみせた彼女は、時に病に苦しんでいた人々を不思議な力で救ってみせたという。

また、彼女はこの国の気候に合う様々な作物の種を恵んでも下さり、民と一緒になって畑を耕してはかつてこの国を豊かにしてくれた先人でもあったと祖父が教えてくれた。

世界を見て回っているのだと言う彼女の目にはいったい何が映っていたのかは判らないが、『いつか差別のない、世界中の人々を笑顔にするのが私の夢』だとどこか哀しげに。

だけど芯の強い眼差しでそう語った彼女の容姿はその背に真っ白な綺麗な翼さえなければ、何らその辺りにいる町娘と変わらず。

されど、大層美しい女性であったそうだ。

春を象徴するかのような撫子色の長い髪はまるで彼女の人柄を映すかのように温かく、そんな彼女の隣にはいつも仲睦まじく寄り添う若い男性がいたらしい。

この国の民にも勝る強さを持ちながら、朗らかに笑う太陽のような人だったと聞く。

夫婦とか恋仲という話しまでは伝わっていないが、きっと大変仲が良かったのだろう。

かつての二人の仲を描くように海に聳え立つ女夫岩を見つめながら、父親は娘の頭を優しく撫でて言葉を紡いでいった。



「そしてその不思議な御力は、今この瞬間もずっと生き続けている。だから、この桜だけは絶対に枯れることがないんだよ」

「わぁ、凄い!神様は本当にいるのね!良いなぁ、私も女神様に会ってみたいな」

「はは、そうだね。女神様はいつだってここに居て、私たちを見守ってくれている。願い続けていればいつかきっと叶うさ。……さあ。それじゃあいつものように女神様に手を合わせようか」

「うんっ!」



そう笑い合って桜の樹に手を合わせる親子。

人を愛した彼女はそんな親子の会話を聞きながらきっと優しく微笑んでいることだろう。

そして生まれた時から穏やかな平和だけを祈り、必死に神へとすがるそのか弱い手を救ってあげたいと、彼女ならそう思うはずだ。









だけど……彼らは知らない。




『本当に……行ってしまうのか?』



何故、かつての親愛なる友たちを捨ててまで、天上の女神は地上へと堕ちてきたのか。



彼らは知らない。



『私はずっと、この景色が見たかった』



彼女が何の為に全てを捨て去り、そして、何の為にここで生きていく決意をしたのか。



彼らは知らない。



『あの娘を捕らえろ!絶対に逃がすな!』



彼女がその力を持ってしまったばかりに、今までどんな仕打ちに合ってきたのか。



彼らは知らない。



『この娘はもう役に立たん。殺してしまえ』



彼女がいったいどのような屈辱をその身に受け、そしてどのように最期を迎えたのか。



それを知る者は────────……。

かつての彼女の友たちと、そして……。





『……………フローラッ!!!』





彼女を誰よりも愛した、"あの男"だけ。










ザァアアアアアアア────────…。







───────────────……
───────────……
───────……
─────……
────…
───…










鳴り止まない、雨の音。

次第に雨脚を強める、土砂降りの雨。


いつしか親子は帰り、ひっそりとした聖地には今や一人の男の影が一つだけ。

激しい雨を受けているその男の白い髪や頬から、ぽたぽたと雫が幾つも伝い落ちていく。







ザァアアアアアアア────────…。







こんな日は決まって多くの赤子が泣く。

空を見上げて怯えるように赤子が泣く。


だけど、彼女の子守唄は聴こえない。

だから赤子は泣き続ける。

大人には聴こえない、彼女の声を探して。


そういえば、彼女が天に還った日も。

このような土砂降りの雨だった。







ザァアアアアアアア────────…。







───────────────……
───────────……
───────……
─────……
────…
───…










はらり、ひらり。


雨と共に二人を包み込む幾千の花びら。

ああ……薄桃色の花が散る。

彼女にとっての最期の花が─────……。




『……貴方に逢えて、良かった………』





蘇る映像は数百年も前の記憶。

あの頃の情景は今でも思い出す。

彼女の最期と、そして………彼女の最期を看取った、"あの男"の決死の覚悟を。

両脚を失い、身体の中も無惨に破壊され、純白の羽さえ無惨に引き裂かれた翼は見る面影もなく赤に染まりボロボロで……。

そんな痛々しい彼女の身体をありったけの力で抱き締めているあの男の顔は、彼女以上に悲痛な表情をしていたように思う。

大切な者の顔を最後になって見ることが出来ないでいる彼女は、視力を失ってでも必死に伸ばした手を男の頬に当てて、最期まで綺麗に微笑っていた。



『……愛して、います………』



ほろりと、溢れた涙が一粒。

それだけを最後にあの男に伝えて、彼女は静かに息を引き取った。

あの男の腕の中で、安らかに。

原形が判らぬほど見るに堪えない姿だったけれど、それでも彼女は幸せそうだった。

自らが選んだ道は間違っていなかったのだと……そう、悔いの残らない穏やかな顔で。



『おれも、愛していたよ……。何度生まれ変わったってまたお前に逢いたいと思うくらいに、おれはお前のことが好きだった』



まるで、後悔にも似たような声。

彼女に伝えてあげられなかったことを悔いているような悲壮感に満ちた声音で呟いた男の声は、彼にしては珍しく弱々しく。

震える声は泣いているようにも見えるが、しかし雨に濡れているせいでその頬に伝うものが雨なのか涙なのか、その真意は判らない。

されど、彼女の頬にさらりと掛かった髪をそっと避けて血の滲むその唇へと口付けた彼が纏う覇気は、まさに地獄の炎のように轟々と燃えて禍々しく。

やがて残された者は憤怒で我を忘れており、静かな怒りに身を震わす彼の顔は決して穏やかなものではなかった。



『また、必ずここに戻ってくる。全部終わったら絶対にお前に逢いに行くから……だから、もう少しだけ待っててくれ』



そう言って、立ち上がった彼。

すぅ……っと桜の樹に溶け込んで消えてしまった彼女を想い、彼は桜に誓いを立てるとこの地を振り返ることなく去っていった。

あれからもう、数百年。

あの時の彼との誓いを標に、静かにこの地で待つ彼女は今でも彼との約束を覚えている。



「いつになったら貴女の元に帰って来るのだろうな、あいつは………」



あれから彼は一度も姿を見せてはいない。

彼は、"自分たち"とは違って人間だ。

彼が何故約束を守らないのか……その意味は自分も、彼女とて痛いくらいに判っているだろうに、それでも彼女は待ち続ける。

いつかきっと彼が迎えに来てくれるのだと、それだけを信じて。

相変わらず一途に彼を想う彼女に今となっては苦笑が溢れてしまう白い男性は、それでもかつて彼女を密かに慕っていた恋心を胸に、その微笑は儚げだった。

紫苑色の瞳が桜の樹を見上げたかと思うと、ふわり……とその背に白い翼が姿を現す。



「また、逢いに来るよ。今度こそ良い報せを持って。……予感がしているんだ。きっともうすぐ、あいつは貴女との約束を果たしに来るって……。そんな気がする」



彼女に伝えた言葉に確信はない。

けれど、近年の海は何かを察しているかのように生き物たちが騒いでいるのは確かで。

この予兆を少しでも期待してもいいというのなら、彼女が愛したあの優しい"海"がまた目覚めてくれることを願いながら。

それだけを言い残し、彼は飛び立った。








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