その女の子を視界に映したのは、本当にたまたまだったと思う。けれど、この出会いは運命なのではないかと錯覚するほど、ぼくにとっては衝撃的だった。
 恋などというものにはトラウマがある。とある過去の事件から「もう二度と恋なんてするものか」と頑なになっていた。運が良いのか悪いのか、ぼくの周囲には素敵な女性が多くいたけれど、それでも恋にまで発展しなかった。だと、いうのに。
 多分、一目惚れ、というやつだった。
 その女の子と目があった瞬間、視界が華やいだ。彼女だけがぼくの世界にいて、彼女の世界にもぼくだけがいれば良いのにと思った。そんなこと、ありやしないのに。今思えば、何とも馬鹿げた考えだ。
 彼女はぼくと目が合った後、ぱちりと瞬きをひとつしてから柔らかく目を細めて遠慮がちに微笑んだ。
 ああ、なんて可愛らしいんだろう!
 阿呆みたいに惚けてしまって、彼女を困らせてしまったかもしれない。それでも、彼女を見つめることに無心した。真宵ちゃんに声をかけられるまで、いや、それとも彼女が勤めるお店のオーナーさんに声をかけられるまでだったか、そんなことは忘れてしまったけど、とにかくぼくは誰かに呼ばれるまで一心に彼女を見つめていたのだった。



 ぼくの心をいとも簡単に奪った彼女は、あるメイドカフェのメイドさんだった。メイドカフェといっても、そこは一般的にイメージされるキャピキャピとしたもの――例えばオムライスに美味しくなる魔法をかけたりだとか――ではなく、クラシカルなメイドカフェというやつらしい。中世ヨーロッパで貴族の屋敷をイメージしていて、実際に給仕していたメイドを模倣している、というのがオーナーの話だ。そのため、カフェで給仕している女の子たちは皆、白いメイドキャップを被り、長袖で足首辺りまでの長さがある黒いワンピースに、白いエプロンを身につけている。エプロンには肩紐と裾にふわりと波打つフリルがついている。彼女以外のメイドさんを見ても何とも思わなかったけれど、彼女のメイド姿は有り体に言えば「天使」だ。

「ね、ね、皆可愛いね! ナルホドくん!」
「ん? ああ、そうだね」

 テンションが上がった真宵ちゃんに、ぼくは空返事した。早いところカフェで起こった事件について話を聞かなければならないのに、ぼくの目は彼女に縫い付けられてしまっている。

「ああ、そういえば、あの子も事件当日に出勤してたなあ」

 ぼくの視線の先を見たオーナーがぼやいた。え、と傍にいたオーナーを見ると、彼は口を片手で覆って声を張り上げるところだった。

「おーい、風林寺! 悪いんだけど、弁護士の先生が話を聞きたいってよ!」

 おいおいお客さんの前でいいのかよ、と思いながらも彼女の苗字を知ることが出来て内心テンションは爆上がりだ。というか、事件は解決していないというのに、営業していて問題ないのだろうかと密かに思う。きっと営業しない方がお店にとっては死活問題なのだろうけど。……うう、ぼくにも余裕がほしい。
 お客さんの相手をしていた彼女――風林寺さんが振り向く。また、目が合った。風林寺さんはお客さんに身体を向けてそれは綺麗にお辞儀をしてからぼくの方へ歩いてくる。所作ひとつひとつがとても綺麗だと思った。歩く姿も凜としていて、ふわりと揺れる艶やかな黒髪ときらきらと輝く瞳にますます心は奪われるばかりだ。
 目の前に立つ風林寺さんに頭がくらくらとした。甘やかな香りが鼻腔を擽って、ああこれが彼女の匂いなのかと変態じみた感想を抱いた。ダメだ、すっかりやられてしまっている。
 風林寺さんは少し戸惑ったようにオーナーの顔を窺った。そりゃ、突然呼び出されたら戸惑うよなと申し訳ない気持ちになる。

「じゃあ、すんませんが、裏の方で話させてもらっていいですか」
「ええ、もちろんです」

 オーナーががしがしと頭を掻いて歩き出す。せっかくアンティークな良い雰囲気のある店内なのに、オーナーがこんなんで良いのだろうか。真宵ちゃんがそっとぼくに耳打ちする。「このオーナーさん、雰囲気壊してるね」……うん、ぼくも思ったけど、聞こえないようにね。
 従業員専用の部屋がそちらにあるらしく、オーナーが向かう先の茶色い扉から入れ替わりでメイド服に着替えた女の子が店内に入った。「お疲れ様です」と挨拶を交わしながら訝しげな表情でちらりとぼくたちを一瞥していく。けれどすぐに興味を失ったようで、誰にともなく一礼をしてから給仕へと向かった。
 珈琲や紅茶、そしてカップや皿といった陶器が並ぶスペースを抜けて、従業員専用部屋へと入る。中は思っていたより広くて、さらに一室、おそらく女の子たちの更衣室があった。
 休憩スペースには長机が二脚並んでいる。その周りにはパイプ椅子が数脚置かれていて、部屋の右奥には机とデスクトップパソコンが置かれている。おそらくオーナーの仕事用だろう。オーナーは仕事机の前にある椅子の向きを変えて、どかりと座った。何だか横柄な態度が見え隠れしている。本当に、このカフェの雰囲気とそぐわない男だ。その場で立ち尽くしているぼくたちに「どうぞ」とも「座って下さい」とも言わない。勝手に座れ、ということだろうか。

「あの、こちらへどうぞお座りください」

 黙ってぼくたちの後ろをついてきていた風林寺さんがパイプ椅子を二脚引いて、ぼくたちが座れるようにしてくれた。緩く腰を曲げて、椅子に向かって手を差し出している。「ありがとうございます!」と真宵ちゃんが真っ先に返事をして椅子に座る。ぼくも真宵ちゃんの後に続いてありがたく座らせてもらった。

「今、紅茶をお持ちしますね」
「あ、いや! そんな、お構いな――」
「風林寺、おれは珈琲な」
「かしこまりました」

 ぼくの言葉を遮って注文するオーナーに思わず眉が寄った。風林寺さんは気に留めた風も見せず一礼する。顔を上げた風林寺さんがぼくを見て申し訳なさそうに笑った。

「申し訳ございません。珈琲か紅茶か、先にお伺いするべきでした。お好みはございますか?」

 至極丁寧に訊ねる風林寺さんに顔がにやけそうになりながら珈琲をお願いした。その後、このタイミングで珈琲を頼むなんて嫌味だったかもしれないと気付いた。既に風林寺さんは部屋を出て珈琲と真宵ちゃんが頼んだ紅茶を取りに行っている。
 風林寺さんが戻ってくるまでの間にオーナーの名前を訊いて、今回の訪問の趣旨を説明した。まあ、言わなくても重々承知しているとは思うんだけど。オーナーの男は一々不遜な態度で返事をするもんだから、隣の真宵ちゃんが不満そうだ。ぼくも少しだけ、苛立ちを感じてしまう。こんな男が風林寺さんの上司だなんて、風林寺さんがストレスを抱えていないか、何か嫌なことをされていないか心配になってしまう。なんて、今のところ余計なお世話でしかないのが悲しい。
 ガチャ、と音を立てて、背後の扉が開いた。風林寺さんがティーセットを乗せた焦げ茶色のワゴンを押して入ってくる。自分も部屋の中に入ると、ぱたんと扉を丁寧に閉めた。その様子をじっと見つめていると、風林寺さんがぼくを見てきょとりと目を丸めた後、照れたように笑みを浮かべた。控えめに言って最高に可愛い。あ、よく見ると風林寺さんの瞳って菫色をしている。水晶のように光を反射して煌めく瞳はずっと見ていたいほどに綺麗だ。とても珍しい色彩で魅入ってしまう。

「お待たせいたしました」

 風林寺さんはワゴンの上で紅茶や珈琲をカップに入れた後、ぼくや真宵ちゃんの前にカップを置き、そしてオーナーにも珈琲カップを運んだ。オーナーは「おお」と一言だけ発し直接風林寺さんからカップを受け取る。

「ありがとう、風林寺さん」
「! ……いえ、とんでもございません」

 笑ってお礼を言うと、風林寺さんは少し驚いた後、ほんのりと頬を染めて控えめな返事をした。お礼を言われ慣れていないのだろうかと思うほど、何だかピュアな反応だ。
 その時、「……チッ」と舌打ちが耳に届いた。風林寺さんがぴくりとかすかに身体を揺らすのがわかった。

「風林寺さんも座ったら?」

 ぼくが提案すると、風林寺さんは眉尻を下げて首を振った。いや、でも、立っててもらうのもなあ、と頬をかくと、

「風林寺も座れ。なんなら俺の膝の上でも良いぞ」

オーナーがワハハと下品に笑って言うもんだから、またもぼくは眉を顰めてしまった。膝ってお前、何のつもりだよ。セクハラじゃないか。
︎︎ 真宵ちゃんがドン引きしている気配が伝わってきて、少し危機感を募らせた。今はまだ、余計なことを言うわけにはいかないのだ。ぼくだって腹が立ったけれど、ここで暴走してはいけない。

「いえ、椅子で結構です」

 風林寺さんはきっぱりと断って、ぼくの向かい側の席へと回り込んで座った。動揺しない風林寺さんに感心すると同時に心配になった。いつもこのようなことをされているのだろうか。
 椅子に座った風林寺さんはまっすぐにぼくを見つめてきたのでドキドキと胸が高鳴った。可愛らしい顔つきをしているけれど、凛とした表情に力強い瞳が彼女を儚くも美しく見せる。思わずうっとりと見つめてしまいそうで、ぶるんと首を振った。風林寺さんがきょとりと目を丸めて首を傾げる。
 と、風林寺さんの前にはカップが置かれていないことに気づいた。自分はメイドだからって遠慮してしまったのだろうか。ホール外でまで忠実にやらなくても、と思ったが、何となく彼女らしいと思った。とはいえ、風林寺さんだけ飲み物がない状況は申し訳ない。
 それにしても、こんなに丁寧にもてなされるのって初めてではないだろうか。いつもなら現場検証のために警察が出入りしていて、それどころではないと思うんだけどな。数日経っているとはいえ、この落ち着きぶりは何なのだろう。

「さて、事件のことだったかな」

 おもむろにオーナーが口を開いた。椅子に座りふんぞり返っている彼は、どこか不機嫌そうな表情をしている。

「まったく迷惑な話だよね。おれのカフェで人が死なれちゃ、商売上がったりだよ」
「営業再開まで、早かったですね。お客さんも多く入っているようですし」
「そら店やんなきゃ、生活かかってるんだから。休業は命取りなわけよ」
「ま、まあ。そうですね」
「まったく、犯人ももう捕まってるのに、今さら何を聞きたいんだ? さっさと犯人を裁いてくれればいーの。ねー、佳音ちゃん」

 オーナーが猫撫で声で風林寺さんに同意を求める。風林寺さんの下の名前は佳音と言うのか、と彼女についてまた新たにひとつ知る。けれど、そのきっかけがオーナーが彼女を呼んだことっていうのは釈然としない。というか、何名前で呼んでるんだよ。さっきまで「風林寺」だっただろ!
 もやもやとしながら風林寺さんの様子を窺うと、風林寺さんは困ったように笑って何も言わなかった。

「もしかしたら、彼女が犯人ではないかもしれない……と言ったら?」

 オーナーがぴくりと反応した。風林寺さんもまたハッとした表情でぼくを見たのがわかった。
 彼女、というのは、今回このカフェで発生した毒殺事件で逮捕された姫嶋ゆかりのことだ。彼女には客として来店した男性ーー来栖隆(くるすゆたか)のカップに毒を混入させ殺害した容疑がかかっている。しかし、拘留所で面会した姫嶋ゆかりの主張は「わたしはキッチンから出された紅茶を出しただけ」というものだった。カウンターキッチンのこの店では、メイドはカウンターに置かれた飲み物や料理をワゴンに乗せて運ぶだけであり、何かを入れようとすれば第三者に見られてしまう可能性がある。今のところ、彼女が何かを入れたところを見たと、このカフェのオーナー、および従業員たちは証言しているが……。
 どこか作為めいたものを感じる、というのがぼくの率直な感想だ。

「他に犯人がいるって? どいつだよ、それは」
「それを調べるためにこうして話を聞きに来たのです」
「お話にならないね。俺だって裁判の時証言台に立つんだよ。その時に聞きゃ良いんだ」

 脳内でかの天才検事の「お話にならない」という声が響いた。同じことを言われているが、オーナーのそれはただただ腹立たしい。

「では彼女から話を聞きたい」
「はいはい。聞けばいーでしょ、聞けば。ごめんねえ、佳音ちゃん。相手してやって?」
「は、はい」

 風林寺さんは戸惑ったように頷いた。

「えっと、事件当日のお話、ですよね」
「うん。お願いできるかな?」
「はい。……」

 風林寺さんはまたひとつ頷いたと思うと、ちらりとオーナーを一瞥した。その様子に違和感を覚える。

「あの、わたしも、事件当日のことは皆さんと同じ内容しかお話することが出来ません」
「え?」
「ですので、ここでお話するだけ、弁護士さんの時間を無駄にしてしまうかもしれません」
「は、はあ。……?」

 風林寺さんの言い様に、またしても違和感があった。ぼくにはこうも聞こえた。
「ここでは話が出来ない」と。

「そーそー。話するだけ無駄なのよ。さすが佳音ちゃんだなあ。そういうことだから、悪いけど早く帰ってくれない? 佳音ちゃんも仕事があるし」

 オーナーが上機嫌で言う。ここで食い下がっても良いが、風林寺さんの言う通り「ここでは皆と同じことしか話せない」のであれば、これ以上話を聞いても仕方がない。問題は、この後どうやって風林寺さんから話を聞くか、だ。
 ぐい、と出された珈琲を飲み干す。程よい苦味と淡い酸味。いつもインスタントくらいしか飲まないが、豆から挽いているらしいここの珈琲はとても美味しいと感じた。おそらく紅茶も美味しいに違いない。隣で真宵ちゃんが急ぎめに紅茶を飲んだ。

「お見送りいたします」
「え? あ、ああ、ありがとう。……お時間頂きまして、ありがとうございました」

 形式的にオーナーへ挨拶をし、ひらひらと手を振るオーナーを尻目に従業員部屋から退室した。後ろから風林寺さんがついてくる。
 ここで話せない、ということは他の従業員に聞かれてもまずいだろう。どこで話を聞けばいいんだと考えをぐるぐると巡らせた。店の外か? いや、でも、戻ってこない風林寺さんを不審に思うかもしれない。
 そうこう考えているうちに、風林寺さんがサッと前に出てお店の扉を開けてくれた。ここで立ち止まるのもおかしいので大人しく外へ出ると、風林寺さんも外へ出てぱたりと扉を閉めた。

「成歩堂さん」

 風林寺さんがぼくを呼んで、どきりとした。彼女の落ち着いた声が心臓の裏側を撫でたようだった。

「仕事の後になってしまうのですが、事務所にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「え、ど、どうして?」

 ぼくの代わりに真宵ちゃんが訊いた。風林寺さんは微笑を浮かべる。

「お話したいことがあります」
「でも、さっきは」
「うん、わかった。待ってるよ」

 真宵ちゃんの言葉を遮って、ぼくは頷いた。風林寺さんはどこかほっとしたように息を吐いて「ありがとうございます」と小さな声で言った。


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