一 gott ist tot


『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。(中略)だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。』
 ――坂口安吾『堕落論』筑摩書房 より引用




Gott ist tot神は死んだ……かのニーチェも科学世界の台頭を予見してそう言ったではありませんか。神なんているわけがない」
週刊誌の編集部デスクで私は斜め前に座る上長に向かってそう唾棄した。

雑然としたオフィスの中は、古びたリノリウム張りの床に紙類が散乱している。とてもJIS規格に準拠しているとは呼べぬ薄暗い部屋の中で、私は目の前で手をこまねく気弱な上司----編集長がまたもきな臭いネタを持ってきたかと睥睨する。

「まあまあ、今回はそうもいかないみたいよ」
彼はそれに臆することなく、手にしていた数枚の写真を机の上に広げた。
写真には一見共通点のなさそうな男女が、それぞれ正面から胸部より上を切り取られる形で写っている。
だが、共通点はあった。
全員が揃いも揃って気味の悪い満面の笑みを浮かべている。口角を限界まで引き上げ、目を三日月のようにして皆一様に同じ表情を見せていた。

「何です、これ」
「タレコミがきてさ、最近急速に信者数を増やしているとある新興宗教----実態としてはカルトだね……の“元”信者たちの写真なんだけど」
「元?」
「あまりにのめり込みすぎて、全財産を献金して家を飛び出す勢いだから、信者の家族が無理やり教団から引き離したらしいんだ」
これはその後撮られたものだね、と上司は写真をなぞって、ため息を吐く。

「けどね、戻らないんだって」
「?」
「教祖が神と崇められているレベルの相当なカリスマらしい。引き離した後も、元の人格に戻らなくて、ずっとこんな表情のまま一日中祈りなんかを捧げて廃人同然みたいよ」
はあ、と気の抜けた返事が出て、視線を写真に戻す。
まるで生気を感じさせない、笑顔を切り取って張り付けたような顔。……この顔は、私もよく知っている。

「……それで、どうしろと」
私の言葉に待ってましたと言わんばかりに編集長の顔がきらきらと輝く。末端編集員の私に、拒否権など当然ない。
「教団の信者たちは教祖の下で集団生活をしてるらしいから、潜入調査して教祖の素顔をすっぱ抜いたらスクープになると思わないか!?」
「あー……そういう……」
私の嘆息は、薄汚れたロックウールの天井に吸い込まれて消えた。下衆で、下卑た週刊誌は、こういうネタでいつも飯を食っている。それはこの編集部が廃刊に追い込まれない限り、ずっと続くサガみたいなものだ。

「なんでも教祖はとんでもない美貌の持ち主らしいじゃないか!」
「なんで私なんですか」
「俺たちは色々嗅ぎ回りすぎて面が割れてるんだけど、君は異動してきてまだ三ヶ月だからバレないだろうし……何より君、宗教二世だろう?」

しん、と静まり返った部屋の中で、ファクシミリのダイヤルアップ接続音がよく響く。
沈黙は時計の秒針が一周するまで続いた。
「……これ、出張扱いですよね?」
「もちろん!手当はバッチリつけるよ〜」
「もう一度言いますが……元二世ですけど、私は無神論者ですから。さっさと調べて切り上げますからね」

じゃあ決まりだね、期間は三ヶ月くらいでいいかな。編集長はご機嫌な足取りで席に戻って行った。
調べると、その教団は平成初期を彷彿とさせる簡素なホームページが作られていた。スクロールすれば、解像度の低い自己啓発セミナーの案内が画像で貼られている。

新興宗教の入口は、概ねこんな自己啓発セミナーを謳ったり、ヒーリングセラピーといった存外身近にありそうなところに設けられている。初めは関係ない話をして、少しずつ自分たちの“信仰”の話に持ち込んでいく。

宗教は、弱者のための道徳だ。
愚か者が縋るための、都合のいい道徳。
強者は悪で、弱者は善。そんな虫のいい思想の構図(ルサンチマン)は、今もどこかで根強く残っている。
毎週日曜日の朝に教団の本部らしき場所で行われているそれに目を通して、申し込みメールを打った。パソコンを閉じる。
予定表のホワイトボードの自分の名前の欄に、“来週より出張”と書いて私は会社を出た。

一時間ほどで年季の入った郊外の戸建ての自宅に帰って、ただいまと暗い室内へ声をかける。当たり前だが、返事はない。長らく一人でこの広すぎる家に住んでいる。

決して帰ってはこない住人を、ずっと待っているから。

すぐには帰ってこられないだろうから、部屋を片付けることにした。四人掛けのダイニングテーブルには、無数の本が聳え立つ塔のようにいくつも重ねられていた。

何冊か手に取って鞄に突っ込む。紙の本は手に感じられる重みがあって好きだ。どこであっても私の指針となる、北極星のようなもの。思考の澪標であり、灯台であるもの。


日曜日。二時間に一本しかないローカル線に揺られて、降り立った駅では私以外誰もいないようであった。無人改札をくぐれば、そこには私と同じくらい年の女が待ち構えている。なんの飾り気もない白い装束を纏っている女は、この田舎の無人駅ではどう見ても不釣り合いなほどに浮いていた。

「どうも……」
私が声をかけると、ようこそおいでくださいました、同志よ……。そう言って女は目尻に涙を浮かべていた。まだ同志ではありませんし、これからも違います。喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

迎えの車が来ているのでそれで向かう、と言われそばに停められていたバンに乗り込む。運転席にはまた同じ白い装束を着た男。彼もまた女と同じように私がやってきたことへの賛辞を述べた。
「なぜこの教団に?」
誰もいない寂れた街を走る車の中で、隣に座る女に尋ねた。まだ若い彼女がなぜ入信をしたのか、それが気になっていた。

「もう生きるのが辛くて辛くて、人生を終わりにしようと思っていた時期があったんですが……そこにミヤさまが現れたのです!」
ミヤサマ——その教祖の名を口にした女は途端に何かのスイッチが入ったようだった。
「教祖様の素晴らしい“治療”で、心の痛みがすーっと引いていったんです!あれは奇跡の他に何と呼べる代物でもありません!あなたも一度お会いすればミヤ様がいかに素晴らしいかお分かりになると思います!」
車内に声高な女のセールストークが響いた。頬は紅潮し、唇は歓喜のあまり震えている。
「そうなんですか……」
女の話に適当に相槌を打って、私は考えを巡らせた。新興宗教にありがちな、信仰対象が不可視の神ではなく教祖に対する個人崇拝のパターンか。きな臭さがますます増していく。

女は教典だという一冊のパンフレットほどの厚みの本を私に差し出した。パラパラとめくってはみたものの、大したことは書いていない。とにかくその教祖についていけさえすれば、人類は救われるであろうといった内容だけが婉曲的に並べられている。

薄っぺらい教義に、なんだか拍子抜けしてしまった。こんなあやふやで頓珍漢なものを信じろと言われる方が難しい。

……逆に、この程度の内容にのめり込む彼らが恐ろしいと思った。写真で見た信者たちは、信仰を超えて心酔や崇拝の域にまで達していた。演技でできるような顔つきではない。恐らくこの教団としてハマらせるような何かが裏にある。直感がそう囁いた。



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