プロローグ
将来にぼんやりとした不安があった、とかの文豪はそう言って自らの命を絶ったらしい。
私たちの中にあるのはそうした不安だろうか。兎にも角にも、私たちの肩には言い様のない暗澹たる何かがのしかかっていて、訳も分からぬまま、その何かが何であるかすら知り得ぬまま、お互いの手を取って飛び出した。
潮風はいきものが死んで、輪廻という輪を廻る時の、生臭い匂いがする。
海は凪いでいる。ウミネコが船と並行するように悠然と飛んでいた。
遊覧船は波に抗うように、岩礁の島々を縫ってその巨躯を上下に揺らしながら進んでいた。
「伊勢のフェリーに乗った時の方が揺れが酷かったね」
「台風のせいで海が時化てたからね」
デッキの手すりに身をもたれている隣の男は特段興味がなさそうに海の上に連なる景観に背を向けて私の問いに答えた。
「松島綺麗だねえ、あの小さめの島とかどう?」
「松島はダメだよ。すぐ見つけられて助かっちゃうかもしれないでしょ」
「倫太郎、足摺岬でも同じこと言ったよ」
「だってあそこは自殺の名所だし」
「やっぱ海ダメじゃない?山とかにしようよ」
「次は北海道あたりを見てみたらいいんじゃない?広すぎて誰も見つけられなさそう」
「北海道いいね、最後の晩餐が豪華になるかもよ」
私たちの会話は吹き荒れる風に流されて、誰の耳に届くことはない。
私と隣の男——角名倫太郎は、長いこと己が死地を求めて方々を彷徨い歩いていた。
*
「ドライフラワーって、考えた人は余程執着心が強いに違いないと思うの」
私が喫茶店の隅でそう持論を述べている間、角名倫太郎は火をつけたばかりのマルボロの先端をなんの感慨もなく眺めていた。
「どうして?」
「いつか枯れる花を綺麗なまま永遠に取っておこうと考えるのがその証拠」
「誰だって花は綺麗な方が良いと思うけど」
彼は煙草を一度吸って、また灰皿の縁に置いて答えた。紫煙が鼻腔の奥をくすぐる。
「だったら買い換えたりまた育て直せば良いのに、水分を奪ってカラカラにしてまで保存しようとするなんてやっぱり執着の代物なんだと思うよね」
昭和のレトロさを感じる照明の暗いボックス席のテーブルには、カップ一杯のコーヒーとガラス器に乗せられた固めのプリンアラモードが鎮座している。
彼はまた煙草を唇につけた。そしてまだ半分以上残っているそれを灰皿に押し付けて揉み消した。「日課ではなく趣味」、と倫太郎は煙草を吸う事に関してそう言っていた。気が向いた時に吸って、気が済んだら消す。私は私の恋人が時折部屋のキッチンの隅の換気扇の下で、ぼんやりとその火を燻らせている横顔が好きだった。
「みんな愛着が湧いたら綺麗なまま取っておきたいし手放すのが怖いんでしょ」
「だからね、私、ドライフラワーみたいに死にたいの」
密かに隠し続けていた願望を言葉にすれば、その声は昂揚と緊張で上ずっていた。
倫太郎は感情の機微をおくびにも出さず、薄い虹彩をした双眸で、私の顔をじっと見つめてはおもむろに口を開いた。「どういうこと」
「綺麗なまま死にたいってこと」
醜く老いさらばえることの恐怖。他者の記憶に長く残り続けたいというまるで宿痾のような、或いは呪詛のような強迫観念が私の中に強固にこびりついていた。
「どうやって?」
「自分で死ぬのが一番だけど、私は倫太郎と死にたい」
「心中したいってこと?」
「そう」
「ふうん」
今夜の夕食の献立を打診されたかのような気軽さで、彼はコーヒーカップを傾けてはそう返事をした。
「嫌ならいいの。でも私が死んだあと倫太郎が別の人のものになるのも腹立たしい」
「じゃあ、死に場所を探そう」
「えっ」
倫太郎は伝票を持って立ち上がると、私の分まで会計を済ませて振り返った。
「いいよ、一緒に死んであげる」