断片:オフィーリアのバスタブ


色とりどり、規則性もない花束を両手に抱えてアパートの一室に帰ってきた私を見て、同居人の彼は微笑混じりの驚嘆を浮かべてそれを出迎えた。

「何、何……今度は花屋でも開くの?仏花じゃなさそうだし」
「ううん。駅前の花屋さんを通りかかった時、ハッと閃いたの。今からオフィーリアごっこをしなきゃって……」

スリッパを突っかけて会話もそこそこに私は風呂場へと駆け込んだ。秋の終わり、木枯らしが吹くような寒さで、ひんやりとしたタイル床は足裏の熱を一瞬で奪う。

「また変な天啓じゃん」

ビニール包装に包まれた花束を傍らに置くと、背後から呆れたような声がついてきた。

「ひらめきと死はまるで霹靂のようだ、ってマルサ・リーケンスも言ってた」
「実在しない偉人の言葉を引用しないでくれる?」

同居人——角名倫太郎は、私が蛇口を捻ってバスタブに水を注いでいるのを後ろから覗き込んで、そう言った。彼の声が壁のタイルに反響する。

「動機なんて別に何でもいいんだけど、シェイクスピアの『ハムレット』の中の、あのオフィーリアみたいに、小川に身体を沈めながら死んだらすごく素敵だと思うの」
「また発作が出てるよ」
「そう?」
「悪い癖。一人で死なないって約束でしょ」

耳元で吐かれた紫煙が、視界の端を揺蕩う。

「大丈夫だよ。これは予行演習だから」
私は振り返ると、彼の腰に両腕を回して、少しずつ力を込め抱きしめた。彼の着ている薄手のVネックの長袖Tシャツ、その布切れの下で、彼の血液は循環し続けている。少しぬるい体温。まだ大丈夫だから、と繰り返し言の葉を紡ぐ。

彼はまだ生きているから大丈夫。これはまだ予行演習だから大丈夫…………
「それよりもさあ、」彼は半分ほど満たされた浴槽に視線を遣って、それから頭ひとつ分低い私を見下ろした。
「それ、お湯じゃないよね」
「そうだけど?」

私がその疑問に首を傾げていると、倫太郎は大仰なため息を吐いて私の頬を指でつねった。

「当然みたいな顔してるけど、この時期に水風呂は風邪引くと思うんだよね。サウナ上がりじゃないんだから」
「何か問題が?」
「風邪を引いた同居人の世話をしなきゃいけないのはだーれだ。おーれだ」
「……クイズじゃなくなってしまったよ」
「分かりきってることを聞いてもしょうがないでしょ。せめてお湯にしてくれないかなあ」

同居人の不満そうな声音が浴室に響くが、私もこればかりは譲れない。

「お湯じゃダメ。だってオフィーリアが沈んだのは小川だよ!冷たい水の流れる小川なんだから、お湯じゃ全然“死んだように”なれないよ」

しばらく売り言葉に買い言葉、やいのやいのと浴槽の縁から水が溢れるまで押し問答が続いたが、ついには倫太郎が折れた。

「長時間浸かるなら引き摺り出すよ」
「そんなに長いこと入らないよ。二時間ぐらいかな?」
「不整脈って知ってる?」
また私の頬を抓って、彼は私を黒々とした目で睨みつけた。

⬜︎

私は半袖の白いワンピースに着替えると、薄紅のペディキュアが塗られた爪先を水面に浸した。

「冷たい!」
「十一月に水風呂入るからでしょ」

バスチェアに腰掛けて私が買ってきた花の茎をハサミで切り落として浮かべる作業をさせられていた倫太郎は、またも恨み節を吐き出した。

「死ぬ以外なら何してもいいって言ったけど、死に至りそうな行動もしないでほしいんだよね」
「大丈夫だよ。オフィーリアごっこはこれで三回目でしょ?」
「一回真冬にやってインフルエンザになったよね?」
「でもその前の一回は引かなかったよ。ということは五〇%の確率で風邪をひかないってこと」
「つまり五〇%の確率で風邪を引くってことだけどね」

ごねる同居人を無視して、私はまず足を浴槽に突っ込んだ。刺すような冷たさに足が反射的に引っ込もうとする。けれどここで引き抜いたら、倫太郎はすぐさまバスタブの栓を抜きにかかるだろう。

ワンピースの裾をつまみ上げて、膝まで浸かる。浮いた花びらが、水面伝いにまとわりつく。もう片方の足も入れると、じわじわと足先から感覚が徐々に失われていく。36.5℃の放出と中和。私はゆっくりとその身を沈め、体育座りのような格好でバスタブの底に座った。

「気分はどう」
「太宰治もこんな気持ちだったのかな、と」
「太宰が死んだの六月だからね」

また身体を融解させるように沈める。小さな細波が頬の上を滑った。少し色褪せた天井と彼の顔だけが視界に写っている。

縁に肘をついて、新しい煙草に火をつけた倫太郎は、私が顔だけを水面から出して浮いている様子をじっと見下ろしていた。自分はさっさと温い部屋に戻っていればいいのに、私の気が済むまで恐らくここを動くことはないのだ。彼は危惧しているのだと思う。

“万が一”が起こっては、取り返しがつかないから。
それからそろそろ気が済んだでしょ、と彼は三分おきに私に出るよう催促した。その合間に、倫太郎は取り留めのない話を、まるでカフェでコーヒーを手に向かい合っているかの如く話した。今日の夕飯は温かいもつ鍋にしようだとか、明日のゴミ捨てはどちらがやろうだとか。再来月同級生のA子ちゃんが結婚するとか、来年にはお互いの実家に挨拶に行けるといいのだけど、とか。疑似的な死に手を伸ばしている私に向かって将来のことを話すなんて、酷く滑稽に思えて。それは私が死の山に足を踏み出そうとしているのを必死に食らいついて邪魔をしているようにも見えた。否、実際そうなのだろう。

彼は一緒に死んでくれると言ったのに、その約束に執行猶予を括り付けるつもりでいるらしい。

ぶるり、と全身の筋肉が蠕動して、血流の滞りを早くも訴えている。談笑する舌が縺れた。呂律の回らない話し声を聞いて、倫太郎は一層早く出るように言った。

「あと、ちょっとだけ……」
「十数えたら無理やり出すから」

仰々しく煙と共にため息を吐き出した彼は、十……九……とカウントダウンを始めた。私はそれを聞き流しながら、この予行演習にはまだ続きがあることを思い返す。

五、六……。
瞬きをして、倫太郎の吐いた煙を肺腑の奥まで吸い込んだ。少しツンとしたマルボロの匂い。
これが最期なら、きっとすばらしいものになるにちがいない。得体の知れぬ確信があった。

三、二……。
いち、と彼が号令をかけるのと同時に、私はその身体を、全て浴槽の中へ沈めた。
ごぼ、と口から吐き出された空気の塊が、水面へ浮かんでいく。花弁が水銀のような波の上でゆらゆらと揺れている。それがとても綺麗だなんて、見当違いな思考が脳裏を過ぎった。冷たさで体じゅうが強張っていて動かない。

その時、水面から何かが飛び込んできた。大きくて、角張っていて、ごつごつした愛おしい手。
それは私の手首を掴むと、一気に水面へ引き上げた。酸素が急に気管に入ってきたものだから、思わず咽せる。倫太郎は私の手首を強く握ったまま、眉根を寄せて不機嫌そうな表情を浮かべた。

「約束、破ったね」
「少し足を滑らせただけだよ」

見え透いた嘘は彼には通用しなかったらしい。

「罰として、今日から三日間食事当番やってね」
「それだけでいいの?」
「もっと追加してほしいの?」
「……甘んじて受け入れます」

私はゆっくりと立ち上がると、倫太郎に渡されたバスタオルでずぶ濡れになった髪と体を拭いた。
浴槽の栓を抜こうと覗き込むと、たくさんの花弁の中に、短くなったタバコの吸い殻が一本、紛れて漂っていた。


私は悪い女だ、改心というものを知らない。
やっぱり彼の前で死んだら、一等悲しんでくれるのではないかと、淡い期待はますます膨らむのだった。