断片:エウレカ!


私はため息を吐いた。重苦しく漂うそれは浴室のタイル張りの壁に反響して、そして湯気と共に消えた。
廊下に面したすりガラスの窓の向こうは、白昼の光を透かしている。

「今度はどうしたの」

私のそんな憂いを拾ってか、倫太郎は背後から私の顔を覗き込んだ。バスタブの水面がかすかに揺れる。

「ぬるま湯の半身浴がそんなに不服?」
「まあ、水の方が良かったけど」
「俺も入りたいのにやめてよね」
「でも今のはそのため息じゃないよ」

バスタブは一人で入るには十分な大きさがあったが、二人で——なおかつ体格のいい倫太郎と浸かるには手狭という他なかった。
後ろから抱きすくめられるような格好で入れば、浴槽に半分ほど貯めたお湯はあっという間に溢れてしまう。

「じゃあ何?」
「昨日の昼、留守番してたら知らない人が来て、神を信じますかって聞かれた」
「……なんて答えたの?」
「信じてませんって、今目の前で見せてくれたら信じますけどって答えたよ」
「まあそう答えるだろうと思ってたよ。愚問だね」

息を吐くように倫太郎は笑って、私の濡れた髪を梳くように指を入れた。
平日の昼間というほとんどの人々が不在がちな時間帯に現れた宗教団体を名乗る来訪者は、私の面倒な回答を聞くなり怪訝そうな表情を浮かべ足早に去っていった。

「倫太郎は人は死んだらどこに行くと思う?」
「天国とか地獄とか、そういうのが一般的じゃないの」
「まあ、そうだよね」
「どう思う?」

死んだら、こんな俺たちでも天国行けると思う? 倫太郎の冗談めかした声が浴室に響いた。

「多分、どこにも行けないと思う」

死者の国の存在を信じることは、今を生きることの苦痛を紛らわせるための手段でしかない。ここを耐え忍べば天国という次のステージに進むことができる。だからこそ善行を、功徳を。賽の河原のようにそれらを延々と積み立て続けて、自分の行いが報われる瞬間を待っている。

「倫太郎はともかく、私みたいなのはどこにもいけないよ」

人の命は神のものという思想に、自ら命を断つという行為は絶対的なタブーだ。仮に神がいたならば、私のような愚か者を赦すはずはないだろう。私の天国はどこにもない。死んだらそこまでで、抜け殻になった肢体は有機物に分解されながら、散り散りになって消えるだけだ。
そこに彼を巻き込むのは、どうにも気後れするのだ。今更になって、怖気付いている。

「そう?」

倫太郎は徐々に冷たくなってきたぬるま湯から手を出すと、私の肩口に残った情交の名残を指先でそっと撫でた。まだ真新しいその歯形の痕は、赤みを残してくっきりと私の肌に刻まれている。

「ずっと俺とここにいて、どこにも行かなくていいんだけどね」

ここのところ、倫太郎はこういう痕跡を私の体に残したがる。消えかけたところにもう一度痕をつける。倫太郎は噛むとちゃんと実体がある気がして安心する、といつも言う。
それがずっと消えない傷跡になって、楔みたいにこの部屋に繋いでくれればいいけれど。

「倫太郎がそう言うならまだいようかな」
「うん、それでいいよ」

そろそろ上がろう、と促して倫太郎はバスタブの栓を抜いた。
私よりいい女なんて、他に星の数ほどいるのに。停滞を望む倫太郎の答えに、安堵している私がいる。
みるみる目減りしていくバスタブの中のお湯を見つめながら、私は倫太郎の自分への愛情が底をつく日は一体いつなのだろうかと常々考えを巡らせてしまうことに、再びため息を吐いた。

昏くて冷たい土の下で、彼に愛されているうちに眠りたいなどという欲望は、一体驕りと何が違うのだろう。




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