断片:カルネアデスの板


木々を抜けて、パッと光が差し込んだかと思えば、私の視界いっぱいに青い水面が広がった。背後には小高い山々が連なっている。

「おー、すごい」
「見えてる?」

倫太郎は運転席でハンドルを握り、前を向いたまま私にそう問いかけた。

「うん、おっきい湖が見えてるよ」

死地を探すには足回りがしっかりした車があった方がいい—//そう言って彼は元々持っていたコンパクトカーを手放して、ステーションワゴン系の四輪駆動車を買った。ハンドルが左側についているのを見て高級車ではないのかと私は慄いたが、彼曰くそこまでじゃないよ、とのことだった。

倫太郎がオフの日は、よく私を連れて外に出ることが多かった。

気を遣われているのだろうということは嫌でも分かっていた。死地を探しに行こうというのは当然口実だ。ただそれを断るのはやはり罪悪感に似た何かが頭を擡げ、いつもできずにいた。

「行きたかったって前から言ってたでしょ?」
倫太郎がそう言って私を連れてきたのは、青木ヶ原樹海だった。

「死体とか落ちてるのかな」
「落ちてたらまず、警察を呼ばないといけないからいないといいね」

車は橙の葉が残る木々の道を抜け、西湖のほとりにある、コウモリ穴の駐車場に辿り着いた。ここから歩きらしい。

十月下旬でまだ少し暖かさが残っているかと思ったが、車を降りた瞬間冷気が頬を打った。ぶるり、と全身が身震いする。

「……思ったより寒いかも」
「上着着る?」
「うーん、運良く凍死するかもしれないから着ない」
「じゃあなおのこと着て」

倫太郎に呆れ顔で厚手のニットカーディガンを半ば無理やり羽織らされて、ボタンを全部閉められた。

駐車場は土日だというのに三、四台しか車が止まっておらず、辺りには誰も人がいないようだった。その外れ、道もないような原生林の入り口に看板が立っている。樹海の入り口はここだということらしい。ハイキングコースとして全体の地図まで載っている。

「なんかもっとこう、鬱蒼とした黒い森みたいなのを想像してたんだけど、存外俗世的というか……」
「黒い森ってドイツの?……まあ、あれだけ世間に自殺の名所だの方位磁針が効かないとか騒がれればこうなるよね」

倫太郎は中に入ってみようと、落ち葉に塗れた樹海へ足を踏み入れた。

「はい、整備されてないから転ばないようにね」
「そんな運動音痴じゃないよ」
「そう言って東尋坊ですっ転んで両膝擦りむいてたじゃん」
「……」

所狭しと並んだ木々の間に、道なき道——誰かが踏み固めたことでできた道が、見えないところまで続いている。
転ばないようにと彼から差し出された手を握った。大きくて、少し骨ばっていて、それでいて温かい手。私の手は冷え性だからいつもひんやりしていて、倫太郎は繋ぐたびにあまりの冷たさに驚いて。「生きてる?」と私の顔を心配そうに覗き込む。生きてるのか死んでるのかは、感覚としてはもうよくわからないのだけど。

樹海の中は、数度気温が下がるような心地がする。日中でも木漏れ日をまるで通さない。木影だけが細く長く、私たちの道を横たえるように伸びている。

ここで人生の終焉を迎えようとする人々は、どんな気持ちで訪れたのだろうか。“本気”の人々は、この私たち歩く遊歩道を外れて、さらに深いところに入っていくという。中には覚悟を決めるためにキャンプセットを持ち込んで一週間以上迷い続ける人もいると、どこかで聞いた。

私には、まだその覚悟が足りない。今この道を外れて、奥へ進んだら彼はついてきてくれるだろうか?

繋いでいる手が離れた時、私は振り返らずに進めるだろうか。正しい道なんか、とっくに踏み外してるのに。
私の中の希死念慮に似た亡霊は背中越しにまとわりついているのに、何かが引っかかって、まだ思いとどまっている。

……そしてその正体が、未だ掴めずにいる。

「涼しいけど、死ぬには涼しすぎるかも」

倫太郎に寒い思いさせたくないし、と私が告げると、彼はそれもそうだね、といつもの眉ひとつ動かさない表情で頷いたが、微かに安堵のため息を吐いたのを、私は見逃さなかった。

「こんなに寒いとまた風邪ひいちゃうかもね」
「すぐ風邪引くんだから、本当に勘弁してよ」

もう少ししたら戻ろうか、と促されて肺腑に吸い込んだ辛酸のような冷たい空気をゆっくり吐き出して、首を縦に振った。

なんだかんだと言いながら、いつも看病をしてくれる倫太郎が好きだった。

風邪を引いたら、看病してもらえるから。もう少し生きててもいいかも。
現金な考えが、私の脳内を駆け巡った。
私って最低。

⬜︎

「再来週、東京で試合やるんだけど観にくる?」

帰りに寄った道の駅で山梨名物——ほうとうを二人で啜っていると、倫太郎が不意にそんなことを言い出した。

「トーキョー?」
「関係者席が余ってるっぽくてさ。再来週の末は一緒にいられないから、ついでにどうかなって」

彼に試合を観にこないかと誘ったのは、間違っていなければこれが初めてだった。「まあ無理強いする話でもないし、気が向いたらおいでよ」と付け加えられる。
柔らかく煮られている大ぶりのかぼちゃを口に運んで、ゆっくりと噛み締める。

(東京、か……)
倫太郎は知らない。彼の家に転がり込む前に、私が東京に住んでいたことを。

腹の古傷がじくじくと疼くような心地がした。あれから実に三年が経った。

時間は潮流だ。
記憶も傷も、少しずつ波打ち際の砂のように削られ、押し流される。
そろそろ、記憶の上書きをしても許される頃合いだろうか。彼と一緒だったら、まだ塞がりかけの瑕疵が、瘡蓋に変わってくれるような気がした。

「たまには同居人の勇姿を見に行かないとね」
……と、虚勢を張ったのが二週間前。

やっとのことで辿り着いたアリーナの、案内された席に着くと、試合開始前なのに凄まじい熱気に当てられて、脳がくらくらする。

すでに東京の満員電車の洗礼を受けて体の節々が悲鳴を上げている。
スポットライトに照らされた中央のコートでは、出場選手が登場したようだった。
怒号みたいな歓声が一気に上がって、押し潰されそうになる。

目を凝らして、自分だけの道標の星を探すように、私は倫太郎の姿を見つけようとした。
試合自体はテレビで見たことはあったけれど、実際に現地で見たのは、随分と久しぶり——高校二年生の夏に、インターハイの県予選の応援に行った時以来だったと思う。
あの時はたしか、倫太郎がこっちを見て……

チームメイトと共にコートは現れた彼はキョロキョロと周囲を見回してやがてこちらに気がついた。何十メートルも向こうにいるはずなのに、目が合ったような錯覚。
あ、手振ってる。少し気恥ずかしくて、周りに見つからないように、彼だけが見つけられるように小さく手を振りかえす。

「え!今角名くん手振ってたよね!?」
「滅多にファンサしないのに!うちらに手振ってた?」

私の斜め後ろに座っていた同じくらいの歳の子たちが、黄色い声を上げている。
にわかに試合が始まって、彼が得点を決めるたびに観衆が沸く。それをただ、私は額縁の外からそれを見ている。

チームメイトとハイタッチをして、楽しそうにコートを駆け回る倫太郎の背中を見て——気づきたくない、気づいてはいけないことに、私は目を逸らせずにいる。
私は今、何者でもない。
数えきれないほどいる彼のファンの、一端ですらない。

『お前なんていてもいなくても変わらないんだから、早く死ねば?』

昔の男に言われたことが脳裏を掠めていって、だらだらと嫌な汗が頬を伝って流れていく。歓声が上がるたびに目眩すら覚える。

息が詰まる。心拍数だけがどくどくと上がっていって、言うことを聞かない震える手を握りしめて、爪を立てた。
こんなところでトラウマの再演を喰らっている場合ではないのに。

強烈なまでの劣等感と、羨望と、憎しみに似た何かが綯交ぜになって胃からじりじりと競り上がった心地がした。

帰りの駅のトイレで、全部それを吐いた。
私は、やはり彼を道連れにすべきではない。私の中の亡霊はそう囁く。

『ごめん』
『先、いくね』

それだけ連絡を打って、電車に飛び乗った。
カルネアデスの板を掴めるのは私ではなくて、きっと倫太郎なのだ。

私がいなくても彼は生きていけるが、恐らくその逆はない。
……静岡の家には、もう帰れないと思った。

あの家に帰れば、決意が揺らぐ。私の中では長すぎる月日があの場所で過ぎて、思い出が積み重なりすぎた。

『約束破ってごめん』
『多分見つかんないと思うから、葬式はいいや』

入力欄に迷うように打ち込まれた文字は、送られることなく×ボタンのさざ波で寄せては消えていく。
自分が今どんな顔をしているのか、よく分からなかった。

「新神戸まで大人一人……指定席でも自由席でも、すぐ乗れるのだったらどこでもいいです」