ドラマツルギー


臓腑の中にごちゃごちゃと感情が混ざって、どうにもならず、眠れないままダラダラと時間を過ごした。
分かっていた。この関係にいつかピリオドを打たなければならないことを。
それを他人に指摘されたから、ついカッとなった。手が出なかっただけマシだと思う。
朝日がまだ文字通り日の目を見ていない頃、目の下に大きなクマを作ったまま、私はまたベッドから這い出して、着替えると化粧で隠蔽工作を図る。
鏡を見たら何故か目蓋が誤魔化しきれないほどパンパンに腫れていて、しばらくいろいろ試したが、治りそうにないので諦めた。
朝ご飯はあまり食べる気にならなかった。彼は私と会った後の朝もご飯はしっかり食べると豪語していたが、まだ寝ている時間だろうか。
冷蔵庫からバナナ風味のゼリー飲料を取り出して、流し込むように食べた。どろりとした感触が喉を伝って、冷房の効いた部屋で飲む七月の冷えたゼリーは妙に心地良かった。
昔から、主役というものが苦手だった。
熱血スポ根マンガの主人公も、少女マンガのヒロインも、カッコいいとは思っても、共感するまでにはどうにも至らなかった。
私がある種の現実主義者であったのも関係があるのかもしれないが、どうにも人生大逆転劇だとか、イケメンがモブに恋をするだとか、あまりに現実と乖離していると興醒めしてしまうような、全く面白味のない人間だった。
人生は一度きりで、楽しまなければ損だと言うけれど、私は現状維持で充分楽しい。そう思っていた。
劇的に何かが変わることを人々は恐れる。
自分の基盤が崩れるのが怖いから、人々は舞台に立たされることを厭う。
だから私たちは、喝采を送りヤジを飛ばす観客と野次馬でいたい。画面の向こう側の世界は、私たちを否定しないのだから。肯定もしないけれど。
しかし私はもうそろそろ、この現状を崩す覚悟をしなければならない頃合いだった。
私は大学の準備をする合間に、治にスマホでメッセージを打った。
なかなか文面が思いつかなくて、じっくり十五分かけて普段通りを装って送る。
分かれ道の向こう側ばかりを気にするのは、もうやめたかった。



七月も最終週、月曜日の夕方。
試験日程をあらかた終え、私は治をいつものファミレスに呼び出した。
いつも深夜に通うファミレスに人が多く座っているのに若干慄いて、なんだか違和感と共に私たちは席に着いた。例の彼女はいないようだった。
「試験終わった?」
「こっちも大体終わったで」
そういう治は欠伸をしながらメニューを開いている。
「なぁ、今から夕飯食うてもええ?」
「いいよ、私もなんか食べようかな」
空回りするテンションで、私もメニューを開く。
あの話≠ヘいつ切り出そうか。まだ迷っている。
「治決めた?」
「おん、ハンバーグカレードリア」
「それはハンバーグなの?カレー?ドリア?」
「好きなもの全部乗せって感じやなー」
「治は食べられればなんでも好きでしょ。ってかカロリーすごそう」
「まぁな。せやけどハンバーグとカレーとドリアはカロリーの塊やから、カロリー同士が喧嘩してカロリーはゼロになる。結果オーライや」
「うーん、支離滅裂」
治のテレビから拾ってきたというトンデモ理論にまた笑って、私も何を食べようか考える。
最後の晩餐。私は一体何を食べればいいのだろう。
「……デミグラスソースのオムライスにしようかなぁ」
「お前昔からそれ好きやな」
「うん、オムライスにハズレはないしね」
あれこれ悩んだ結果、私が選んだのはオムライスだった。
私は治と同じくして昔から好き嫌いをせず何でも食べるタチの人間だったが、特にオムライスが好きだった。
幼い頃は黄色い紡錘形の丘のようなフォルムを見るたび、喜んでそれをスプーンで崩して口に運んだ。
お子様ランチの時に出てくる上に刺さった爪楊枝の国旗も好きだったし、ケチャップで好きなように絵を描くのも好きだった。
そんなノスタルジーに、ガラでもないのに浸ったりした。
「んで、なんでこんな早くから呼んだん」
注文を終えると、まさかテストの打ち上げちゃうやろ、と本題を切り出してきたのは治の方だった。
脈が急速に上がっていく気がした。手の平にじわりと汗がにじんだ。
自然な流れで、冷静さを装って私は口を開いた。
「あーそうそう、もうすぐ前期終わるじゃん?」
「おん」
「私、九月から一年間留学行くのね」
「おん、どこや」
「フランス」
「お土産はマカロンで」
「ちょっとちょっと、」
治のあまりの反応の軽さに、逆に私が拍子抜けしてしまった。
そして、同時に落胆している自分がいた。
動揺したり、憔悴したりしてくれるものだと、てっきりそう思っていたものだから。
一年間の海外留学。
学部生は必須のそれを当然私が免れるはずもなく。
「言うて悠が国際教養のフランス語専攻なの知っとったし」
「まぁ……それもそっか」
私は一体何を期待していたんだろう。
「一年は長いわ」
「私と会えなくて寂しいからって彼女作るのやめてよね」
「前向きに検討するわ」
「そこは作らないって言って」
口を突いて自嘲的な言葉ばかり出てくる。自分で言って虚しくなってきた。
ああ、私やっぱり彼が好きなんだ、と思う。
治がもし他の誰かを選んでも、未練がましく彼の友達を続けるのかもしれない。
分からない。スイングバイを忘れた哀れな人工衛星みたいに、これからも私は彼という惑星の周りをぐるぐると回り続けるのだろうか。
「いつ出発なん」
「再来週の金曜」
「もっと早よ言えや」
「見送りなら来なくていいよ。出発深夜だし」
言った後で少しつっけんどんな口調になってしまったかもしれない、と後悔する。
「だからさ、今日で最後なんだよね。これから忙しくなるから」
「ならしゃーないな、今日は奢ったろ」
「あざーっす兄さん!ゴチになります!」
ふざけて両手を合わせ頭を下げると、頭上からシャッター音が鳴った。
顔を上げれば、治がスマホのカメラを起動させて写真を撮っていた。
「何撮ってんの」
「おかんに言うとかんとなーて」
「治たちのママさんにも挨拶しにいくつもりだったんだけどバタバタしててさ」
「侑には……あー、お前ら仲悪かったんやっけ」
「根本的に相容れない」
「ボロカスに言われとるやんけ」
顔を合わせる度に意地汚い口論をした彼の片割れは今どうしているだろうか。
しばらく会えへんなら写真の一枚でも、と治が言うのでお行儀よくピースして写真に写った。
「これでどう」
「おん、ええんちゃう」
二人で撮った写真は少しブレていたけど、気に入ったので消さずにそのままにしておいた。
その間に料理が運ばれてきて、手を合わせてゆっくりと食べた。
治はその豪快に乗せられたハンバーグの塊をチーズカレーから取り込むことにすっかり夢中になっているらしかった。
私もオムライスに手をつけることにした。ふんわりとチキンライスの上に乗った卵とそれにかけられたデミグラスソースをスプーンで絡めて、掬い取る。
チキンライスのケチャップと鶏肉の香ばしさが口いっぱいに広がっていく。
後から来る卵の優しい甘さ。デミグラスソースの芳醇な香り。
ああ、美味しい。
幸せだと思った。
好きなものを好きな人と食べられるということが。
この先もうないであろうこのファミレスの一角で綿々と続いてきたこの逢瀬が、過ぎた幸福なのだと、今では感じることができる。
「それ、美味しい?」
「うまい」
リスの頬袋のようにドリアを頬張って頷く治を、見納めだと思ってしばらく食べる手を休めて眺めていた。
オムライスはすっかり冷めてしまったが、悪い味はしなかった。



国際線ターミナル。二十三時四十分発パリ直行便。
飛行機の搭乗口を確認して、私はロビーのベンチに座った。
まばらに人のいる深夜の空港で、保安検査が始まるまで何をしようかと考えた。
あれから何日も経っただろうか。彼からはあれからなんの音沙汰もない。
これでいいのだと思った。呆気なくていい。
今目の前見えることが自分のすべてだ。見えないものを気にしてはならない。
眠気はすっかり覚めてしまった。いつもの金曜日だからだろうか。
治は今何をしているのだろうか。
そんな考えばかりが頭をもたげていた。
いつもならあのファミレスのドリンクバーで長話をして、魔が差してエスカルゴのオーブン焼きを頼んでみたり、急に甘味を欲して桃のパルフェを二人でつついてみたりする時間だろう。
あの桃のパルフェは美味しかった。瑞々しい水蜜桃とアイスクリームとのマッチングが美味しくて、期間限定の間に幾度と無く二人で半分ずつ分け合って食べた。治が桃ばかり狙って食べるので言い合いになりかけた覚えもある。
そんなことを考えてしまえば、腹の虫が目を覚ましてしまう気がした。
私たちは食べることに貪欲だった。食を通して、彼と繋がっているように思えた。三大欲求の食欲だけが肥大して、私たちを緩やかに突き動かしているようだった。
手続きを開始した旨のアナウンスが場内に流れる。そろそろ行ったほうがいいだろう。そう思ってベンチから立った。
私は自分の立っていた土台というものを根幹から叩いて割ってしまった。
これでいいのだと自分に言い聞かせて。
機内食はビーフにしよう。エアメールでそれを治に自慢して、そうして――
「悠」
聞こえるはずのない声とともに、後ろから腕を引かれた。
ここは大阪の国際空港のロビーで、今は夜の十時で、本来なら彼がこんなところにいるはずがなかった。夢か現実か、もうよく分からなくなってきた。
「な、なんでいるの治……」
「おったら悪いんか」
ここまで走ってきたのだろうか。治はまだ肩で息をしている。
「飛行機まで時間ある?」
「少しなら」
なら座って、と言われ一度は立ったベンチに今度は二人で座った。
軽く息を整えて、治は言葉を選ぶようにぼそぼと話し始めた。
治の肩越しに夜の滑走路の誘導灯が点滅している。
「……この間のファミレスで言うべきやったんやと思う。悠が留学の話あんまりにもあっさりしよるから、最初は全然兵庫から離れることに何も感じてないんやと、そう思っとった。せやからオレも軽いノリみたいなもんで流してもうた。後から気づいたんや、いや……今の今まで踏ん切りがつかへんかったけど」
治が何を伝えたいのか分からなくて、私は治の横顔を呆然と眺めていることしか出来なかった。
そしてようやく何か腹積もりを決めたのか、おもむろに彼は口を開いた。
「この前、オレに彼女作るなて言うたやん」
「うん」
「オレも言うわ、向こうで彼氏作らんといて」
このやろう。
そう笑って脇腹をどついたら、しばらく治が悶絶したまま座席で動かなくなったので思わず吹き出してしまった。
私たちにはこれくらいでちょうどいい。
「じゃあ、もう行くね」
「今は全然時間ないからあれやけど。悠が帰って来たら、これからの話をしよか。あのファミレスでな」
「これからの私たちの話?」
「せやな」
 そろそろ時間だ。
「もう行くんか」
「時間だからね。フランス式のお別れで特別にハグしてもいいよ」
冗談めかしてそんなことを言った瞬間にはもう治の腕の中にいて、面食らったのは私の方だ。
空港のロビーで若い男女が長い抱擁だなんて、まるで、
「ドラマのワンシーンみたいだね」
「クライマックスにはええ素材やろ」
ドラマチックは、私たちの知らない世界のどこかで、いつも起こっているに違いなかった。
この舞台は、観客も何もなく、演者は私たち二人だけ。

それでもいい。それが、私の人生という劇場であるのなら。

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