夏の夜明けと卵の話


三限からで良かった。
目が覚めてしばらくして、ベッドの上で猫のように丸まって、私は体躯を持ち上げようとした。
しかし徹夜した後特有のあの妙な脱力感に襲われ、結局指先一つ動かさぬまま、じっと羽毛布団から目と鼻の先だけを出して、すっかり明るくなってしまったカーテンの向こう側を見つめた。
授業が始まるまで、まだ少し時間がある。
何かを考えようとして、すぐさま今朝方のことを思い出した。
過去の過ちを憂いたところで何か変わるものでもないというのに、私は朝5時のあの後悔を、未だに尾を引いて私自身の中に残していた。
あそこでもし治を引き止めたら、何か変わっただろうか。
もう少し、一緒にいよう
線路の分岐点の、選ばなかった反対側のIFのことばかりがいつも脳漿を占めた。それは私の悪い癖だった。
治とは中学時代からの友人だった。
つるんでいるうちに、彼の双子の兄弟とも見分けがつくようになった。華やかで社交的だった彼の片割れとは、私はあまり仲良くなれなかった。
中学高校は同じで、治は県立大の経済学部に、私は隣の市にある私立大の国際教養学部に進学した。だから、普段からお互いが顔を合わせることはそうそうなくなった。
しかしこの奇妙な午前二時のランデブーを最初に誘い出したのは、確かに私だった。
恋人だったことはない。おそらく治がそんなことを考えていないのだと思う。今も、その先も。
週に一回、もしくは二回。
私も治も午前中に大学の授業のない日の前日から、私は彼を電話で呼び出して、駅前のファミレスでとりとめのない話をする。
何時間に一回か軽い食べ物を頼んで、ドリンクバーで長々と居座って。
治は私が電話をかけてくると知っていて、大抵予定を空けてくれている。
一週間のうちのライフスタイルに、彼と徹夜で話すことがすっかり組み込まれてしまっていた。
大学であったこと、家族の話、さっきまで見ていたテレビの話――本当に大したことではない。
ただ、なんとはなしにするその世間話は、私にとって生命線のようなものでもあった。
壁に掛けられた時計が十一時半を過ぎたのを見計らって、私はのそりと身体をベッドから起こした。
次はどんな話をしようか。
そんなことを考えて、シャツを袖に通した。


「イカ墨のパスタとチョリソー」
「……カルボナーラ」
「それだけでええんか」
次の会合は、きっかり一週間後の夜半過ぎから敢行された。
「いいよ、足りなかったら後で頼むから」
「深夜料金かかるけどな」
二人して家着の、それもパーカーやジャージという出で立ちで、私に至っては化粧すら落としている。おそらくスッピンで顔を合わせられる相手は治くらいしかいないと思う。
「夜遅くにそんな食べると太るでしょ」
「今更やな」
「明日からダイエットするの」
「おん、気張りや」
そんな宣言の束の間、先にテーブルに運ばれてきたチョリソーを治がつついている横からつまみ食いをしたら、む、と彼はしかめっ面をした。
「…………ダイエットはどないしたん」
「ソーセージ一本で体重は変わらないでしょ。それにダイエットは明日からって言った」
彼は決して狭量ではなかったが、食事における自分の取り分≠ノ関しては何かにつけて敏感な人間だった。
「後でなんか一口あげるからそれでいいでしょ」
口の中で弾けた熱い肉汁と、ピリリと舌を刺激するチョリソーの辛味を転がしながら、私は治を嗜めるようにそう言えば、
「ならええわ」
けろりと機嫌を直してしまった治がまた食事を再開する。
「たまーにさ、ザ・脂!みたいな脂を食べたくなる時があってさ、わかる?」
「あれやろ、脂が注入されとるから脂っ気が多いやつやろ」
「そうそうそれ。コンビニの唐揚げ串とか」
「ファミチキ」
「うん、唇が油でテカテカするくらいの脂がさ、無性に食べたくなるの。今がそれ」
「なら、しゃーないな」
「でしょ」
治は私の弁解と添えられていたポテトをあっさり飲み込んでしまうと、しばし何かを考えるそぶりを見せた。
「イカ墨て、やっぱ歯黒くなるんかな」
「うーん、当然の帰結だと思うけどなぁ」
パスタを待つ間、まだメニューと睨み合いを続ける治に私はそう答えた。
頼んだ後も自分のメニューについて考えるのは、治にしては珍しい。
お歯黒みたいになるよ、といえば「あとは家に帰るだけやからもうええわ」と返ってきた。
「カルボナーラってさ、黄色いじゃん?」
「おん」
「でもカルボナーラってイタリア語で炭≠ニか炭焼き≠フことを指すんだって」
「へえ、そうなんか」
「上からかける黒胡椒が炭に見えたとか、炭焼き職人がよく作ってたからだとか諸説あるらしいんだけど…………」
「お待たせ致しました」
会話はテーブルに運ばれてきた二皿のパスタによって途切れた。目の前に食べ物を置かれてなおどうでもいいトリビアを垂れ流すほど興ざめなこともしない。
「うわ、真っ黒」
「イカスミパスタやからな」
まさしく墨を流したようなイカスミパスタの皿を覗きこんで私が言うと、治は気にする様子もなくフォークを手に取った。
私も同じようにフォークを手にすると、パスタの頂に乗せられた半熟卵を割るようにフォークの先端を突き入れた。ぷつり、と音がしたような気がした。そのまま手前に引いて、卵を一気に崩す。どろりと溢れ出した黄身を無駄にしないようにパスタとパンチェッタに素早く絡めて一口。
すると治が私の皿を指差して一言、
「カルボナーラ、一口」
「なんだ、てっきり忘れてるものかと」
チョリソーの一件をしっかり覚えていた治に苦笑いを零して、カルボナーラを軽くフォークに巻きつけると、彼のパスタ皿の端に置いてやる。
イカスミパスタも食べるか聞かれたが、それは丁重に固辞した。私が本物のお歯黒になってしまう。
「カルボナーラとかそうなんだけどさ」
「おん」
「卵を全体に絡めるとさ、なくなっちゃう気がして嫌なんだよね」
「なんやそれ」
「チキンラーメンの上に乗せた生卵とかも割るの躊躇っちゃったりして」
「あー、それは分からんでもないわ」
スープにどんどん卵が流れて消えてなくなってしまう気がして、いつも卵を割るとさっさと麺を絡めて食べてしまう。
「なぁ、知っとるか」
「?」
「チキンラーメンの上に乗せとる卵、あれ冷蔵庫から出してすぐやとお湯かけても綺麗な白身にならへんらしいで」
「マジ?」
「常温の卵やないとあのパッケージみたく綺麗な白身にならんねんて。テレビで見た」
なんてことはないたわいのない会話。
脳裏にマスコットキャラの黄色いヒヨコがよぎった。乾麺の上に割ってしまえば生まれるはずのないヒヨコ。
「でも即席ラーメンって謳ってるのに卵が常温になるまで待ってたら即席じゃなくない?」
「それは思ったわ」
「じゃあ熱湯に入れて」
「いきなり入れたら破裂すんで。しかもそらゆで卵や」
「電子レンジでチン」
「爆発でチキンラーメンどころやないわ」
くだらないオチに、声を上げて笑った。
周囲にそれを咎め立てる視線はない。
こんなただの世間話でさえも、楽しく思えてしまう。夜の魔法かもしれない。否、彼とそんな話をするからかもしれない。
クリームソースが乾いて皿にこびりつく前に、早々とカルボナーラを食べ終えた。
そして案の定イカスミパスタを食べた治の歯は真っ黒になっていて、それを見てまた笑う。笑いすぎで涙が出てきた。
「うーん、なんか物足りない気がする」
「せやから言うたやん」
「いや、ここは腹八分目ってことにしておこう」
膨らんだ気がする腹をさすって私がそう言うと、治は先ほど私に笑われたお歯黒を気にしているらしい。「トイレ行ってくる」と席を立った。
こんな日常が一生続けばいいのに。
一人になってふと、静まり返った夜の大通りを眺めて考えた。
……いや、続かないことは私が一番よく知っているけれど。
「お冷のおかわりはいかがでしょうか」
治がトイレに立ってまもなく、店員がお冷のおかわりを注ぎに来た。
軽く会釈して注いでもらっている途中で、その店員は口を開いた。
「あの、宮治くんの、お知り合いか何かですか」
いきなりのことだったので、ギョッとして、そしてまじまじと彼女の顔を見た。
私は初め、一体目の前の彼女が何を言っているのか分からなかった。
しばらくその言葉の内容をかみ砕くように頭の中で分解して飲み込んで、やっとその答えを導き出した。
「まぁ知り合いか何かですけど、どちら様ですか」
私たちの間には妙に剣呑な空気が漂っていた。
「私は治くんのクラスメイトです」
「はぁ」
だから何だというのだろう。
私は曖昧な返事と共にその彼女を見上げた。
店の制服に身を包んで、黒い髪も一つに結っている。少し大人しめの、よくありがちな女子大生のテンプレートみたいなひと。
仮に彼女が治の顔見知りでも、大学がそもそも違うので私が彼女のことなど知るはずもない。
名も知らぬ彼女は深夜シフトで初めて私たちのことを見かけて何か勘ぐったのかもしれなかった。
ここから治の通う大学はそう遠くないから、彼の同期の誰かが私たちを見かけたとしても、なんら違和感ないだろう。
「それで、治と知り合いだと何かあるんでしょうか」
「治くんを放してあげてください」
「……………………はい?」
かなり間があって、素っ頓狂な声が出た。というか、本気で何を言っているのかいよいよ訳が分からなくなった。
なんだこの彼女ヅラした女。
そんな罵詈雑言が口から出そうになってすんで堪える。
元来の口の悪さは大学に入って引っ込めたつもりでいたが、妙にその古傷のような性分に火がついてしまったような気がした。
半ば不機嫌を隠さずにそう言うと、相手も何か思うことがあるらしかった。
「あなたと食事に行くからって、彼は周りからの誘いを全部断ってるんですよ。毎週金曜日、あなたに縛られて可哀想だと思わないんですか」
唐突に放たれた言葉を聞いて、ぶん殴ってやろうかと思った。
それくらい腹が立ったし、それ以上に図星で、私の心の臓にそれは深々と突き刺さった。
彼女でもないのに彼の花金を私が独占していることを多少後ろめたく感じることがなかったわけではなかったから、余計にそう感じた。
彼女はきっと治のことが好きだったんだろうな、と冷静に考えられたのはもっとあとのことで、今の私にそんなことを考える余裕はなかった。
「でも私の誘いに応じるのか、仮にあなたの誘いに応じるのか決めるのは結局治なんじゃないですか」
嫉妬は怖い。無差別の悪意にもなり得るから。
けれど、もうこれ以上私たちの関係性にとやかく言われる筋合いはないと思った。だからあとの言葉は驚くほどスラスラと流暢に出てきた。
「私は治の恋人ではないですけど、友人なので。何かそれ以上言ったら、治に今のこと全部話しますよ」
卑怯だと笑ってみろ。私のことを言うのは大いに構わないが、治に関して何か言うのは許さない。そんな心持で、私は彼女を見上げた。
一瞬だけ相手も怯んだが、またすぐに睨み返してきた。
随分と長い時間が経ったような気がした。
「何しとん」
そしてその沈黙は、戻ってきた治が破ってしまった。
何かを告げることなく無言のまま彼女が厨房の方へ去っていく。
「……ホンマに何してんねん」
「お冷注いでもらってただけだよ」
私たちの間のただならぬ空気を察したのか、治は首を傾げながらもそれ以上は追及してこなかった。
その日はどうにも居心地が悪くて、早々に切り上げて家に帰った。

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