「……雨降りそう」


空を見て、ぽつりと呟いた。
先ほどまで晴れていたはずの空には、いつの間にやら灰色の雲が漂っている。
早めに帰った方が良いな、と、俺は今し方血抜きを終えたばかりの猪を肩に担いだ。
山を下って、途中の道を横に逸れて。向かった先にあったのは、雨風に長年晒された一軒家。


「ただいま、母さん」


そう声をかけると、奥で繕い物をしていた人が振り返る。
夜の闇を溶かし込んだような、美しい黒髪が揺れた。


「お帰り、鯉珀」


にこ、と微笑むその顔は綺麗だ。
こんな山奥でなく、もっと町中で暮らしていれば、その美貌も噂になったろうに。
まあ、そうならないために、母さんはこの山の中の古びた家を選んだのだと聞くが。


「今日は猪が捕れたよ。後で牡丹鍋にでもしようか」
「ありがとう。いつも、ごめんなさいね」
「別に、単なる役割分担だろ。俺繕い物とか出来ねえし」
「ふふ」


そう柔らかく微笑む様は、山吹のよう。
まさに、山吹乙女。
その名の似合う、きれいなひとだ。
残念ながらその名をつけた男を、俺は知らないが。
……まあ、知る必要もないだろう。


「毛皮もさっさと鞣して売りたいけど……今日はどうも雨降りそうなんだよなぁ」
「雨の中山を下るのは危ないから、止めてね」
「俺は別に危なくないけど……まあ、雨の中妖怪でも出たら困るしな」


母さんは、こんな害のない容姿をしているが、実は妖怪である。
そしてその血を継いでいる俺もまた、妖怪なのだ。
母さんのように純粋な幽霊ではなく、別の妖怪と、それからなぜだか人間の血も入っているらしい。
その話をすると、母さんはいつも寂しそうな顔をするから、ちゃんと聞いたことはないけど。
ただ母さんは戦闘力がないので、俺がいない間に誰か襲ってくることがあっても対処が出来ない。
俺だってまだ数え年で十にいくかいかないかだが、母さんはそれ以上に戦えないのだ。


「…………」


ただ。
母さんは戦えないのに、不思議なことに、立派な刀を持っていた。
刀身が藤色に輝く、綺麗な刀。名を藤霧というらしい。
使わない刀ならさっさと売っぱらって金に換えて、新しい着物でも買えば良いのに、なぜだか母さんはそれを酷く大事にしていた。俺にも貸せないというほどに。
おかげで俺の獲物は、前に山で拾った木の棒と、獣を捌くときに使う硬い尖った石である。不便極まりない。


「っけほ、けほ……」
「風邪か?」
「うーん……いいえ、多分大丈夫だと思うわ」
「薬……この辺だとオオバコが生えてたな。後で取ってくるよ」


俺の知識は母さんと、後はたまに獣の皮なんかを売りに行く山の麓の町でたまに読む本から来ている。
あまり居座ると店主の視線が痛いのでたまにしか行かないが、町の書物屋は色んな本で溢れていて、俺はそれを立ち読みするのが嫌いじゃなかった。
たまに役に立ったりもするし。今みたいに。


「鯉珀」
「何?」
「……ううん、何でもないわ」
「そ」


たまに母さんはこうして、何かを言おうとしては止める。
気になるところではあるが、話したくないのであれば無理に話させる必要もない。


俺は母さんと二人の、慎ましやかだが楽しいこの生活を気に入っているから。
それだけで、十分なのだ。






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