ぬらりひょん、という妖怪を知ってる?
そう秀元に問うたのは、妖と初めて会った日の昼間だった。


『ぬらりひょん? うん、知っとるよ』

『どんな妖かって? そうやなあ……』

『その名の通り、ぬらりくらりと動いて一向につかめない。そこにいるのに分からない。そんな妖怪』


その時は、意味が分からないと首を傾げたものだ。
言葉が矛盾していると言うと、秀元は「それがぬらりひょんっていうものや」と返してきた。
だけど今なら分かる。あの言葉は正しかったのだ。








「ぎゃああああああ!!!!」


羽衣狐の悲鳴が、広間に響き渡った。
ぱっくりと割れた顔からは、黒く染まりきった妖気が溢れ出ている。
普通の妖気ならこんな色はしていない。これは、彼女が生き肝を喰らうことによって得た、穢れた力の権化だ。


「ぬ、抜けていく!! 妾の妖力が抜けてゆく!! ま、ま、待て!! 何処へ行く!! やや子のために集めた力……!!!」


必死で伸ばした彼女の指先を嘲笑うように、妖気は天井に開いた穴へと散っていく。
その場にいるだけなのに、空気の毒のような感覚が肌を覆って背筋が凍りそうだ。
きっとあれに触れれば、私だって無事ではいられない。もしかしたら妖怪だって。
それくらい、強力で邪悪な妖気だった。



……けれど、今……。
今、何が起こった……?

恐る恐る、妖の方に目を向ける。否、正確には彼の持つ刀に、だ。
見事な作りの、光り輝く刀。そして刀を包むように漂っている、気配。
間違いない。あれには陽の気が……陰陽師の気が、込められている。


「……あ、やかし……?」


呼んだ声に、反応はなかった。
ただ、此方に向けられた眼差し。
かつて向けられたどれとも違う、妖怪の本来の姿をそのまま映し出したかのように冷たいそれに、動けなくなってしまう。

先程の出来事は、一体何だったのだろう。
あれだけ妖を弄んでいた羽衣狐が、彼が接近してくるまでほんの少しだって動けなかった。
……いや、違う。そもそも妖は、いつ接近してきたのだろうか。
だってすぐ近くにその姿が見えるまで、気配なんてまるで……。


「戻りゃああ―――!!! 何年掛けて集めたとおもうとるぅ――――!!!」


その叫び声で、ようやく私は妖から意識を逸らした。
妖力を追いかけるように羽衣狐が飛び出していった天井の穴からは、どす黒い液体が滴っている。


「淀殿……」
「彼奴……何と言うことを!」


妖怪達の呟く声が聞こえる中、耐えきれなくなったように足ががくんと曲がった。
見ると、膝が信じられないくらいに笑っている。
接近した羽衣狐の顔を思い出し、目を瞑った。……怖かった、のか。私は。


「珀姫!」
「!」


自分の名を呼ぶ声に、瞼を開いた。妖は先程の雰囲気など微塵も感じられないような顔で、此方を見ている。
焦りと不安が混ざった顔。とても妖怪を纏める総大将なんて威厳はない。
驚くと同時に、何処か安堵した。大丈夫、この人は私の知っている妖だ。


「……妖……」
「大丈夫か? 何処か怪我は……」
「総大将!」


低い声が、妖の言葉を遮った。
顔を向けた先にいたのは、私を守るように刀を構えた牛鬼だ。


「ここは俺達に任せろ。アンタは彼奴を追え! 止めをさしに行け!!」
「牛鬼……」


彼の言葉に驚いたのもつかの間、妖は僅かに笑って背を向けた。


「……任せたぞ」


そう言い残し、羽衣狐が消えた穴へと飛んで行く。
もう大丈夫、と。牛鬼の言葉を聞いて力を抜きかけた、そんな時だった。


「――っ!!!」


それは、今まで感じたどの妖気とも違う感覚だった。
妖とも、雪麗とも、大阪城の妖怪達とさえ違う。
全身の肌が粟立ち、恐ろしいほどの寒気に支配されるような。
ただ、それ自体に覚えがなくても、似たものは感じたことがあった。
これは――羽衣狐の、怒気だ。


「……牛、鬼」
「どうされました?」
「……ごめんなさい、私……行かなきゃ」
「は? ちょっ……お待ちください!!」


震える足を叱咤して、何とか階段に向かって走り抜ける。
袂に手を入れ、式神の数を確認した。鵠gを入れて三枚。少し心元ないが、仕方ない。
駄目だ、今行ってはいけない。本能が拒否している。
それでも、妖がここに来たのは私のせいだ。私が連れてこられてしまったから。
自己犠牲、なんてつもりはないけれど。

妖が死ぬくらいだったら、いっそ。


「……!」


階段を上がりきり、屋根の上で見たのは、羽衣狐と妖が対峙する光景だった。
羽衣狐に動揺の様子は見られない。それどころか、初めて見たときと同じように落ち着いている。
間に合った。そう思った、その一瞬。

ゆらりと、羽衣狐の尾が上がった。






「……か、はっ……」
「……珀……姫……?」


何かがせり上がってくる感覚に口を開く。瞬間、鉄の味が広がった。
吐き出したものが血であることを確認した途端、凄まじいほどの痛みが走る。
目をやった先には、腹を貫くように突き刺さる真っ白な獣の尾。ずるり、と引き抜かれていったそれに、抗う術もなく私は倒れ込んだ。


「な……おい、珀……! 珀姫……!!」
「……げほっ……」
「止めを刺せると思うたか?」


朦朧とする意識の中、妖と羽衣狐の声が聞こえる。
咄嗟に張っていたらしい結界は、しかし僅かに遅れていた。完全に防げなかった攻撃が身体を直撃したのだと、今更になって気付く。
貫通したわけではない。だけど彼女の尾は確実に私の身体を捉えていて。


「……や、かし……」
「! 喋るな珀姫! 傷口が開く!!」


こんな時まで人の心配とは。熟々妖怪らしくない妖怪だ。
分かっていた。徐々に近付いてくる、とある陽の気配があることを。覚えのあるそれは、妖の持つ刀に込められたものと同じ。

もう、心配はいらない。彼が、秀元が来ているなら、大丈夫。
そう言おうと思ったのに、どれ程力んでも口から出るのは真っ赤な血だけ。
不鮮明な視界に映る、情けない妖の顔に、思わず口角が緩んだ。


「珀……!!」


妖の目が見開かれたのを最後に、私は完全に意識を落とした。






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