花開院家と言えば、京でその名を知らない者はいない。
古より続く由緒正しい陰陽師の家柄。朝廷からもその実力は買われており、妖に関する事件は全て花開院家が補っている。
よって、その本家に産まれた者は、誰より厳しく躾けられる決まりになっている。
幼い頃から陰陽術を教え込まれるのは勿論のこと、勉学、作法、体術、剣術、その他様々な能力を身につけされられるのだ。
そうして、花開院家は脈々と続く血筋を絶やすことなく守ってきた。
故に、妖怪は倒すべき者、悪の象徴であり。
そんな存在と関係を結ぶなど、言語道断なのである。
「なっ……は、え……い、今のは聞き間違いか……? そ、そうだよな……?」
「……是光兄様……」
「兄さん、聞き間違いやあらへんで。ボクもちゃーんとこの耳で聞いたもん」
「う、嘘だ……嘘だと言ってくれ、頼む……珀……!!」
「……嘘じゃないわ」
顔を真っ青にして、幽霊か何かのように這いながら此方へ向かってくる是光兄様。
その口から漏れ出るのは、狼狽えや現実逃避の言葉ばかりだ。
無理もない、とは思う。彼は花開院を誇りに思っていたし、ぬらりひょんのこともあまり信用してはいなかった。
だというのに、女とは言え花開院本家の者が、妖と結婚したいなどと申し出たのだから。
ぬらりひょんの言葉を受け入れてから、私は彼を連れて、本家の最奥にある秀元の部屋へと向かった。
秀元は何かを予測していたのか、大して驚きを見せることもなく。その代わりと言って良いのか、是光兄様は酷く狼狽していた。
「……ごめんなさい、是光兄様」
「っ……!! 妖……!! お前、珀に何を吹き込んだ……っ!!」
「!!」
「待って兄様、違うの、別に何か脅されたわけじゃないわ……!!」
「珀……」
是光兄様はぬらりひょんの胸ぐらを掴み、射殺さんばかりの目で睨み付けた。
慌ててその手に自らの手を重ね、必死に首を振る。
これは私の意思だ。申し込んだのはぬらりひょんではあるけれど、了承したのは私。
彼だけが悪いわけではない。むしろ家を裏切ったと言うことからすれば、悪いのは断然私の方なのに。
「……何故だ?」
「……え?」
「何故……そんな事を?」
幾分か落ち着いた声に問いかけられ、思わず言葉を無くした。
是光兄様が私に向ける視線は穏やかだ。ただ、眉を顰められたその顔は、困惑していることを多分に表している。
「……お前は、幼い頃から人一倍訓練に励んできて……妖怪を沢山倒すんだと、いつも言っていたのに……」
「……」
「なのに……どうして」
ずるりと、兄様の手がぬらりひょんの着物から滑り落ちた。
力の抜けた手とは裏腹に、口は硬く噛み締められ、歯の鳴る音までが聞こえてきそうなくらいだ。
伏せられた視線に言いようのない罪悪感を覚えつつ、それでも逃げることだけはしたくないと思った。
「……今でも、兄様達の事は尊敬しているわ。陰陽術を使って市街の人達を助ける……まさに花開院家の代名詞だもの」
「なら、」
「けれどね、兄様」
息を深く吸い込んで、吐き出した。
怖い。思いを吐露するのは怖いことだ。
……だけど、だからこそ。
「私、これ以上戦いたくなんかないのよ」
「そ……それは、どういう……」
「……初めて、妖怪を一人で倒したとき……あの時のことは、今でも覚えてる」
目を瞑れば、すぐにでも蘇るあの記憶。
最も古い強烈な記憶であり、忌むべきものでありながら忘れてはならない記憶だ。
「初めて……命を奪うことの意味を知った」
「……珀」
「自衛のための術は必要だと思うし、誰かを守れる力は強みだと思う。でも、私は花開院の名を冠しながら、陰陽師としては生きられない。……それは、私にとってとても辛いことだった」
陰陽師として生きる彼等を、どれほど羨んだだろうか。
正義のための行為だと呼べたなら、どれほど幸せだったろうか。
私には、そんな大義名分なんてない。あったのは、妖怪達をいとも簡単に殺してしまえる、恐ろしい力だけ。
花開院家は名門だ。故に私を縛るものも、普通の家とは比べ物にならないほど重たい。
「私は……もう、ここにはいられない」
「……だから?」
「え?」
「それが理由で……ぬらりひょんに、妖怪に嫁ぐと言うのか?」
向けられた鋭い眼光に、思わず身をすくませた。
分かってる。これも想定の範囲内だ。
簡単に理解して貰えるとは思っていない。……けれど。
「……そうよ」
「!!」
「初めてだったの。私を、花開院家の娘ではなく、一人の人間として見てくれた人は」
思えばいつだって、花開院に囚われていたのは私だけだった。
ぬらりひょんは、そんな名前一度も引き合いに出さなかったのに。
「裏切りだって分かってる。花開院の名を汚してしまうと言うことも」
「……」
「だから、私はここを出ていくとき、家系図から自分の名前を消すつもりよ」
「なっ……!? そ、そんなこと……」
「元からいなかったことに……は、流石に出来ないでしょうけど。大阪城での戦いで下手を打って、死んだとでも触れ回ればいい」
花開院家に未練がない、わけではない。
それでも、今更家系図から消えることくらい、何だって言うのだ。
そんなの、怖くなんてない。畏れることなんて、何もない。
自然と口角が上がる。
「それでも私は、この人に着いていく。もう決めたのよ、兄様」
「珀……」
私の名前を呼んだのは、ぬらりひょんだった。
目を移せば、多少の驚きを出している。
何て顔してるんだか。元はと言えば、そっちが言って来たくせに。
「し、しかし……」
「えーんちゃう?」
「は!?」
「僕は珀ちゃんの言うこと、認めてやってもええんちゃうかと思うよ、兄さん」
「秀元……?」
急に首を突っ込んできたかと思うと、秀元はいつもの笑顔でそんな事を言い出した。
思いも寄らなかった反応に驚いて、目を瞬かせる。
「本当?」
「うん。ぬらちゃん、別に悪い子やないし。それに、珀ちゃんがそう思ってるんなら、思うままに行動すべきとちゃうかな」
「だ、だが秀元、奴は妖だぞ!?」
「知っとるよ。……でもな、兄さん。彼が大阪城まで乗り込んで来たんは、何のためか分かってるやろ?」
「そ、れは……」
是光兄様が言い淀み、真っ直ぐだった視線が床をうろついた。
知らなかった。兄様もあそこに来ていたのだろうか。
ああ、でも来てなかったとしても知っているのか。だって私がここにいるってことは、誰かが運んでくれたと言うこと。
それが秀元でも、ぬらりひょんでも、はたまた他の誰かでも……私がこうなった経緯は、語られるはずだ。
「珀ちゃんの、花開院家としての力とか、癒しの力が欲しかったとしても、あそこまでして敵方である陰陽師を助ける妖なんておらんよ」
「……」
「それに、珀ちゃんだってそうやん? あれほど騒いどったのに、腹に穴開けられるほど無茶するなんて……今までのこの子からは想像できへんもん」
まあ、さすがにあれはやり過ぎと思うけど。
その言葉と共に向けられた視線に、肩を竦めて返す。
私自身、あの時の自分の行動は制御できなかったのだ。
何を言われたところで、今更どうかなる物でもないのだし。
「……一応言っておくとね、私が話しに来たのは別に許可を取りに来たわけじゃないわ。ただ、拐かされたなんて思われないようにしただけ。前科もある事だし」
「前科ってアンタなあ……」
目を向けると、ようやくぬらりひょんは口を開いた。
軽い溜息をついた後、彼は兄様達に向き直る。
目に宿っていた、戦闘時とはまた別の鋭さを持つ光に、少しだけ息が詰まる。
「妖……」
「別に、悪かったなんて言うつもりはねえ。ワシはワシのしたいようにしただけじゃ。妖怪なんざ、本来そういうもんじゃしなあ」
「何だと!?」
「ただまあ、花開院家がどういう態度を取るにせよ、此奴は貰っていくぞ」
「きゃっ!」
肩を引き寄せられ、身体がぬらりひょんの方へと傾いた。
同時に兄様の眉間の皺が、より深くなる。
聡いこの人のことだ、こうなるのは分かっているだろうに。喧嘩をしに来たんじゃないんだけれど。
「おい、珀から手を放せ!」
「嫌じゃ。もうワシと珀との間で約束は成立した。此奴の身体が落ち着いたらすぐにでも江戸へ発つつもりじゃしなあ」
「はあ!?」
「ちょっとぬらりひょん、私そんなこと聞いてないわよ」
「あん? ワシに嫁ぐんじゃろ、当たり前じゃねえか」
「……まあ、それはそうだけど」
そもそも奴良組って、江戸の妖怪だったのか。知らなかった。
慣れ親しんだ京を離れることに未練がないわけではない。ただ、ここにずっといるのも何だと思う。
京は狭い。いつ花開院本家の者と会ってしまうか分からないのだから。
身体に回された腕に手を重ね、改めて自覚した気がした。
もう私は、花開院の娘ではないのだと。
「……珀」
「はい、兄様」
「お前は……いいのか、それで」
「え……」
「……後悔、しないか」
痛々しいほどに顰められた、兄様の目を見つめた。
……ああ、そうだ。なんだか色々ありすぎて、どうにも忘れていたけれど。
この人はこういう人だった。真っ直ぐで努力家で、悲しいほどに優しい人。
そんな兄様を悲しませるのは心が痛む。けれど、だからこそ。
「勿論」
笑顔で、言わなければ。
「自分で決めたことですもの。後悔なんてしないわ」
思えば兄様には、沢山迷惑を掛けてしまった。
私が小さい頃、陰陽術の失敗で壊してしまった備品も、一緒に謝ってくれたりだとか。
皆がまだ寝ているような早朝、こっそり稽古を付けて貰ったりだとか。
ごめんなさい、兄様。
でもきっと、これで最後だから。
最期の、我が儘だから。
「………………分かった」
「!」
「兄様……!」
渋るように、それでも確かに兄様はそう言った。
図らずも弾んだ声に、兄様の眉間の皺が僅かに緩む。
「そもそも俺が口を出すのは、お門違いだ。頭首が認めたのであれば、言うことはない」
「……ありがとう、兄様」
「この妖に何かされたら式神を飛ばせ。速攻で滅しに行く」
「兄様……ええ、そうするわ」
「おい」
笑って頷けば、ぬらりひょんにコツンと頭をこづかれた。
知っている。このお人好しで、どうしようもなくらい好き者な妖怪が、私に危害を加えるはずがないことくらい。
それは兄様も同じだろう。これは彼なりの、冗談なのだ。
……冗談を言えるくらい、認めて貰ったということ、なんだ。
「……兄様」
「?」
「本当に、ありがとう」
再び、噛み締めるような礼を言う。
兄様は何も答えないまま、ただ静かに微笑んだ。
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