廊下へ出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
襖越しに聞こえる声が遠ざかっていく。あの部屋だけが異空間のように賑やかで、異質だった。
人の姿は何処にも見えない。声も聞こえない。きっと今頃、本家の陰陽師達は後処理に終われているのだろう。
羽衣狐は死んだ。けれどそれ以上に、多くの陰陽師達が死んだ。
珱姫の家で見たのはほんの一握り。他の姫君達を拐かすときにも、何人かは確実に殺されている。
花開院は分家をいくつか有するほど大きな家だ。それでも此度の被害者を考えると、存続も危ういのではないか。
秀元は生きている。是光兄様も、他の何人かの陰陽師も。でも五十年後は? 百年後は?
その時彼等の血が途絶えていない根拠は、何処にあるのだろうか。
「……寒いわね」
吐いた息は真っ白に染まり、消えていく。ああ、嫌だ。どうしよう、何だかこのままじゃ泣いてしまいそうだ。
この家から離れることを決めたのは私だ。花開院家がどうなろうと、私に出来ることは何もないはず、なのに。
口でいくら言おうと、いくら覚悟を決めようと。魂の奥底にまで染み付いた血は、誇りは、消え去ることがないのだろうか。
後悔なんてしていない。するつもりも毛頭ない。でも、だけど、……なんて。
嗚呼、なんて未練がましい。
「……――、江戸に帰るんか」
秀元の声でふと我に返った。当てもなく歩いている内に、元いたところからは大分離れてしまったらしい。
側にある扉から中を覗くと、秀元の他にぬらりひょんの姿も見えた。
向き合って、杯を酌み交わしている。普通なら異常な光景なのに、この二人だからだろうか、何処か自然に見えた。
「ワシは女狐と違って、この地に興味はない。魑魅魍魎の主になったら、江戸に戻るだけじゃ」
「珀姫ちゃんも連れていくんか?」
「おう。彼奴が望まんなら無理強いはせんが、そうでもないようじゃし……のう、珀姫?」
「! ……気付いてたの?」
いきなり呼ばれた名に肩を揺らし、顔を出した。
秀元は気付いていなかったのだろうに、流石妖怪は目敏い。……いや、秀元のことだから気付いていたかも知れないけれど。
何となく罰の悪さを感じながら、手招きされる方へと寄っていく。窓の近くに寄れば案外月光で明るくて、二人の姿もはっきり見えた。
「まさかホンマに、珀姫ちゃん嫁に取るなんてなあ。ご先祖様達も大激怒や」
「だろうな」
「苦労するで? 何せその子、気ぃは強いし天の邪鬼やし、そのくせ突っ走るしなあ」
「……聞き捨てならないんだけど。貴方そんな風に思ってたの?」
「おっと、失言や」
戯けた顔で、秀元は口元を押さえて笑った。
怒る気にもならなくてただ目をすがめていれば、ぬらりひょんから宥めるように徳利が差し出された。
受け取って、酌をする。彼の口に吸い込まれる前、一瞬だけ見えた酒の水面に映る月はやはり美しかった。
「試そうと思うことがあるんや」
秀元が、脈絡なくそう呟いた。
交代だと言いたげに傾けられた猪口に、酒を注いで。そうして改めて目を向けた先、秀元は静かな瞳でそこにいた。
「成功したら、強力な結界になる。四百年は妖は好き勝手出来ないやろうなあ……羽衣狐も」
「……ふん」
四百年。一拍おいて、その長さを飲み込んだ。
私達にとっては永久にも等しいほどに長い年月。なのにぬらりひょんにとっては、ただ少し長いと思うだけで終わるのだろう。
これから先、四百年後の京は、どうなっているのか。願わくば、安全なところであって欲しい。
誰も生き肝を狙われないような、……それでも妖怪の血は絶えることのないような、そんな場所で。
「まあ、五十年もしたら僕死ぬし? 関係ないんやけどな?」
「五十年……か。人間の寿命は短いな。お主とはもうこれっきりじゃのう」
「いやいや、その内会えるかもしれへんよ? 『破軍』として」
「『破軍』……? それって確か……」
「そ。代々の花開院頭首が式神となって出てくる、あれや」
「……そう」
そうか。秀元はそうやって、後生を目にすることが出来るかもしれないのか。
秀元が五十年後にいないなら、私だって五十年後には死んでいる。それでも頭首の彼なら、あるいは死んだ後でも生きられる。
「……何だか、少し羨ましいわ」
「え? 何で?」
「だって……」
徳利を握って、ぬらりひょんに目を向けた。
何十年、何百年と続いていく彼の生き様を、私は見ることが出来ない。
ぬらりひょんが妖怪で、私が人間である以上、それは仕方のないことで。だからこそ惹かれたというのに。
……寂しい、なんて。
「……別に、何でも」
「僕も羨ましいで」
「え?」
「だって珀ちゃんは、ぬらちゃんに着いてくんやろ? もう一生会えへんのは、珀姫ちゃんも同じやもん」
「……秀元」
少し驚いてしまった。
彼はこうやって、感情を表に出すことは滅多にないから。
微笑んだその顔に目を見開いて、私は更に、自覚した。
さよなら、なんだ。この家からも、今まで出会った殆ど全ての人からも。
「……ごめ、」
「あー、止めよ止めよ。こういうの苦手や。それに、別にすぐ発つって訳でもないんやろ?」
「ああ。珀姫の怪我が完治して、体力が戻ってからじゃな」
「ならええわ。その間に、気持ちも追いつくやろ。……な、珀ちゃん」
言いかけた言葉を、飲み込んだ。
秀元は優しい。ぬらりひょんも優しい。何だかんだ言っても、結局この人達にはそういうところがある。
懐に入れた人間を、甘やかすような。顕著でなくとも、たまにしか出てこないような一面だとしても。
もうさんざん悩んだ、でしょう。
昔から考え込むことばかりして、踏み出せずにいたけれど。
そろそろ、一歩くらい歩き出しても、いいのかもしれない。
失敗したって、きっと彼等は、何だかんだで助けてくれるから。
助けてくれた、から。
「……うん、そうね。……ありがとう」
涙も後悔も、例え尽きなくとも。
それを全て飲み込んで、笑顔を浮かべるのだ。
私はそれが、出来るのだから。
いつかの未来で、私の人生が終わるその時まで。
→
back
ALICE+