鋭く光る小刀を指に滑らせると、赤く浮き出た筋の先に小さな血溜まりが出来た。
そのまま指を伝って落ちていく血液は、紙に描かれた陣の中央に滴ると共に消えていく。
普通ならおよそ信じがたい光景をぼうっと見ていれば、不意に「珀姫ちゃん」と声がかけられた。


「そのくらいで充分や、もう止めとき」
「あら、もういいの? 随分と少ないのね」
「体液……それも血液なんて、力そのものとほぼ同じやからなあ。その点で言えば、妖怪が生き肝狙うんも、まあ道理に適っとるっちゃ適っとるかもしれへん」
「花開院家の当主がそんな事言うなんて、兄様に聞かれたら怒られちゃうわよ」


くすりと笑って言った言葉に、秀元もまた口角を上げながら肩を竦めた。
小刀の血を拭き取って秀元に渡し、代わりに受け取った布で指を止血する。
私は力のせいか、軽い傷程度なら比較的早く治る事が多い。この程度であれば、多分明日にはすっかり消えているだろう。


「それにしても初めて知ったわ、神通力が結界にも役立つだなんて」
「僕もこの間文献見とって初めて知ったんよ」
「あら、文献に?」


神通力なんて、持っている方が珍しい。それも昔の世なら尚のこと、そういった不思議な力は忌むべき物として隠匿されていただろうに。
それが文献に、だなんて。一体どこから情報を仕入れたのやら。花開院家の知識は広いと思っていたけれど、本当に際限がなさそうだ。


「でもよかったん? 珀姫ちゃん、陰陽術が嫌やって言いよったんに、結界作りに加わってもろうて」
「……これで最後、なんて言われたら断れないわよ。それに、もう今更じゃない。花開院に置かれてた理由そのものなんだから」
「ん……まあ、そやねえ。結界だけならともかく、陰陽術は最終的に物言うのは霊力やしなあ。その点、珀姫ちゃんは重大な戦力やから」
「惜しむらくは女である事――なんて、昔から御爺様達によく聞かされたわ。囲うだけ囲っといて文句言うなんて、今思えば随分な話よね」
「あはは、珀姫ちゃん言うようになったなあ。それもぬらちゃんの影響なん?」
「どうかしら。……でもまあ、踏ん切りは付いたかもね、色々」


一つ微笑んで、結界陣の描かれた紙に目を落とした。
私ではなく私の霊力を目当てに家に置かれているのは、幼い頃から何となく分かっていた。
嫁入りや奉公を目的として育てられている他の娘達とは異なり、私はしばしば結界作り等の場にも連れ出されることがあったから。
その度に突き刺さる数々の視線にだって、慣れてしまうほどに。
とはいえ、そういう場ですらも、女の身で陰陽師を名乗ることは許されていなかったけれど。


「ねえ、そんな事よりこの結界、次はどのくらい持つの?」
「本家の結界の強度は前と然程変わらへんよ。珀姫ちゃんの神通力が加わったことで、花開院家の治癒力なんかが上がることはあるかもしれへんけど」
「……じゃあ、また羽衣狐が復活したら?」
「そうならへんよう、いくつか策は考えとくから。ま、復活したらその時や。子孫が頑張ってくれるやろ」


……子孫、か。
花開院家の血を継いで、生まれてくる者達。彼等は一体どれほど強いのだろう。
歴代最強とまでいわれる秀元に匹敵する者は、いるのだろうか。
沸き上がった不安を、首を振って押さえつける。今の私がどれほど考えたところで、所詮遠い未来に干渉なんて出来やしないのだから。


「……秀元、もう一つ、聞きたい事があるのだけれど」
「んー? どないしたん?」
「羽衣狐があの時言っていた、呪いのこと。……検討は、ついているの?」
「んーん、ぜーんぜん」
「……………………」
「珀姫ちゃん、顔、顔。別嬪さんが台無しやで」
「誰のせいだと思ってるの」


はあ、と溜息を吐く。
秀元はどうにもあっけらかんとしているというか、飄々としているというか、つかみ所のないところがある。
もう十年以上こうして一緒にいるというのに、未だに彼の事が理解できそうにない。


「私の血が入った結界って言っても、呪いまで封じられる訳じゃないんでしょう?」
「そやねえ、珀姫ちゃんが直接力を使えば、もしかしたら呪いへの対抗力が強まるとも分からへんけど。もし代々受け継がれていくもんやったらそれも無理やしなあ」
「……命を奪う呪いって可能性は?」
「ないとは言えへんけど、それやったらすぐにでも発動するはずや。どんな呪いか確認しようにも、呪いが表に出てきいひんことにはどうも出来んよ」


呪いを確認する儀式については、私も以前文献を読んだことがある。
けれど秀元の言うとおり、その儀式は呪いが発動していなければ分からないものだ。今行っても意味がない。

ならば、他に何か対策は出来ないのだろうか。
出来ることなら呪いの発動を押さえるものがいい。それが無理なら呪いの効果を薄めるのだっていい。
少しでも効果があるなら、もう何にだって頼りたい。
だって彼等が呪われてしまったのは、私のせいでもあるのだから。


「珀姫ちゃん」
「何、秀元……っ!」
「あはは、ひっかかったー」


びし、と。顔を上げた瞬間、額に軽く走る衝撃。
鈍い痛みと、顔の前に構えられた手の形で、額を弾かれたことを知る。


「……ちょっと」
「言うたやろ、そんな顔しとったら別嬪さんが台無しやでーって。江戸に発つんももうそろそろやろ? あんま小難しいこと考えよったら婚儀までに額に皺出来てまうよ」
「こっ……そ、そんな事今関係ないでしょ!」
「いやいや、まあぬらちゃんは珀姫ちゃんがどんな顔になっても貰ってくれはるやろうけど、やっぱしかめっ面の奥方はあかんやろ」
「秀元!」


けらけらと笑う秀元に、顔が熱くなるのを感じながら睨みを飛ばす。
……まあ、是光兄様があれだけ言って聞かないのに、私が睨んだくらいでどうこうなるとも思えないけれど。


「そやから、珀姫ちゃんは呪いのことは何も気にせんでええ」
「!」
「今気にしてもどうしようもあらへんのやし、呪いのことは発動してから考えればええんや。花開院家のことは僕や兄さんが考えることやしな」
「それは……そう、だけれど」
「何か分かったら知らせたるさかい、それまで待っとき。……ま、どうしても不安やったら、ぬらちゃんにずっと抱きついとくって手もあるで?」
「な、っ……!」


顔にあからさまにおもしろがるような表情を浮かべて言う秀元は、やはり私の睨みなんて物ともしていないらしい。
それが神通力を使うという意味だと分かっているのに、茶化すように言われた言葉を受け流せない私も私ではあるのだが。


「……分かったわ。でも何かあったら絶対教えてね、約束よ?」
「はいはい、覚えとったらね」
「……」
「もー、だからそんな顔したらあかんって。分かった分かった、ホンマに心配性やなあ珀姫ちゃんは……諦めも時には肝心なんやでー?」
「別に、そういうつもりじゃないんだけど」


呆れた様にぼやく秀元に、もう一度溜息を吐いた。
花開院家を守護する結界作りに関して、私が出来ることは全て終えた。後は秀元が仕上げれば、新しい結界が完成するだろう。
これまでのものと然程強度が変わらないとはいえ、『四百年は妖怪が好き勝手出来ない仕掛け』なるものが無事に出来たならば、きっとこの結界も同じくらいは持つはずだ。つまりは花開院家が妖怪に攻撃される心配も、四百年は取り敢えずないと言っていい。
呪いについて心配することも早すぎると言われてしまったし、今のところ私が出来ることはやりきった、はずだ。

……念のため、書物を読み返しておこう、と思ったのも、心配性と言うほどではない……と、思う。多分。





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