溶けそうな色をした夕日が、見慣れた山間に沈もうとしていた。
今まで数え切れないほど見てきた光景だというのに、もう二度と見ることが出来ないのだと思うと名残惜しく感じてしまう。
そんな気持ちを抱えたままぼんやりと眺めていると、不意に「珀姉様!」と声を掛けられた。
「珱姫、来てくれたのね。それに、兄様と秀元まで」
「出発が今日だとお聞きしたので、お二人にお願いして連れてきていただいたんです」
間に合って良かったと微笑む珱姫に、此方も頬を緩めて返した。
珱姫の後ろからは、是光兄様と秀元が着いてきている。事情を知っているのは花開院家の中ではこの二人だけとはいえ、二人とも見送りに来てくれるとは思わなかった。
勿論、二人が私のことを少なからず大切にしてくれているのは知っているけれど。それでも、特に是光兄様が、奴良組の妖怪達が多数集まる場所に来るだなんて。
京で一番大きな河の辺には、珍しく人気はほとんど無い。その代わりと言わんばかりに、見上げるほど大きな船が、大勢の妖怪達の後ろに浮かんでいた。
「おっきい船やなあ。これも奴良組の妖怪なん?」
「らしいわ。宝船っていうんですって」
「京までこれに乗ってきたのか……。今まで何処にいたんだか、全く気づかなかったな」
「姉様、妖様達はどこにいらっしゃるのですか?」
「今、丁度荷物の整頓をしてる途中よ。もうすぐ終わると思うけれど」
言いながら、目を向けた先。宝船のすぐ側に、大量の荷物が積み重なっている。
京で買った物もあるだろうが、半分以上は貰い物だと聞いた。羽衣狐を倒したということは、奴良組がこれから妖怪達の頂点に立つと言っても過言ではない。
そんな彼等に今からでも媚びを売っておこうという妖怪達が多いのは、不思議なことではないだろう。
「手伝おうかと言ったのだけれど、断られてしまったわ」
「そりゃあ、奥方にそんなことはさせられねえさ」
「!! ぬらりひょん貴様、馴れ馴れしく珀姫の肩を抱くな!」
「堅い事言うんじゃねえよ」
突然隣に現れたぬらりひょんに対し、是光兄様は苛立ちの声を上げている。
どうでもいいが私を挟んで喧嘩しないで欲しい。居たたまれない。
是光兄様は依然としてぬらりひょんのことを良くは思っていないらしい。当たり前といえば当たり前だ。
というか寧ろこれが普通で、私や秀元の方が異常なのだろう。それでも攻撃しないのは、せめてもの線引きかもしれない。
「まあまあ兄様、落ち着いて。折角見送りに来てくれたのでしょう、口論で終わらせてしまっては勿体ないわ」
「む、そ、そうだな。すまない珀姫」
「いいえ。……それにぬらりひょん、貴方も。あまり兄様をからかわないで頂戴」
「人聞き悪ぃな、別にからかっとりゃせんぞ。遊んどるだけじゃ」
「なっ!? この性悪妖怪め……!!」
再び口論を始めた二人へ呆れ眼を送っていると、不意に肩を叩かれる感触がした。
目を向けた先には、矢絣模様の風呂敷包みを抱えた秀元の姿。
先程までそんなもの持っていなかったはずなのに、どこから取り出したんだろう。
「これ持ってき、珀姫ちゃん」
「あら、なあに?」
首を傾げつつ受け取れば、どうやら中に入っているのは大きめの箱らしかった。
手触りと透けて見える色合いから察するに、多分漆塗りのものだろう。そう言えば秀元の部屋に似たものがいくつかあった気がする。
箱の中身までは分からなかったけれど、当主の部屋にあるのだから相応に貴重な物のはずだ。私が受け取っていいんだろうか。
「これは?」
「あ、まだ開けたらあかんで。大事な物なんやさかい、気ぃ付けて持ってってな」
「何が入ってるの?」
「んー……秘密や」
「え?」
首を傾げるも、秀元が笑みを崩すことはない。
何も彼に秘密にされるのは珍しいことではないけれど、態々私に持っていくよう告げたにも関わらず教えてくれないなんて。
勿論後から開けてしまうのは簡単だけれど、彼が言うからにはそれなりの訳があるはずだ。
訝しげに見つめ返すと、秀元はすっと目を開いて言った。
「この先珀姫ちゃんが、一人じゃどうにもならへんって事が起こるかもしれへん。その時だけ、最終手段として開けえな」
「どうにもならないって、どういう……」
「今はまだはっきりとは分からへん。けどまあ、備えとくに越したことあらへんしな」
この包みの中に何が入っているのか分かる時、私は何をしているのだろう。
そもそも、一人じゃ、という言葉の意味もよく分からない。ぬらりひょん達だっているだろうに。
秀元にはその答えが分かっているのだろうか。まだ来るかも分からない未来のことなのに、彼が言うと何故か不思議と予言のように聞こえてしまう。
包みを抱え直し、私はそっと頷きを返した。
「……分かったわ。ありがとう、秀元」
んー、と軽い声で落とされた返事は、きっと私に必要以上の不安を抱えさせないために努めてそうされたものだ。
呪いのことだって発動してから、なんて言っていた彼が態々備えをくれたことからも分かる。
思えば初めて会った時から秀元は過保護だった。実感する機会は、そう多くはなかったけれど。
「総大将ー! 珀姫様ー!」
「!」
「準備できやしたぜ!!」
「行きましょー!!」
「おう!」
呼ばれた名前に顔を上げ、もう一度三人に目を向ける。
兄様、秀元と順に視線を交わし、最後に珱姫に目を止めて。
「ねえ、珱姫。いつか、絶対にまた会いましょうね」
「はい……はい、姉様。必ず、また……!」
「それから……秀元様、是光様」
「!」
「今まで、本当にお世話になりました。御達者で」
そう言って、深々と頭を下げた。
途端に驚いた顔をする二人は、けれどすぐにふっと柔らかく微笑んで。
その何処か似通った表情に、血の繋がった兄弟なのだと改めて自覚した。
「行くか、珀姫」
「……ええ」
少しだけ後ろ髪を引かれる思いになりつつも、それを振り切るように前を向く。
船の向こうに見える空は懐かしい色をしていた。ぬらりひょんと初めて会った時の色だ。
日が沈んで空が暗くなり、次第に人ならざる者の時間がやってくる、丁度その境目の空。
その東の方に足を進めながら、私はそっと笑みを浮かべたのだった。
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