「さっきのは何だったんじゃ?」
月明かりが船の甲板を煌々と照らす中、ぬらりひょんがそう口を開いた。
まだ夜は明けない。月の銀色の光は昼間ほど明るくはないけれど、普段より距離が近いせいで顔を認識するには十分だ。
さっきの、という彼の言葉に少し考えて、思い当たった。船に乗る前の挨拶のことだ。
最後だからと思っていつもと違う呼び方をしたのだった。そう言えば、ぬらりひょんの前ではああ呼んだのは初めてだったか。
「……ずっと昔はああ呼んでいたのよ、まだ私が小さかった頃のことだけれど」
「小さかった頃?」
「そう。元々私はあの家で暮らしていたわけじゃなかったから、あまりあの二人に会うこともなくて」
兄様はともかく、花開院家当主である秀元を呼び捨てにするなんて普通じゃ無礼だとして怒られてしまう。
現に先代の時はそうだった。当主様、と呼ぶよう父から強く言い聞かせられたことを今でも覚えている。
興味深そうな顔をしたぬらりひょんにくすりと笑って、話の続きを考える。
夜はまだ長く、眠気は未だに来ない。普段とは異なる状況下で何処か気持ちが浮ついていて、だからだろうか、昔の事をよく思い出す。
「私があの二人の従兄弟だって話は?」
「ああ、そういや秀元がそんな事を言っとったな」
「父は次男だったし、才能も伯父の方が上だったから、家を継ぐのは伯父の方だと昔から決まっていたんですって。それで、父は家を出て母を娶ったって聞いたわ」
伯父に劣るとは言え、父もそれなりの陰陽師ではあった。
それでもあの家で家督を継ぐのは力のある陰陽師だ。父が家を出たのにも、多分色々な葛藤があったんだろう。
花開院という苗字を捨てることはしなかったけれど、思い出せる限り、記憶の中で父が本家に行ったことは数えるほどしかない。
「でも私が産まれて何年か過ぎたころ、当時の当主が私を本家に迎え入れたの」
「態々か? 跡取りは秀元じゃろう?」
「跡取りとは関係ないわ。当主の目的は、私の力だったから」
「力……というとアレか、人の力を高めるとかいう……」
「神通力じゃなくて、霊力の方ね。当時はまだ私の神通力は発現してなかったし」
本家に入ってから、父と会うことは殆ど無かった。
母は花嫁修業のためによく来ていたけれど、それでも本家と私の生家を行き来していたから、父は相変わらず家で暮らしていたのだろう。
寂しいとは思わなかった。あまり構ってくれなかった父よりも、優しい是光兄様や秀元の方が好きだったから。
結局最後まで、あの人と会うことはなかった。連絡が行っているのかすら分からない。
あの人のことだ。本家に入った娘はもう自分の娘として認識しているのかすら危ういし、私のことなどとうに忘れてしまったかもしれないが。
「陰陽術の種類によっては、霊力の質や量にかなり出来映えが左右されるものもあるのよ。私は生まれつき霊力が高かったから、そういう術を使う時の霊力用に引き取られたんだと思うわ」
「ふうん。じゃがアンタ、確か陰陽師としては生きられねえって言ってたじゃねえか。それはどういう事じゃ?」
「ああ……何て言えばいいのかしら。……陰陽師って基本的な仕事としては、誰かに依頼を受けて妖怪退治をしたり、結界を張ったり、護衛したりするんだけど」
何となくぬらりひょんの方を向きづらくて、手遊びをするように指を動かしながら手すりに腕を乗せる。
妖怪の前で妖怪退治だ何だと言うのは気が引けるのだ。
多分、彼は気にしないだろうけれど。
「私は自分に危険が及んだ時だけ、陰陽術を行使することを許可されていたの。逆に言えば、例えどれほど親しい人が危険に晒されようと、自分から乗り込んで助けには行けないってことね」
「なんでまた」
「女だから」
「ん?」
「花開院家で後を継げるのは……つまり陰陽師になれるのは男子のみだって、引き取られて何年かした頃当主に言われたのよ」
事実上の戦力外通告。
人の霊力を使っておきながら随分と都合のいい話だ。今はそう思うけれど、当時はそういうものなのだと納得するしかなくて。
たまに兄様や秀元に見てもらいながら陰陽術の練習はしていた。でもそれだけだ。
秀元が十三代目の当主を継いだ後も、私が陰陽師として公に出ることはなかった。
「花開院家の昔の陰陽師に女はいなかったのか?」
「さあ、知らないわ。調べてみたこともない。だって昔にそういう人がいたとして、私が駄目だと言われたことには変わりないじゃない?」
「……良かったのか?」
「……あの頃は、それが当たり前だったのよ。当主の言うことは絶対で、逆らう方がおかしかった」
良いも悪いもない、私がどう思おうがそんな事は関係無いのだから。
秀元の前の当主様とは、あまり話したことはない。お忙しい人だった。
秀元ほど親しげな訳でもなく、話す機会も殆ど無い。有るとすればそれは、私の霊力を使って何か術を行使する時だけ。
嫌いではない。でも苦手だった。
幼い私の目線のはるか上にある顔はいつだって表情が読めなくて、霊力だけを目的に引き取った冷たい人かと思えば時々親のような眼差しを向けてきたりして。
思い出してみてもやっぱり、あの当主様が何を考えていたかなんて分かるはずもない。
ぼんやりとそんな事を考えていれば、不意に骨張った手が自らのそれに重ねられた。
驚いてぬらりひょんを見る。彼の眼差しは優しくて、図らずも胸が高鳴った気がした。
「アンタは怒るかもしれんがな、ワシは良かったと思っとるよ」
「え……?」
「もしアンタが陰陽師として生きてきたなら、これまでの人生で何一つ危険に晒されんかったとは言えんじゃろ? むしろ命が危なかった可能性すらある」
「……そ、れは、……まあ、そうだけれど。でも……」
「ああいや、説教するつもりじゃねえんだ。ただそうなったら、アンタと出会うこともなかったかもしれん。それは何と言うか……つまらんじゃろう?」
ふ、と笑ったぬらりひょんの顔は、どこかいつもより柔らかい。
静かに吹く夜風の中で、金の瞳が光っている。望月のようなそれに見つめられながら、私はそっと笑みを浮かべて目を伏せた。
「……そうね。そうかもしれないわね」
「じゃろう?」
「そうなったら一生花開院家で生きていたでしょうし、何よりもっと強かったでしょうから、貴方のことも出会った瞬間滅していたかもしれないわ」
「怖えこと言うのう。そうなったらワシはアンタにとって取るに足らない妖怪の一人で、すぐに忘れ去られちまうじゃろう?」
「ふふ。もしもの話よ。……ああでも、どうかしら」
「ん?」
「私は今まで倒してきた妖怪のこと、誰一人として忘れたことはないわ。……命を奪っておいて忘れるような人間になんて、なりたくないもの」
戦うことが間違いだとは思わない。そう思ってしまえば今度こそ、本当に私は花開院家を裏切ることになる。
花開院と私の考えの違いは一つだけ。全ての妖怪が滅する対象であるか否か、それだけだ。
昔は、というかぬらりひょんと関わるまでは私だってそうだったけれど。もしあの時ぬらりひょんが花開院家に侵入しなければ、きっと今だってそうだっただろう。
「アンタ、やっぱり変わってるのう」
「あら、貴方にだけは言われたくないわね」
「そうかい? じゃが陰陽師が妖怪を命として数えるのは、変わってると思わねえか?」
「……まあ、そうね。確かに前当主はそういう人だったわね」
「じゃろう? それが普通じゃ」
前の当主は倒したらそれで終わり、というような人だった。
別に冷血漢と言うわけではない。それでもそれがあの人にとっては普通だったのだ。
妖怪を殺す、といわずに倒す、というところも。私の中にだって、その流れは続いている。
妖怪の命の事を一々考えてしまえば、陰陽師なんてやっていられないから。ぬらりひょんの言う通り、それが普通で、当然なのだろう。
「でも貴方だって変わり者よ。花開院家に侵入だなんて、普通の妖怪なら絶対にしないもの」
「いいじゃねえか、似た者同士で。似合いの恋人じゃ」
「っ、……急にそういう事言わないで」
「何じゃ、照れとるのか?」
「ちょっ……もう!」
面白がって覗き込んでくるぬらりひょんの顔を腕で押しのけながら、赤くなった顔を隠すように必死で距離を取る。
ついさっきまでは戯れのように談笑していたのに、何かと言えばすぐからかってくる。
この先この人と生きていくのであれば、こういうことだって日常茶飯事になるのだろう。
慣れていけるかに自信はないけれど、今分かることは、これもきっと一つの幸せの形だということだ。
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