「ああもう放しなさいよ! あの子にちょっと挨拶するだけよ!」
腰に一人、両足に二人ずつ、雪麗の体には、カラス天狗から彼女を止めるよう言いつけられた妖怪達ががっしりとしがみついていた。
雪麗の怒鳴り声を受けても、彼等は手を放そうとしない。雪麗は怖いが進ませるともっと怖いのだ。
けれど肉体的には然程強くないはずの雪麗だが、意地があるのか重りを付けていることを感じさせないままずんずんと進んでいく。引きずられる妖怪が哀れな声を上げた。
「お待ち下さい雪麗様〜〜!!」
「お止め下さいー!! どうかー!!」
「だぁからちょっと挨拶するだけっつってんでしょ!!」
妖怪の懇願を気に止めないまま、雪麗はとうとう花嫁の待機する部屋の襖に手をかけた。
「珀姫、ちょっと――」
と、そこで言葉は途切れ、しんとした沈黙がその場に走った。
突然大人しくなった雪麗に、しがみついていた妖怪達が恐る恐る顔を上げる。
だが彼等もまた、部屋の中を見た瞬間動きを止める。
ずるりと彼等の手が、雪麗の体からずり落ちた。
――そこにいたのは、目を疑うほど美しい人間だった。
真っ白な白無垢は、同じく白い糸で藤と牡丹の細かな刺繍が施されている。
光に反射する掛下と半襟との間に、差し色のように紅の伊達袴の姿が見えていた。
その紅に惹かれるように目線を上に持って行けば、綿帽子の下から同じく紅の口紅が覗いており。
うっすらと白粉をはたいた肌の上に、伏し目がちな、けれど此方を圧倒させるほどの引力を持った瞳が存在している。
その瞳と視線がかち合ってしまえば、後はもう口をあんぐり開けたまま眺めるしか、できることは残されていなかった。
……これは本当に人間か。妖か何かに騙されていると言った方がまだ分かる。
珀姫は天下一の美姫と噂され、天女も羨む美貌と伝えられていたと聞く。天女なんぞ見たことはないが、それでも断言できる。
彼女ほど美しい存在は、この世界のどこにもいるはずが無いと。
最早呪われてこの姿になったと言われても納得できそうな程、その女の美しさはあまりにも桁外れだった。
「……雪麗?」
ゆるりと開いた口に名を呼ばれ、雪麗ははっと我に返る。
訝しげに此方を見つめる瞳から目が離せないまま、何とか口を動かし返事を出す。
「……っ、珀姫、……アンタ……」
「どうしたの? ……もしかして、何かおかしなところがあった?」
「や、……いや、そうじゃないわ。そうじゃ、なくて……」
「……?」
駄目だ、頭が回らない。
見られている体が震える。言葉を絞りだそうとした喉が締まる。
目を合わせるのですら困難になって、雪麗は何とかしっかりしようと取り敢えず頬の辺りに目をやりながら己を叱咤する。
しっかりしなさい、こんな事で呆けるなんてらしくなさすぎるでしょ!
珀姫は珀姫じゃない、そりゃあちょっと化粧や衣装が普段と違うけど、でもそれだけでしょ。
何か別の物に取って代わったわけじゃないし、それに――
「雪麗?」
「うっ……! ……ちょ、ちょっと待って」
ぱち、と目が合ってしまって雪麗は思わず胸を押さえた。
何この苦しさ。見てはいけない物を見てしまった気分。
立て直すべく雪麗は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
「……大丈夫?」
「……平気、平気よ。……よし!」
カッと目を開ける。覚悟して見た目の前の姫君は、相も変わらず魂消るほど美しかったが、幾分か時間を置いたおかげで何とかなりそうだった。
「ふう……。待たせたわね」
「それは構わないけれど、本当に平気? 具合でも悪いんじゃなくって?」
「大丈夫よ。ただちょっと、予想外だったもんだから」
「? ……そう」
ふう、と息をついた珀姫に、雪麗はきょとんとした顔を向けた。
そう言えば今日の珀姫は何処か大人しい気がする。元々年甲斐もなくはしゃぐような性格では無いとは言え、本来はもっと元気だったはず。
思えば僅かに顔色も悪い、様な。何かあったのだろうかと、雪麗は口を開いた。
「珀姫、アンタちょっと体調悪いんじゃないの?」
「え、……そう?」
「顔色も悪いしアンタらしくなく大人しいわ。何かあった?」
珀姫は雪麗のその問いに、そっと白い手を顔に持っていった。
手と比べればやはり顔色の悪さは一目瞭然。どうしたのかと再度聞けば、珀姫は言い辛そうに目を向けた。
「その、……昨日、あまり眠れなくて」
「眠れない? 何でまた」
「どうにも、今日が婚儀だって思うと……。緊張してるみたいで」
「緊張〜〜?」
貧弱な、と言いそうになるのを、雪麗はすんでの所で堪えた。
羽衣狐に攫われて殺されかけるなんていう経験をしておきながら、しかも人質状態で啖呵を切っておきながら、婚儀程度で緊張とは。
どうにも人間の感覚はよく分からない、と溜息が出る。
「何をそんな緊張することがあるってのよ。花嫁のやることと言えば、花道歩いて座って、後は杯交わすだけでしょ」
「それはそうだけど……。だって聞こえるでしょう、あの声」
「声?」
「奴良組と関係のある組の妖怪達が勢揃いしている声よ。あんなに沢山の妖怪達が集まる中で、万が一何かやらかしでもしたら……」
「アンタねえ……」
起こっていないことを一々考えてもしょうがない、と雪麗は思う。
けれどそれが人間の可愛らしい所なのだろうか? 少なくともぬらりひょんはそう思ったのだろうか?
奴良組の奥方になる人間だ、細かいことに怖じ気ついてちゃ務まらないと思うけれど。
それでも気の合わない仲じゃない。何とか励ましてやろうと考えたところで、いつの間にか閉じられていた襖がスッと開いた。
「珀姫様、失礼致します。お客様がご到着なさいました」
「お客様? どなたかしら」
「はい、江戸の北部よりお越しの、」
「珀姉様!」
「!」
澄んだ空の様な声音が、静かな部屋に反響した。
伏せ気味だった珀姫の瞳が、一気に見開かれる。それと同時に、雪麗はくるりと振り返った。
「珱姫!」
「珀姉様、お久し振りでございます! お会いするのを、一日千秋の思いで待っておりました!」
そこにいたのは、珀姫の友人――珱姫だった。
いつもは下ろしている艶やかな黒髪を桜色の布で束ね、同じ色の着物を身に纏っている。
くりくりとしたつぶらな瞳は嬉しそうに細められ、頬にもほんのりと柔らかな色が乗っていた。
「雪麗様も、お久し振りでございます」
「珱姫じゃない。間に合ったのね」
「はい、何とか。それにしても、」
珱姫は頭を下げ雪麗への挨拶を述べると、それもそこそこに、珀姫へと目を移した。
「珀姉様、本当に、本当にお美しいです……! この度はご結婚、誠におめでとうございます……!!」
「珱姫……ふふ、ありがとう。もっと近くに来てくれるかしら、顔を見たいわ」
「はい! 失礼致します」
目を潤ませて感動した様子の珱姫は、その顔のままそっと珀姫の元へ近寄った。
珀姫の白い手が、珱姫の頬へと伸ばされる。すり、と頬を撫でた手をくすぐったそうに受けながら、珱姫はふふと笑った。
「珱姫、元気にしていた? 向こうで何か困ったことはない?」
「はい、私はとても元気でした。親戚の方々もとてもよくして下さって」
「それは良かったわ。最近は何をしているの?」
「稼業の手伝いを。最初はなかなか慣れなかったのですが、続けるうちに段々とできるようになってきました」
「そう、頑張っているのね」
きゃっきゃっと楽しそうに会話する二人は、まるで本物の姉妹のようだった。
系統は違えど美しい顔が二つ並ぶ様子に、その場にいた妖怪達もうっとりとした顔で見つめている。
緊張していたらしい珀姫も笑みを浮かべており、その姿に雪麗はほっと息をついた。
と、その時、
「失礼致します」
襖が静かに開けられ、女妖怪の一人が顔を出した。
「珱姫様、客席の用意が整いましてございます。ご準備の方をお願い致します」
「分かりました、ありがとうございます」
「あら、もうそんな時間? 早いのね」
「私が来る時にはもう、丁度日が沈みかけていましたから」
そう言うと、珱姫はにこりと笑って立ち上がった。
「それでは姉様、私はそろそろ向かおうと思います。婚儀、楽しみにしておりますね」
「分かったわ。また後でね、珱姫」
「はい姉様。失礼します」
珱姫は丁寧に頭を下げ、その後雪麗にも一礼すると、案内の妖怪の後を追って部屋を出て行った。
礼節をわきまえた姫君だ、と雪麗は思う。父親は随分な人間だと聞いていたが、教育はしっかり施されていたらしい。
あの分だと珱姫自身の婚儀もそう遠くはないなと考えつつ、雪麗は珀姫に向き直った。
「ん、顔色良くなったわね。珱姫が効いたかしら」
「効いたって、薬じゃないんだから。……でもまあ、そうね。珱姫のおかげだわ」
ふふ、と珀姫が小さく笑う。
その顔からは先程の蒼白さは失われており、雪麗は笑みを返した。
励ましてやろうと思っていた目論見が外れたことに、ほんの少しの悔しさを覚えたけれど。
それを出すべきは今じゃないと、心の中に押し込んで。
「さ、珀姫も。客席の準備ができたってことはもうそう遠くないうちに花嫁も呼ばれるわよ。準備はいい?」
「……ええ。まだ少し緊張するけど、緊張したってどうにもならないものね。腹をくくるわ」
握り拳を作ってよし、と意気込む珀姫に、雪麗は微笑んで。
自分も準備をしようと、そっとその場を離れたのだった。
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