月が煌々と輝いていた。
星の見当たらない、墨で塗りつぶしたような真っ暗な空の中、丸い月だけが井戸の水面のように光っている。
湯上がりで火照った体に夜風が心地良い。しばし休んでいこうかと、私は縁側に腰を下ろした。
結局あの後すぐに、奴良組の妖怪達は頸を揃えて追いかけてきた。
小妖怪達から幹部まで、勿論ぬらりひょんも共に。狭い廊下にぎゅうぎゅうになって、真っ青な顔で震えながら。
――すみませんでしたあああ!!!!
深々と下げられた頭に、隣の珱姫が軽く驚いていたのを思い出す。
自分達が悪かった、つい調子に乗ってしまった、ごめんなさい、謝ります、だからどうか京に帰るのだけは止めてくれ、と。
別に京に帰るなんて言ってない、ただ少しお暇させていただくだけと言えば、更に床に頭が付くほど謝られて。
そんなに怖いことを言っただろうかと考えてみたけれど、奴良組に来てからそう自己主張の激しい方ではなかった私が初めてした意見表明があれとなれば、まあ怯えてしまうのも無理はないかと結論づけた。
おまけに結界術まで使ってしまったのだし、鈍い者でなければ私が何処から来たかに気付いたかも知れない。
それもあってここまで謝られているのだろうと思えば、少し複雑ではあった、けれど。
私が良いと言うまで一向に首を挙げなかった彼等の様子に、ふつふつと沸いていた怒りも少しずつなりを潜めて。
はあ、と軽く溜息をつけば、彼等は揃ってびくっと肩を揺らした。
――分かったわ。
――京には帰らないし、お暇もいたしません。……だから顔を上げて頂戴。
そう言って軽く微笑めば、彼等は恐る恐る顔を見合わせた後、安心したようにほっと息をついた。
仕方ないなと思いつつ、頼まれてしまえば断れない程度には、私も彼等を気に入っているらしいと気付き。
一先ず大広間のあれこれを片付けようと、その場を取りなしたのだった。
「……ふう」
本当に色々あった一日だった。思い出すだけで苦笑いが零れ出てしまう。
婚儀の後に催された宴は、残った酒好き達だけで今もまだ続いているらしい。少し離れた場所にある大広間からは、微かだが賑わう声が聞こえてくる。
料理を出したり酒を注いだりするのは、今日だけは私の仕事ではない。何もしないでいるのも身の置き場がないが、そうなるといよいよ一日の疲労が襲ってくる。
それに気付いたぬらりひょんに、主役とは言え夜遅くまで参席しているのは人の身にはきついだろうと、無理しないよう言われてしまった。婚儀のための宴とはいえ、それを口実に飲むための宴席だと。
それなら私がいなくても問題は無さそうだと、宴が一応のお開きを迎えたところで、珱姫や体力のない小妖怪達と共に退席した。
珱姫は客間に送り届けられ、私も入浴を終えて今に至る。多分、ぬらりひょんは今もまだ宴席だ。雪麗や牛鬼、狒々や一つ目のような幹部達も恐らくそうだろう。
彼等のような強い妖怪は、宴となればここぞとばかりに飲むほどの酒好きが多い。明日に響くかどうかだけが心配ではあるけれど、大事を取って宴の翌日は休みにしてあるそうだから、大丈夫だろう。
そんな事を月を眺めながらぼんやり考えたところで、そろそろ戻ろうかと僅かに腰を浮かせれば。
「――夜風は体に良くねえぞ、珀姫」
「!」
肩に何かが掛けられる感触と共に、ふわりと煙管の香りがする。
反射的に振り返った先にいたのは、やはりと言うべきか、ぬらりひょんだった。
掛けられた羽織から漂う、煙管に混じる酒の香りに、彼が今し方まで宴に参席していたことを察する。
「あら、ぬらりひょん。宴は終わったの?」
「いや、あいつらはまだ続けておるよ。ちょいと抜けてきただけじゃ」
「……良かったの?」
「なあに、ワシ一人いなくなったところで、あいつらは変わらず飲み続けるじゃろうよ」
「気付いているかどうかも怪しいしのう」と、ぬらりひょんはくつくつ肩を揺らす。
確かに酒を飲んだ彼等は、普段精鋭揃いの幹部達とは思えないほど気の抜けた状態になる。
牛鬼に狒々、雪麗や一つ目、カラス天狗まで。いつもは冷静に、時にはぬらりひょんを諫めるほど落ち着いている彼等も、酒の力には勝てないらしく。
以前見た彼等の様子を思い出しながらくすくすと笑いを零すと、ぬらりひょんの瞳に優しげな色が灯った。
「……のう珀姫、この後は暇か?」
「この後? ええ、特に用事はないけれど。どうして?」
「ちょっくら、アンタに渡したい物があってな」
「私に……?」
きょとんとして見つめれば、ぬらりひょんは静かに頷いた。
渡したい物。何だろう。特に何か貸したりはしていなかったはずだけれど。
分かったわと返答すると、ぬらりひょんは徐に立ち上がって、手を差し伸べてきた。
「立てるか?」
「あら、移動するの?」
「おう。寝室にな」
「寝室……?」
寝室と言うことは、ぬらりひょんが私室として使っている部屋のことだろうか。
奴良組本家の丁度中央辺りに位置する部屋、大広間などを覗いて個人が使用している部屋としては最も広いところだ。
時々彼に用事があって訪ねたことがある。その時々でいたりいなかったりして、いない時は大抵カラス天狗達から逃げている時と決まっているのだが。
こんな夜に、殿方の寝室へ。そう思うと、少しだけ、けれど否が応でも緊張してしまう。
だけど相手はぬらりひょんだし、私だってもう嫁入りを終えたのだから、そういう機会があったっておかしくも何ともない。
それにこのぬらりひょんのことだ、人を緊張させておいて何もないことだって大いにあり得る。
だから、鳴りだした心臓の音なんて、気にするべきではない。
……ない、と。分かっているのに。
繋いだぬらりひょんの手が、いつもより少しだけ熱いような、そんな気がして。
仄かに赤くなった頬を隠すように、私はそっと俯いた。
手を引かれ、向かった先は寝室ではなかった。
誰の部屋とも、何に使うとも決められていないらしい、言わば空室になっている部屋だ。
確か中にも何もなく、ただだだっ広い空間がぽかりと開いていたはず。
その繊細な透かしの入った障子の前で、ぬらりひょんは立ち止まった。
「ぬらりひょん、貴方の部屋に行くんじゃないの?」
「こっちで合っておるよ。寝室だと言ったじゃろう?」
「……? 寝室って、つまり貴方の部屋ってことじゃ……」
「……いや」
すっと、音もなく静かに障子が開く。
「ワシの、じゃねえ。ワシとアンタのじゃ」
月明かりが差し込んで、部屋の内装がぬらりひょんの肩越しに見えた。
昨日まで何もなかったはずの、薄暗い部屋の中。並んでいたのは真新しい布団が二つ。
布団の上にはそれぞれ夜着が掛けられており、意匠の凝った作りである事が窺える。
枕元には藤の透かしの入った和紙で作られた灯りが並んでいて、揺れる炎の灯りが透かし型の影を落としていた。
「…………っ、」
「……驚いたか?」
「え、ええ……。でもここって、空室じゃなかったの?」
「昨日まではな」
振り返ったぬらりひょんが、肩越しに口角を上げる。
その姿は至極いつも通りで、変わったところなんて一つもなくて。この行動に他意はないのだろうか。
夫婦の寝室、なんて。私はもうそれだけで、言葉以上の意味を読み取ってしまいそうになるのに。
「……けれど、確か私は部屋を頂いたはずだわ」
「おう、あっちはあっちで使えばいいさ。こっちは寝る時だけじゃ」
ま、好きに使えばいいがな。そうぬらりひょんは言う。
私が頂いた部屋は、ぬらりひょんの部屋の二つか三つ隣の部屋だ。そこも十分すぎるほど広かったのに、寝る時だけの部屋なんて。
贅沢だ、と言おうとして口を閉ざす。男性からの贈り物を受け取らないのは、相手に恥を掻かせる行為だと、以前教わったのを思い出したからだ。
それにここは私だけの寝室ではない。ならば態々辞退する必要もないだろう。
ぬらりひょんは私の手を取ったまま、部屋の中へと誘導するように歩いて行く。
そして片方の布団の上にどっかりと座り、私にももう一つの布団に座るよう促した。
緊張で強張る体を気取られないよう、努めて冷静な顔で腰を下ろす。
ちらちらと揺れる二人分の影が襖に映って、何だかそれだけで顔が赤くなった。
「それで、私に渡したい物って……?」
「……おう」
ぬらりひょんはくるりと振り返り、書院に置いてあった箱を布団の上へと持ってきた。
大きな箱が一つに、小さな箱が二つ。大きなものは大人が両手で抱えてやっと運べるくらいの大きさだけれど、小さな二つは手に乗るくらいの大きさだ。
それぞれ桐でできており、黒地に金で花の模様が描かれている。箱を見ただけでも、中に大事な物が入っていることが伝わってくる。
「……開けても?」
「勿論じゃ」
返答を確かめてから、そっと小さな箱に手を伸ばす。
一つ目の箱は、両の掌に丁度収まるくらいの大きさだ。然程重くはない。
開けてみると、中には一つの花簪。銀でできており、先の方に白と紫の藤を模したつまみ細工が下がっている。
「綺麗……」と思わず呟くと、ぬらりひょんが微笑む気配がした。
私も簪はいくつか持っている。だからこそ、その作りの細かさが分かる。
丁寧に染められたことが分かる色合いも、細かく象られた花の形も。
ふ、と笑みが零れる。大切な人からの贈り物が、こんなに嬉しいだなんて思わなかった。
以前にも髪紐を贈られた事はあるけれど、あの時はまだ気持ちを自覚していなかったから。
二つ目の小さな箱を手に取り、蓋を開ける。中に入っていたのは、白地に紅い花の描かれた猪口だった。
内側の、一面の玉虫色に目を見開いた。以前伝え聞いたことがある、これは、
「小町紅……?」
「ああ、知っとったか」
「いいの? こんなに素敵なもの……」
「はは、駄目ならやらんさ。気に入ったか?」
「ええ……とっても」
綺麗な玉虫色は、良質な口紅の証だ。
その縁をそっと撫でる。本当に美しい。ここまでのものとなれば決して安くはないはずだ。
掌で包み込むように握ると、玉虫色が炎の灯りに反射して輝いた。
……そう言えば、以前何処かで何か聞いた気がする。
簪と紅。これらを贈ることには、何か意味があったような。
何だったっけ、思い出せない。ええと、確か……。
「珀姫」
「!」
「喜んでくれるのは嬉しいが、まだ最後の一つが残っとるぞ」
「え、あ……そうだったわね」
ぬらりひょんに指で示されて、猪口を簪の隣に置く。
最後の一つがまだ残っていた。一番大きくて、一番重そうなそれ。
何が入っているのだろうと、少しばかりの期待を胸にそっと蓋に手を掛けると。
「………………は、」
口をかぱりと開けたまま、私は何の反応もできずに固まってしまった。
開けた中に見えたのは、薄桃色の生地。その上に、藤と椿を掛け合わせたかのような花が咲き乱れている。
辻が花の小袖だ。加えて花丸文や蝶の柄が、細かい金銀の摺箔で煌びやかに施されており、技術と手間が非常にかかったことが窺える。
恐る恐る手に取れば、刺繍の細やかさや作りの丁寧さが一目で分かった。
……きっと、相当に名のある職人が作ったのだろう。価値にして……いや、こんな綺麗なものに価値なんて付けられない。
でも一つだけ、確かに言えること。それは、
「……だ、駄目」
「ん?」
「……駄目よ、……ごめんなさい、受け取れないわ」
「…………は?」
ピクリとぬらりひょんの笑顔が引きつる。
先程相手に恥を掻かせる行為だと認識しておいて、なおそれをするというのは気が咎めた。
けれどそれ以上に、私にはこれを受け取ることのできない理由があるのだ。
「な、何じゃ、気にくわんかったか? すまん、女子の着物には疎くてな」
「え、」
「あー、なんだ。無粋じゃあるが、アンタの好みのものを贈るから、どんなのが良いのか教えてくれんか」
「ま、待ってぬらりひょん、違うの、そうじゃないわ」
いきなりとんでもないことを言い出したぬらりひょんにぎょっとする。慌てて両の掌を突き出して断れば、ぬらりひょんは困ったような顔をした。
けれど困った顔をしたいのは此方だ。こんなにも綺麗なものを気にくわなかったとでも思われたら、この先もっと凄いものを用意してくる気がする。
そうなればますます受け取れない。私が着物を断ったのは、何もその意匠が趣味じゃなかったとか、そういうのではなくて。
「……その、あのね。……凄く身勝手な理由なのだけれど」
「何じゃ?」
「……私、こんな素敵なものに、返せるだけの何かを持ってないのよ」
「…………は?」
先程と全く同じ声色で、ぬらりひょんが聞き返す。
何となくその顔を見られなくて、私は俯き気味に目を伏せた。
藤の花簪。小町紅。それに、本当に美しい辻が花の小袖。
どれも凄く凄く綺麗で、贈り物として貰うにはこれ以上ないほどのもの。……だけど。
「私、その……此方に来る際に、一通りの嫁入り道具くらいしか持ち物がなくて」
「うん?」
「もしこんなものを頂いたとして、でも私、それに見合えるだけのものを持っていないの。だから……」
「ちょ、ちょっと待て。つまり、えーと……?」
今度はぬらりひょんが、混乱するような顔で片手をぴっと私に突きつけた。
無理もない、と口を閉ざし、彼の理解が追いつくのを待つ。
本来であれば夫からの贈り物なんて、ありがたく受け取って喜ぶのが定石だ。
それ以外何をしようもないから。収入源なんて酷く限られているような、今の女性達には。
けれどだからと言って、ここまで素敵なものを頂いてただ喜ぶだけだなんて。
せめて何かお返しするものがないと、これを用意してくれたぬらりひょんの手間にも、金額にも、及ばないと思うから。
「つまり、何じゃ。アンタはこの小袖が気に入らんかったわけじゃあないんだな?」
「ええ、勿論。だってこんなに素敵なんですもの、気に入らない女性なんていないわ」
「……で、ワシに返すってのは?」
「……贈り物をされたら、贈り物を返すのが礼儀でしょう。少なくとも、見知った間柄ならそうすべきだわ」
「……ほーん。段々話が見えてきたぞ」
顎に手を当て、ふむふむと頷くぬらりひょん。
その様を見ながら、私は何か変な事を言ったような気分になっていた。
贈り物にはお返しを。母からたたき込まれた礼儀作法の内の一つだ。
間違ったことは言っていない、と思う。けれどやっぱり、可愛げはなかったかしら。
もっと素直に、ただありがとうと受け取っておけばよかったのか。
でも親しき仲にも礼儀ありと言うし、大事なことはきちんとしておかなければ。
そう結論づけた私に、ぬらりひょんは目を向けて口を開いた。
「アンタさては、あんまり男に慣れとらんな?」
「……え?」
「秀元や是光が過保護すぎるっつう訳じゃなかろうが、如何せん経験がないんじゃろうな。まあ姫君なら当然か……?」
「け、経験……?」
まあ確かに、ないと言えば、ないかも知れないけれど。
私に限ったことじゃない。花開院の姫の中で、一定以上の力を持っている者は、花開院の人間と婚姻を結んできたと聞く。
より強い子どもを残すための策だ。花開院が特別そういう考え方をしているのではない、昔から何処の家でも行われてきたことだ。
だからだろうか、私は基本的に一族以外の男子との関わりが殆どなかった。そういう点では、経験などないに等しい、かもしれないが。
「いいか珀姫、男が女に贈り物をするってのはな、何も見返りが欲しくてやってるわけじゃねえんだ」
「……ええ」
「喜んでくれりゃあそれでええ。それが見たいからやるだけじゃ」
「……」
ぬらりひょんの言葉に、こくんと一つ頷く。
けれど私の中でぐるぐると回る母の言葉は、未だに消えていない。
それが私の表情から分かったのか、ぬらりひょんは眉根を寄せて顎に手を当てた。
「どうしても礼がしたいってんなら、まあしてもらいたいことがないわけじゃねえが……」
「え? なあに?」
「あーだが、やっぱり止めとくか。見返りが欲しくてやってねえって言った口でこんな事言うのもな」
「ちょっとやだ、気になるじゃない。言ってよ」
もったいつけるようなぬらりひょんの言い方に、先が気になって催促する。
何か返せることがあるなら返したい。そうじゃないと、こんなにも素敵なものを受け取るには、私には持っている物がない。
そう思って、口を出したのだけれど。
此方を見てにやりと口角を上げたぬらりひょんの表情に、私は一瞬、嫌な予感が脳裏を過ぎった。
「そうか? そこまで言うなら言ってやろう」
「……な、なに」
「アンタは知らんかもしれんが、贈り物……特に男が女にやる物ってのは、意味を持つんだ」
「意味……?」
そう言えばさっき、簪と紅を開けた時にそんな事を考えたような気がする。
結局結論は出なかったのだけれど。もしかして、着物にも意味があるのだろうか。
何だろう、何だったっけ。そう首を捻る私に、ぬらりひょんはすっと手を伸ばしてきた。
首の横を通って、下ろした髪の毛にさらりと触れる。
その無骨な手が、首筋を掠めた気がして、僅かに肩が揺れた。
それにも構わず、ぬらりひょんは髪を一筋手に取り、自分の口元へと近付ける。
薄暗い部屋の中、金色の瞳が炎の灯りに輝いていて、心臓がどきりと音を立てた。
「お前の髪を乱したい」
「……っ」
「簪をやるってのはそういう意味じゃ」
口角を上げるぬらりひょんの顔が、不敵な笑みを浮かべているように見えて。
かっと赤くなった頬を隠したくて、咄嗟に横を向けば、ぬらりひょんがくすりと笑む音がした。
髪が静かに放され、その手がそっと私の唇に触れる。
慣れない感触にびくっと其方を向くと、ぬらりひょんの瞳と視線がかち合った。
「紅はな、」
「っえ」
「唇を吸いたい、と」
すり、と唇に触れた指が動く。
愛撫するようなその仕草に耐えられなくて、思わず後ろに手を付いて下がってしまう。
そんな意味だなんて知らなかった。聞いた事がある気もするけれど忘れていた。
知っていたなら、絶対に聞こうとなんてしなかったのに!
「着物にも意味がある。知りたいか?」
「っや、知りたくなんか……」
「着物は、のう」
とん、と胸元に人差し指が当てられた。
心臓を指さすような、貫くようなその指に、助けを求めるかのようにぬらりひょんを見てしまう。
「その着物を着たお前を脱がしたい」
「〜〜っ!!」
「そういう意味で、贈ったのさ」
何か、とんでもないことを言われた様な。
顔が真っ赤だ。自分でも分かる。死ぬほど熱くなっているもの。
ここは昼間ほど明るくない。それでも炎の灯りはあって、おまけにぬらりひょんは歴とした妖怪だ。
私の顔色なんて、一目で分かってしまうんだろう。
現にぬらりひょんは、とても愉快そうな顔をしていた。
「……分かったか、珀姫?」
「ぅ、わ、分かったわよ……! 分かったから、その手を退けて頂戴……!!」
「ふは、何じゃ、今更恥ずかしくなったのか? 男と同じ寝所に入る意味くらい知っておろう?」
「だ、だって……」
意味くらい知っている。それを知らないほど子どもではないし、花嫁修業の一つにもそういうことの作法はあった。
だけどだからと言って、今すぐにと言われてできるほど、覚悟をしてきたわけではない。
とても目を合わせてなんかいられなくて俯けば、ぬらりひょんがふっと小さく笑った。
胸元に置かれた手が退けられ、代わりに私の手を取られる。
ぬらりひょんの手に包まれた私の手は、やけに白くて小さく見えた。
「……のう、珀姫。大阪城でワシが言ったことを覚えておるか?」
「大阪城……?」
「――藤のようだ、と思ったんじゃ。アンタの美しさも、儚さも、それからその優しさも」
「ッ……え、ええ。覚えているわ」
あんな熱烈な口説き文句、忘れたくても忘れられるわけがない。
元からぬらりひょんに懸想していたけれど、あの言葉で私は完全に彼に恋をしてしまったのだから。
女を花に例えるだなんて、妖怪なのに随分と粋な性分をしている。その表現に落ちてしまう私も私だが。
「アンタを初めて見た時、こんなにも綺麗な女がいるのかと思ったよ。姿形も驚く程美しかったが……一番惹かれたのは、その瞳じゃった」
「ひ、とみ……?」
「ああ」
まるでその時の私を思い浮かべるかのように、ぬらりひょんは目を伏せる。
男にしては厚い睫が、金の瞳に透けてきらきらと輝いて見えた。
「芯の強さが一目で分かる、真っ直ぐな目じゃ。妖怪を相手にした人間のそれとは思えん程に」
「お、大袈裟よ……」
「大袈裟なんかじゃねえさ。水晶みたいな澄んだ色をしとるのに、泣きたくなるほど優しい光が宿っておった。……今までも、きっとこれからも。あんな瞳を見ることはないじゃろうな」
それくらい、美しかったのだと。
ぬらりひょんはそう言って、これ以上ないくらいに優しく微笑んだ。
妖怪どころか、人間ですら浮かべないようなその微笑みに、はっと目を見開いたまま固まってしまう。
その顔から零れ出る、ぬらりひょんの感情が。……私に向ける、狂おしいほどの愛おしさが。
身に染みるほど分かってしまって、私は顔を赤らめることすらできないまま、彼の顔をただじっと見つめていた。
「アンタと関わって、その認識が間違っていないことを知った。一本芯の通った女子の、男に勝るとも劣らん強さも、悲しくなるような健気さも、アンタから教わったんじゃ」
「……っ」
「アンタがワシの求婚を受け入れてくれた時、死ぬほど嬉しかったよ。心の底から惚れた女が、自分と共に歩んでくれることが、これほど幸福だとは思わんかった」
「ぬらりひょん……」
握られた手が掬い上げられ、ぬらりひょんの口元へと持って行かれる。
そのままちゅ、と小さな音を立てて口付けられ、驚いた拍子に私の手がびくりと揺れた。
けれど放されることはなく、その格好を崩さぬままに、ぬらりひょんの目が私を捉える。
望月のような金の瞳と視線がかち合う。逸らすことなど許さないと言いたげな、強い瞳だった。
「ワシはこの先、魑魅魍魎の主として歩いて行く。だから珀姫、アンタもワシの隣で、寄り添って歩いてくれ。――必ず、幸せにする」
いつもの飄々とした様子など一切ない。
真剣で、誠実。この上なく、嘘偽りない言葉。
それが声色からも、表情からも、そして瞳からも分かる。
だからだろうか。私は見開いた瞳を徐々に細め、そして。
「! 珀、姫……?」
「……っ、ふ……」
つうっと、頬を雫が伝った。
視界がぼやけ、膝の上にぽたぽたと染みができる。
咄嗟に手で拭うけれど、片手じゃとても押さえきれなくて、目元にやった手の甲が濡れた感覚がした。
「お、おい珀姫、どうしたんじゃ。何処か痛むのか? 力が強かったか?」
「っちが、……っ、違う……違うの、」
ああ、ぬらりひょんが驚いている。
この歳でこんなにも泣くなんて恥ずかしい。早く止めなければと思うのに、涙は言うことを聞かなくて。
おろおろと慌てるぬらりひょんから放された手で拭えば、僅かに視界は明瞭になったけれど、それでも止まることはなく。
ただ、今はこの感情を何とか言葉にしなくてはと、私は何とか震える声を出して言った。
「……嬉しかったのよ。本当に、嬉しかった。そんなこと言ってもらえるなんて、思ってなかったから……ありがとう、ぬらりひょん」
「……ああ」
流れる涙もそのままに、ようやっと顔を上げてそう微笑めば、ぬらりひょんは困ったように、けれど嬉しそうに笑みを返してくれた。
珱姫や、秀元や是光兄様のように、家柄でなく私と関わってくれる者は他にもいる。
けれど自分が相手のことを好きだからと言って、相手がこの先ずっと自分を求めてくれる保障などない。
ぬらりひょんだってそうだった。彼が魑魅魍魎の主になったからと言って、私を切り捨てることなどないだろうけれど。それでも、彼には主としての責務がある。
そうなった時、人間の私は……陰陽師の私は、ぬらりひょんの側にいられるのか、いていいのか、分からなかった。
だからこそ、側にいることを許可されたようで、求められたようで、嬉しかったのだ。
家柄や力を通して私を見る事のない彼だからこそ、余計に。
「本当は、婚儀の時に言おうと思っとったんじゃがな。余計な邪魔が入って言えんかった」
「……そう言えば、誓いの言葉っていうのがあったけれど」
「おう、それじゃ。アンタを必ず幸せにすると、皆の前で宣言するつもりだったんじゃがな。だがまあ、アンタにさえ聞かせられればワシはそれでいい」
目尻の涙を指で掬って、ぬらりひょんは優しく笑った。
誓いの言葉、なんて言われた時は、聞いてないと口走りそうになった。あんな粛々とした場でそんな事言えるはずもなく、何とか留まったけれど。
だけど、こんな事言われるんだったら、妖怪の乱入があってむしろ良かったかも知れない。皆の前で泣き顔やら何やら晒すはめになったと考えると恥ずかしすぎる。
「……ねえ、その誓いの言葉って、花婿から花嫁へだけだったの?」
「ん? まあのう、事前に言っとらんかったし、用意もないじゃろ?」
「そう……」
ぬらりひょんの返答に、少し考える。
私が今からやろうとしていることは、人によってははしたないと捉えられてしまうかもしれない。
けれど、とぬらりひょんを見据える。
彼はこれをどう捉えるだろう。若い娘がと眉を顰める? それとも……喜んで、くれる?
……もし、もしも、喜んでくれる可能性があるのなら。
こくんと喉を鳴らし、私は意気込んで立ち上がった。
「どうした珀姫、何処か行くのか?」
「……ええ、ちょっと」
「ならワシも……」
「駄目よ」
「えっ?」
きょとんとした顔のぬらりひょんを見下ろし、私は静かな口調で言った。
「……少しだけ、待っていて。……お願い」
「あ、ああ……」
そして、そっと部屋の障子を閉める。
そのまま急ぎ気味に部屋を後にし、自室に逃げ込むようにして帰れば、ようやっと後れて気恥ずかしさが襲ってきた。
心臓の鼓動が五月蠅いくらいに鳴っている。緊張は顔に出なかっただろうか。声は震えていなかっただろうか。
……いや、今そんな事を気にしていたって仕方がない。
今やるべきは、と、私は手元を覗き込んだ。
抱え込むようにして持ってきた、三つの箱。
見ているだけで恥ずかしくなりそうな気持ちを抑え、深く息を吸い込んで。
――覚悟を、決めた。
繊細な透かしの入った障子の前に、影が落ちた。
相も変わらず五月蠅い鼓動を掻き消すように、胸の前できゅっと拳を握る。
……大丈夫、大丈夫。……大丈夫。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度もそう呟いて。
私はそっと、障子に手を掛けた。
「ぬらりひょん、……お待たせ」
「ん、おう! しかしアンタ、一体何処行って……」
ぴた、と、振り向いたぬらりひょんの動きが止まる。
視線が上から下まで辿るのを肌で感じつつ、私は精一杯頬が赤く染まるのを耐えた。
上げた髪に刺さるは、藤の花簪。
唇に纏う色は、小町紅の玉虫色混じりの紅。
そして全身を包むのは、艶やかな辻が花の小袖。
今私の身を飾っているのは、全て先程ぬらりひょんから贈られた物達だ。
月夜の下、簪の銀や小町紅の玉虫色、そして辻が花の摺箔は静かに輝いている。
豪奢な光ではない。けれど美しい。日本古来の美というのはそういうものだ。
控えめで、繊細で、触れれば壊れてしまいそうな。そういうものを、私は今身に纏っている。
「…………」
「……その……着てみたのだけれど。……似合うかしら」
反応のなさに居たたまれなくなって、恐る恐る口を開く。
ぬらりひょんのぽかんとした顔が、その沈黙が、破られる時が怖い。
永遠にそんな時来ないで欲しい……。いや違う、永遠に黙られてしまうとそれはそれで嫌だ。けれど変な反応が来るくらいなら……。
そんな事を頭の中でぐるぐると考えていると、ぬらりひょんが唐突にぽつりと呟いた。
「……珀姫、アンタ……さっきの話、聞いておったか?」
「さっき……?」
「男が贈り物をする意味じゃ。その三つを贈った、ワシの想いのことじゃ」
「え、ええ……聞いていたわ」
予想のどれとも違う反応に戸惑いつつ、そう返事をする。
何かまずいことでもあっただろうか。いけないことをしてしまったのだろうか。
ぬらりひょんの言うところの『経験値の低さ』が、間違った方に発揮されてしまったのだとしたら。
そのどれにしても、一先ず謝らなくてはいけないと。
そう思って口を開こうとした時、ぬらりひょんの顔色が変化したことに気が付いた。
「……あー、その、な……珀姫」
「なあに?」
「……アレを聞いた上で、なおそんな格好をするってこたぁ……都合の良いように受け取られても、無理ねえんだが」
それは分かってるのか、と。
そう問いかけるぬらりひょんの瞳が、何だかいつもより、鋭い光を湛えている気がして。
一瞬びくりと肩が揺れたけれど、それでも私は努めて何でもないような顔のまま、ぬらりひょんの前に腰を下ろした。
「……私は、結婚した相手なら誰だって、何も思わず身を委ねるべきだと思うわ」
「……は、」
「前までは……そう、思ってたのよ。誰と結婚しようが、どんな家に嫁ごうが、私の成すべきことはそれだって。……思ってた」
何かを言いかけたぬらりひょんの言葉を遮って、淡々とした物言いで言葉を進める。
随分な言い方だけれど、実際私はそう思っていた。
結婚することでの女の役目は、子を宿し、その家系を未来へと繋いでいくこと。それだけだ。
結婚する相手によっては、家事をしたり稼業をしたり、そういったこともするにはするだろうが、一番の目的は子を為すことだと。
そう、思っていたのだけれど。
「でもね、ぬらりひょん。私は貴方と出会って、……恋をして、少しだけ、考えが変わったの」
「……?」
「女の役目は子を宿すこと。それは今でも変わらない考えだけれど、でも……そこに愛情があったなら、どれほど素敵だろうって、……そう考えるようになったの」
話しながら、思わず微笑みが零れた。
子どもを産むのは、夫婦仲に関係なく必要なことだ。
例えどれほど愛情がなかろうと、嫌悪していようと、この時代子どもを産まないという選択肢は殆どない。
勿論授かり物だから、産みたくても産むことができない夫婦は一定数いるとは思うけれど。それでも基本的には、どの夫婦だって子どもを作ろうとするだろう。
だけど、もしそれが義務的な物でなく、二人の愛情による産物だとしたら。
自分が心から愛した人との子ども。そんな存在をもしも授かれたとしたら、どれほどか。
そう、思ってしまったのだ。
「だから……貴方が誓ってくれたように、私からも貴方に誓うわ」
「……ああ」
「この先私は、貴方を一番に信じ、身も……そして心も貴方に尽くし、永遠に貴方を想い続ける。そして叶うことなら、貴方がくれた分の幸せを、私からも貴方に返していきたい」
「二人で一緒に、幸せになりましょう。一生、笑って生きていくの」
陰陽師の娘と、妖怪の総大将。
普通なら叶うはずのない恋物語だ。ここまで来られたのは、沢山の人達のおかげ。
秀元、兄様、珱姫、奴良組の妖怪達。それから……諦めずに、私に直向きに思いを伝えてくれた、ぬらりひょんのおかげ。
だから私には、その思いに答える義務がある。
この先何があったとしても、この結婚は……この婚儀は間違いではなかったのだと、証明していく必要がある。
そのためには、私だけではない。私達二人が、幸せになる必要がある。
だからこれは、約束だ。私が私に課す約束。
どうかこの先、二人でいつまでも笑っていられるように。
「珀姫……」
呆然とした顔のぬらりひょんが、じわじわと瞳に光を宿す。
そしてゆっくりと、ほころぶように彼の顔に笑顔が咲く。
彼の手が私の手を取り、包み込むように握られて。何だかくすぐったくて握り返せば、その力は強くなった。
目と目が合う。ぬらりひょんの金の双眸の中に、水晶のようだと言われた私の瞳が映っていて、泣きたくなるほど美しかった。
手が上に持って行かれて、頬を擽るように触れられる。まるで壊れ物にでも触れるみたいに丁寧な手付きで、自覚した途端頬が赤くなる。
気恥ずかしさを隠すかのように微笑めば、ぬらりひょんもまた柔らかく微笑んで。
近付く顔の距離に静かに目を閉じると、その先でぬらりひょんが呟く声がした。
「ワシは幸せモンじゃなあ……本当に」
その声が何処か泣きそうで、咄嗟に目を開けようとしたけれどもう遅い。
唇に触れた熱はあまりにも甘くて、蕩けるようなその熱に翻弄されるしか、私にできることはなかった。
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