その日は、思えば何だか朝から少しおかしかった。


「……ん、」


朝日が昇る前、まだ寝室の中は薄暗い、そんな時間。私はいつものように目を覚ました。
目の前には整った容貌の男。見慣れた顔のぬらりひょんである。男前はこういうときも整っていて羨ましい。
背中に回されたぬらりひょんの腕からよいしょと抜け出しつつ、私は一つ欠伸をした。


「ふぁ……っ?」


口を開けた時、何か……ちょっとだけ、気持ち悪くなったような。
……? 気のせい?
閉じた口に手を当てて首を傾げるも、一瞬だけの気持ち悪さはすぐにかき消えてしまう。
寝不足だろうか。昨日も特にいつもと変わりない時間に寝たのだが。

……まあ、いいか。

気のせいだと言うことにして、私は布団から起き上がった。
ぬらりひょんと同じ寝室であっても、布団は別。そのはずなんだけれど、起きるといつも彼は私の布団に侵入し、私を抱きしめて寝ている。
別に寝苦しくはないから構わないんだけれど、寝づらくないんだろうか。

ぬらりひょんを起こさないようにそっと上着を羽織って、寝室を出る。
夏も近付くこの季節、外は日が昇っていないとはいえ、寒さは大分ましになっていた。

この時間に起きている者は、本家ではほとんどいない。たまに昨夜の宴の名残で潰れている者が広間にいることもあるが、あれは起きているに換算していいのだろうか。
私が起きるのは別に誰かに強要されたとかではなく、ただの習慣である。花開院家にいた頃、誰より早く起きて家事をするのが女の仕事だったのだ。
自室について、着物を選んで。さあ着替えようとした時、再びの違和感に気が付く。


「……霊力が、暴走してる」


本来なら使おうと意識しなければ使えない、それが霊力である、はずなのだが。
式神を出す時ほどではないにしろ、仄かに私の体が霊力を帯びている。
……何故。


「……?」


幸い、これくらいじゃ妖怪の身には危害を加えられないから、いいようなものの。
私は眉を顰めつつ、何とか霊力を沈めるよう意識した。


思えばこれも、予兆だったのだ。
















「……ふう」


ことん、とまな板に包丁を置く。今日はどうも、体の調子が優れない気がする。
なんというか、気怠い、というか。別に何をしたわけでもないのに、激しく体を動かした直後のような倦怠感がある。
なんだろう。何かしたっけ。昨日は確か、普通に買い物に行って、帰りにちょっとだけ藤棚に寄って帰ったくらいだ。
……運動不足が祟ったか。花開院にいた頃は妖怪に襲われるのもしょっちゅうで、式神を使うのも珍しくない。
霊力の発散不足? ……そんな話、聞いた事ないけど。


「珀姫様、こちらは如何いたしましょう?」
「どこまで出来たの? ああ、火が通ったのね。じゃあ調味料を……ええと、醤油とみりんと酒と、同量ずつ入れてくれる?」
「了解でやんす」


奴良組の厨は基本的に、女妖怪達が仕切っている。
雪麗もたまに混じってくれるけれど、彼女は雪女ゆえに暑いところが得意ではない。そのため火を使う過程になると、勝手場を離れて涼みに行くのだ。
だから大抵は、奴良組の妖怪の妻や娘が協力してくれる。私が嫁入りしてからは、女主人として厨を取り仕切ることになったけれど、でも彼等がいなければ回らない。
なんせ本家の妖怪は十や二十ではない。それだけの料理、一人でなんてとてもじゃないができない。
幸い協力して料理を行うのは花開院で慣れていたし、多少勝手は違うがもう慣れた。
さて、私も切った材料を鍋に入れて――と、思った時。


「米が炊けましたよ〜」
「わ、良い匂い!」


妖怪の一人がぱかんと、釜の蓋を開ける。
ふわりと漂った湯気。香る、炊きたての米の匂い。


「……っ、う」
「美味しそ〜。もうこのまま食べちゃいたいよね」
「分かります分かります。一口くらいならばれないんじゃないですか?」


賑わう勝手場。その横で、私は思わず口を押さえた。
米の匂いを嗅いだ途端沸き上がる、強烈な吐き気。駄目だ、ここで吐くわけにはいかない。
……いかない、のに。
きもち、わるい……っ。


「……貴方達」
「はい! ごめんなさい珀姫様、冗談です!」
「……ちょっと、離れるわね」
「え? は、はい」


それだけ言うのが、限界だった。
口を押さえたまま急いで厨を離れる。裏口から外に出て、少し離れた草むらで。


「……う、おえっ……!」


吐き気に任せて、胃の中のものが全部出ていった。
きもちわるい、気持ち悪い……。なに、これ……。


「ぐ……っ、う……」


粗方戻すと、少しだけ楽になる。
胃酸が喉元を焼く感覚に眉を顰め、私は息をついた。

朝から食べた魚が傷んででもいたのだろうか。
それとも野菜? 米? 分からない。
でもそうすると、私だけ気分が悪いというのはおかしいのでは?
私は蹲った体勢のまま、ぐるぐると頭だけを回した。


「……ふ、う……」


口元を布で拭って、後処理をして。
水の一杯でも貰おうと、立ち上がる。瞬間。


「……っ」


ぐらりと感じたのは、天地が逆になったかのような目眩だった。
思わずその場に崩れ落ちる。着物が汚れてしまったけれど、そんな事気にしている暇はなかった。


「う……」


ぐるぐると目の前が回る。少し楽になったはずの吐き気が再び襲ってくる。

……本当に、何これ。

私は暫く、その場から動くことが出来なかった。








back
ALICE+