「……、……姫、珀姫!」
「!」
はっとなって、私は気を取り戻した。
握っていた竹箒。中途半端に集まっただけの枯れ葉。……庭の掃除中に、ぼうっとしていたらしい。
努めて笑顔を浮かべ、私は振り返った。
「なあに、ぬらりひょん」
「あんた……大丈夫か?」
「……大丈夫って、何が?」
「何がって……」
ぬらりひょんの訝しげな視線。分かってる。
ここ最近の、体調不良のことだ。
まず、料理が出来なくなった。
米の匂い、煮物の匂い、肉の匂い。そういった、今までは何とも思っていなかったものが、途端に不快に感じるようになったのだ。
嗅ぐと途端に吐き気が襲う。すぐにでもその場を離れなければ、吐いてしまうくらいに。
だから食事もまともにできなくて、最近は野菜やら酢の物やら、そういったさっぱりしたものを最低限しか摂れていない。
それから、頭痛と目眩。
立ち上がった瞬間だとか、くるりと振り向いた瞬間だとか。
そんな何でもないような時に、不意に視界が回るのだ。
ずきずきと頭が痛んで、会話にも碌に集中できなくて。
何度も聞き返してしまって、不信感を覚えさせたことも一度や二度ではない。
後は……そう、怠さだ。ここ最近、運動もそんなにしていないのに、倦怠感がつきまとって離れない。
おかげで朝中々起きられなくなったし、昼間もうとうとしてしまう。
……風邪でもひいただろうか。情けない。
「体調じゃ。一度医者に診て貰うか」
「大袈裟ねえ。平気よこれくらい。ただの風邪だと思うから」
「平気じゃねえだろ。ここ最近のアンタは明らかにおかしい」
「あら、失礼しちゃう。……大丈夫、心配しないで」
おかしいなんて、自覚している。
でも平気、大丈夫。このくらい、なんでもない。
そう自分に言い聞かせて、私は出来るだけ以前と変わらない生活を送るようにしていた。
だって、奴良組の奥方が体調不良なんてなれば、妖怪達に心配をかけてしまうから。
それに、産まれた時から言い聞かせられている。相手に弱みを見せないように、強い心でいなさいと。
それは妖怪退治の面でもそうだし、様々な考えを持つ人間がいた花開院内でもそうだった。
だから大丈夫。私はこのくらい、我慢出来るのだから。
「それより、今日の夕餉は何にしようかしら。希望はある?」
「……珀姫!」
「!」
ぐい、と肩を掴まれて向き合わされる。痛くはないが強い力で、驚いて箒が落ちてしまった。
ぬらりひょんの真剣な瞳が、私を射貫く。思わず息を飲むと、ぬらりひょんは口を開いた。
「誤魔化すな。我慢するな。……嘘をつくんじゃねえ、珀姫」
「う、そなんか、ついてないわ」
「アンタをどれだけワシが見とると思ってるんじゃ」
「な……」
大丈夫だって、言ってるのに。
そう、言わなくちゃいけないのに。
ぬらりひょんは、正直になれと強く訴えてくる。
「頼むから、無理するんじゃねえ」
「……してないわ」
「珀。……心配なんじゃ」
「……」
「……ワシはアンタを失いたくねえ」
失う、なんて大袈裟な。
そんな風に、笑い飛ばせたらよかった。けれど。
掌の熱が、瞳の真剣さが、それを許してくれない。
「何かあったんじゃろう。頼れ、珀姫」
「……別に、」
「……ここは花開院じゃねえ。アンタを縛るものは何もねえ。……正直に言ってくれ」
「……っ」
「辛いじゃろう、珀姫」
そうやって、抱きしめられれば。
もう、無理だった。
「っ……う、」
「! ……珀姫」
「ご、めんなさい……っ」
つらい。そう、つらいのだ。
気持ち悪くてご飯が食べられない。料理も出来ないから役に立てない。
四六時中、いつ何時目眩や頭痛が襲うか分からないから気を張っている。
大丈夫だと言わなければならない、その重責が襲ってくる。
でも、本当は。
ぼろりと、目から涙が落ちた。
「……ふ、ううっ……」
「……大丈夫じゃ。ワシが何とかしてやる」
「……ごめんなさい。私……」
「謝るな。アンタは何も悪いことしてねえだろ」
「……ん」
ふわりと香る、ぬらりひょんの匂い。
それは心地よくて、安心できて、……嘘を、許してくれない。
縋るようにぬらりひょんの羽織を握ると、彼は黙って髪を梳いてくれた。
その優しさが、温かかった。
「ふむ、これは……」
「……」
あれからすぐ、私は寝室へと運ばれた。
いつの間にか敷いてあった布団に寝かせられ、動くなと強く言い聞かされて。
その言いつけを守って黙って待っていれば、ぬらりひょんが妖怪を連れてきた。
鴆、というその妖怪は、奴良組お抱えの医師らしかった。
ぬらりひょんは一旦外に出され、問診、後の触診。
それらから、彼は結論を出したらしい。
「んー……まあ私も人間の病に詳しくはないんですが、恐らく間違いないかと」
「……病、ですか」
「ああいえ、この場合は……違うでしょう」
「……? 違う、とは」
風邪ではないのだろうか。
まあ確かに、風邪にしてはおかしな点もあるけれど。
まさか、それより更に大きな病だったりするのだろうか。
……いや、そんなの考えたくもない、けれど。
死刑を宣告される罪人のような気持ちで待っていれば、まさか、鴆は笑みを浮かべた。
「おめでとうございます、奥方様」
「……は、」
「ご懐妊です」
ご、かいにん。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
「珀姫!」
「!」
鴆が出ていった後、入れ替わるようにぬらりひょんが入って来た。
本人から聞いた方が良い、とのことらしく、彼は不安げな表情を浮かべている。
「ぬらりひょん……」
「大丈夫か」
「え、ええ……」
「気分の悪いところは? 水を持ってこさせるか」
「い、いいわよ別に……」
やけに心配性だ。こんなぬらりひょんを見るのは、私が羽衣狐に串刺しにされて以来だろう。
……そう、心配してくれているのだ。
だから私は、その憂いを取り除くように、笑みを浮かべた。
「大丈夫。病じゃないんですって」
「……病じゃ、ない」
「そう。だから安心……きゃっ」
気付けば私は、ぬらりひょんに抱きしめられていた。
驚いたのもつかの間、彼の安心したような吐息が聞こえる。
「……よかった……」
「……」
ちょっと恥ずかしい。離れて欲しい。
……でも。
ありがとうと、その意味を込めてぬらりひょんの背に手を回す。
彼は暫く息をついた後、ゆるりと手を放して言った。
「じゃあ何だったんじゃ?」
「……驚かずに、聞いて欲しいんだけど」
「おう」
まあ、無理だろうけど。
私はぬらりひょんの耳に口を近付け、囁くように言った。
「……やや子が、できたって」
「……は、」
「あ、やや子って言うのは……ええと、」
「……」
やや子は方言だ。江戸だと何て言うんだっけ。
……いや、普通に赤子でいいのか。
そう思っているうちに、私はふと違和感に気付く。
ぬらりひょんが、動かないのだ。
「……ぬらりひょん?」
「……」
「ちょっと、聞いて……ひっ」
がばり。それまで黙り込んでいたぬらりひょんが、唐突に顔を上げた。
その勢いに驚くも、彼の顔を見る限り、ぬらりひょんはもっと驚いていたらしい。
美しい瞳をこれでもかと見開いて、私の方を見ていたから。
「……赤子か」
「え、ええ……」
「……子ども、」
「そう。……私と、貴方のね」
驚いている彼に、子どもにでも言い聞かせるように、静かに言う。
彼はじわじわとそれを受け入れたらしく、やがて顔に笑みを浮かべた。
「そう……そうか。子どもか……」
「……うん」
言わなくたって分かる。だってこんなに嬉しそうなぬらりひょん、見たことがないもの。
私はそっと、下腹部に手を当てた。
今はまだ平たいこの腹に、子どもがいるのだ。
信じがたいけれど、でも最近の体調不良を悪阻だと言い当てられてしまえば、納得するしかなかった。
「じゃあ、どうしてアンタはそんなに不安げなんじゃ?」
「……え」
ぬらりひょんの言葉に、思わず固まった。
……不安げ。まさか、どうして。
気付いていたのかとぬらりひょんに目を向ければ、彼は呆れた様子で目を眇めた。
「あのなあ、嘘をつくなと言ったじゃろう」
「……いえあの、嘘って言うか……」
「アンタ、まだ何か抱えこんどるな? ……話してみろ。受け止めてやるから」
「……」
浮かべた笑みが、努めてそうされたものであることに、彼は気付いていたらしい。
本当に、聡い人だ。
私は諦めたように、笑みを崩した。
そう、赤子。つまりは子どもが出来たのだ。
ぬらりひょんと私。妖怪と人間の子。
そして、……そして、妖怪と、陰陽師の娘の、子。
「……最近、霊力が暴走していることには気付いていたの」
「暴走?」
「そう。……それを鴆に話したら……その、」
「……」
「体の中にある妖気に、私の中の霊力が対抗してるって……。……妖気を、潰すために」
「……!」
私の意思と反して。でもそれは、花開院の血を引いていれば、無理のないこと。
妖怪を潰すために。私の中にいる、やや子を滅するために。
無自覚に、私は霊気を出していたのだ。
ぬらりひょん達のような妖怪には効かないはずの、微量な霊力。
でもこの腹にいるのは、まだ小さな小さな、赤子なのだ。
「っ、ごめんなさい……。私、貴方の子どもを……産めないかも、しれない」
「……珀姫」
「ごめんなさい……本当に、何て言ったらいいか……」
愛した人と、自分の子ども。
何より大切な存在を、自分の手で消してしまうかもしれないと言われた絶望が、分かるだろうか。
血の気が引いた。だってそんなの、あまりにも残酷じゃないか。
かたかたと、震える身体。どうしよう、どう償ったらいいの。
……やっぱり、私じゃ駄目だったのかもしれない。
普通の人間である珱姫、あるいは普通の妖怪である雪麗なら、産めたのかもしれない。
ごめんなさい、なんて陳腐な謝罪、何度言ったって足りない。
でもそれ以外、謝る術を私は知らなくて。
繰り返し謝る私を、ぬらりひょんは見据えて。それから。
「珀姫。謝るな」
「っ、でも……!」
「アンタのせいじゃない」
そっと、私の手に手を重ねてくれる。
落ち着く温もりが、少しだけ私の恐怖を緩和してくれた。
「大丈夫じゃ。きっと術はある」
「……術って、例えば?」
「た、例えば!? んー……ほれ、その赤子はワシの子どもでもあるじゃろ」
「え? ええ、そうだけれど……」
「魑魅魍魎の主の子どもが、そんな簡単に死ぬもんか!」
「……何それ」
根拠のない自信。でも、彼はいつだって、それを可能にしてきた。
くす、と笑ってしまう。本当に適うかもしれないと、思わせられるだけの力が、彼にはあった。
「……ふふ」
「ワシも、鴆に聞いてみる。じゃがこれだけは約束してくれ」
「なあに?」
「……自分を犠牲にはするなよ」
「!」
まるで私のことを、見透かしたかのような言いつけ。
でも今まで私がやってきたことを考えれば、……まあ、無理はないかもしれない。
「……善処するわ」
「善処じゃねえ。約束しろ。……アンタと腹の子じゃ、ワシはアンタのほうが大事じゃ」
「……私はこの子の方が大事なの」
「む、頑固者め。……まあええさ。いざとなったらワシが何とかしてやる」
「何とかって……」
「何とかは何とかじゃ! アンタはそんなこと気にせずもう休め、な?」
「こんな昼間っから休めないわよ。掃除もまだ途中だし……」
「じゃあ代わりにワシがしといてやるから。ほれ布団掛けて。もう寝ろ」
「あ、きゃあ!」
ぼふんと布団を掛けられ、うごうごと手足を動かして見るも彼には適わない。
総大将が掃除なんてしているところを見られたら大騒ぎになる、だとか。
そもそも掃除なんて碌にやったことのない貴方ができるの、だとか。
言いたいことは、たくさんあったけれど。
ぬらりひょんなら、本当に何とかしてくれる気がして。
私は布団の下で、そっと笑みを浮かべた。
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