硯の上に数滴、血を垂らす。よく墨と混ぜてから、札に文様を書く。
作るのは全部で五枚。東西南北と、それから本家に一枚埋めるのだ。
花開院にいた頃は陰陽術が当たり前だったけれど、奴良組に来てからあまり使うこともなくなり、何だか少し妙な気分だ。
とはいえ、これは誰に害を及ぼすものでもなし。文様の墨が乾燥するのをしばし待つ。

その間に、先日珱姫から買い取った紫水晶を手に取った。形に特にこだわりはないけれど、札を巻きやすいように細長く整えて。
後は札を特殊な巻き方で巻き付ければ、準備は終わり。これを地中に埋めて、最後に本家のものにもう一滴血を垂らせば完成だ。
このやり方は江戸に来る前、知っておいて損はないと秀元から教わったものだ。まさか本当に役に立つとは。


「珀姫様。鴆でございます」
「はい。どうぞ」
「失礼致します」


襖を開けたのは、もう何度も世話になっている奴良組のお抱え医師――鴆だ。
鴆という妖怪は確か毒を扱う。けれど毒は薬にもなると言うし、実際彼の薬は良く効くらしい。
見た目は私より少し年上、といったところか。妖怪だからあまり関係ないかも知れないけれど。


「体調は如何でございましょう」
「もう吐き気も頭痛もないわ。食事の匂いを嗅いでも、気分が悪くなることもないし」
「左様で。それは何よりでございます。もう五ヶ月に入られましたから、そのうち子も動き出すやもしれません」
「あら、それは楽しみね」
「ところで」


鴆が、ちらりと私の作っていた札に目をやった。
釣られて私もそちらに目を向ける。何か変な事でもあっただろうか。


「本当に奴良組の支配する土地を回られるおつもりで?」
「ええ、そうよ。……いけないかしら?」
「いえ、今の体調ならば大丈夫でございましょう。しかし何かあった時のため、すぐに連絡を取れるようにしておいて下さいませ」
「分かったわ」
「わたくしもいつでも向かえるよう、準備をしておきますので」
「ええ、ありがとう」


人間の感覚としては、旅に着いてきて貰った方がよいのではないかとも思うけれど。どうやら妖怪の力を持ってすれば、場所さえ分かったら後はすぐに飛んでこられる者もいるらしい。
まあ、折角体調も回復したのだし。ぬらりひょんとの小旅行だと思って楽しむとしよう。


「まずはどちらに出向かれるご予定で?」
「そうね。最初は南から。東、北と巡って、最後に西にいって戻ってくるわ」
「ならばそれぞれの土地を管轄している者に、通達を出しておくのがよろしいかと。特に身重故、ままならぬこともありましょう」
「管轄?」
「左様。土地はぬらりひょん様の指示の元、それぞれ管理者がいるのです。西ならば牛鬼、というように」
「そう。分かったわ」
「それではわたくしはこれで失礼を。何かありましたらご連絡下さい」
「ええ。ご苦労様」


鴆を見送って、私は再び札を手に取った。
墨が乾いたのを確認し、一つ一つ、丁寧に巻き付けていく。陰陽術は儀式の一つだから、こういう所に成功するか否かが現れるのだ。
全ての紫水晶が札で覆われれば、これで完成。秀元の話だと、私の血に含まれる神通力が、じわじわと広がっていき、結界の中で効力を発揮するのだという。


「……うまくいくといいけれど」


大丈夫のはずだ。秀元が教えてくれたとおりにしたのだし、私の霊力ならば、おそらくは。
……そう、信じているけれど。
もしこの先、五十年も過ぎた後に何かあったとしたって、私はもうどうにもできないから。
そうなったら誰の恨みも甘んじて受け入れるしかない。


「珀姫」
「あら、ぬらりひょん。どうしたの?」
「……完成したのか」
「ええ」


ぬらりひょんは襖を開けて入ってくると、胡座を掻いて座った。
視線が札をなぞっている。物珍しいのだろうか。
無理もない。陰陽術の道具なんて、妖怪はあまり見ないだろうから。


「触っちゃ駄目よ。害をなすものじゃないけれど、何があるか分からないんだから」
「ああ。……体調は平気か」
「もう、またそれ? 今日だけで5回は聞いたわ。もう悪阻は治まったって言ったでしょう」
「しかしじゃなあ……あれだけ苦しんでおったのを見ていた身としてはどうも」
「心配性が過ぎるわ。さっき鴆にもお墨付きを貰ったのよ、この体調なら旅に出ても大丈夫だって」
「鴆に? ならまあ……いやしかし……」
「……。ぬらりひょんってもっと飄々としてる妖怪だと思ってたけど……」
「仕方ねえだろ。愛情じゃ愛情。受け入れろ珀」
「愛情が重い」
「なんじゃと?」


軽薄よりはましだけど。重い。
まあ、悪阻で散々苦しんだ姿を見せられたぬらりひょんとしては、不安になるのも無理はないかもしれないが。
特に男の人にとっては、それがどれだけのことか分からないだろうから。
……重いけど。


「どれくらいの旅路になるかのう」
「さあ……少なく見積もっても一月かかるでしょうね。飛んで行ければいいのだけど……」
「む? 飛んで行きたいのか」
「ええ、そうすれば速いでしょうし……って」


冗談半分で言ったのに。私はぱちくりと目を瞬いた。


「出来るの?」
「おうよ。奴良組にはおぼろ車があるからな」
「おぼろ……?」
「見せたことなかったか? 簡単に言や、空飛ぶ牛車じゃな。牛はいねえが」
「ふうん……? 便利ね」


牛のいない牛車。どうやって動いているのだろう。まさかそれも妖怪なのだろうか。
だとすれば大分負担を掛けることになるけれど、いいのかな。適度に休みを取らせた方がいいかもしれない。


「おぼろ車ならまあ……半月くらいでいけるじゃろ」
「そう。なら後は、ぬらりひょんがいない間の手配だけね」
「ん?」
「半月も本家を空けるんですもの。仕事は済ませておかなくちゃね」
「その通りですぞ総大将!!」
「のわっ! カラス! お前どこ隠れとったんじゃ!」


私の言葉に賛同するようにして、どこからともなくカラス天狗がそう叫んだ。
仕事、のことを聞きつけて飛んで来たのか、それとも私と同じ考えを持っていて、ぬらりひょんを待ち構えていたのか。
嫌そうな顔をするぬらりひょんに、カラス天狗はびしりと錫杖を突きつけた。


「そんな事はどうでもよろしいのです! 珀姫様の言う通り、半月分仕事をなさってから出かけて下さいませ!」
「お前適当に片付けとけ」
「そういう訳にはいきませんな。ほれ行きますぞ総大将!」
「い!? 今からか!? いやほれ、折角珀姫のところに来たんじゃし、もうちょっとのんびり……」
「行ってらっしゃいぬらりひょん。頑張ってね」


これでもかと顔を顰めたぬらりひょんが、カラス天狗に引きずられるようにして部屋を後にする。
私も私で、色々と準備をしなくちゃいけないし。ひらひらと手を振って見送って、さて、と私は立ち上がった。


「まずは勝手場の取りなしから、かしら」


使いかけの具材の管理とか、注文している食材とか。女妖怪達に伝えておかなくちゃ。
安定期に入ったとは言え、のんびりしているわけにもいかないのだし。
忙しくなりそうだ、と私も腰を上げた。





back
ALICE+