「っ、くしゅっ!」
「おい、大丈夫か珀姫? これも着ておけ」
ふわ、と肩に掛けられた羽織から、ぬらりひょんの煙管の匂いがする。
おぼろ車から降りようとすれば、先に降りていたぬらりひょんが手を貸してくれた。
車の中は温かかったから気付かなかったけれど、南の果てまで来た数日の間に、随分と気温が下がったらしい。
今年の冬も寒くなりそうだ。私は羽織を胸元で引き寄せた。
「ここが奴良組の土地の、南の果てじゃ。本来なら妖怪に任せるのが筋じゃが、人の多いところでな。担当の妖怪の屋敷は少し離れておる。行くか?」
「いえ、いいわ。出来るだけ端のほうがいいから」
降り立ったのは、人気のない小高い丘。そこから見下ろせるのは、賑わった町並みだ。
江戸には負けるけど活気づいている。妖怪の気配はあまり感じない。
「この丘でいいの?」
「おう。ここから向こうはまた別のシマじゃからな」
「そう。じゃあ始めるわ」
私は手荷物を入れていた籠を漁り、よいしょと鍬を取り出した。
「鍬!?」
「そうよ。借りてきたの。いけなかった?」
「いやいけねえってことはねえが……必要かそれ?」
「あんまり地表近くに埋めたら、誰かが掘り起こしちゃうかもしれないでしょう?」
手に馴染まない鍬は、結構重い。一応綺麗にしてきたから泥汚れなんかはないけれど、そのごつごつした木の質感は持ち慣れない。
「ぬらりひょん、羽織返すわ。汚れちゃうかもしれないし」
「なら余計に着ておけ。アンタの服の方が汚れる」
「あら平気よ。この下に着てるの、もう普段着にもしないような羽織だもの」
はい、と羽織を畳んで返す。まだ少し寒いけれど、まあ何とかなる。
それから鍬を両手で握り、思い切り振りかざした、ところで。
「っと、わわ……」
「おっと」
その重さに、思わずよろけてしまう。
花開院の頃はおろか、奴良組に来てからもそこまで重たい荷物を持つことがなかったから。
とん、と背中を支えてくれたぬらりひょんが、私の手からするりと鍬を抜き取った。
「貸せ。やってやる」
「貴方、農作業したことあるの?」
「ない。ないが、アンタよりましじゃ。そんなひょろっちい腕じゃこっちがはらはらする」
「心外」
ひょろっちいって……刀を扱うぬらりひょんと一緒にしないで欲しい。女は大抵こんなものだ。多分。
だけど鍬を持ったぬらりひょんは、慣れない手付きではありながらもよろめくことはなく、危なげなく穴を掘り始める。
……私も鍛えようかしら。雪麗とか、いい方法知らないだろうか。
「掘れたぞ。これくらいか?」
「ええ、ありがとう。後は……これね」
籠の奥底、桐の箱に入れてしまっておいた、札の巻かれた紫水晶を取り出す。
……うん、上手く馴染んでいる。これなら大丈夫そうだ。
ぬらりひょんが掘ってくれた穴の中に入れて、最後に霊力を流し込む。そうすれば札の文様が仄かに光って、また黒に戻った。
「これで一つ目は完成。これを後四回繰り返せば、結界の完成ね」
「ほお。よく分からんが、後は埋めればいいんじゃな?」
「そうよ。後は私が……」
「いやいい。汚れるぞ」
「だから汚れてもいいのに……って、聞いてないわね」
後は埋めるだけだし、大した手間でもないのに。
けれどそれを言う間もなく、ぬらりひょんはあっという間に水晶を埋めてしまった。
「さてと。じゃあ行くか、珀姫」
「ええ。次は東に――」
「何を言っとる。今日はここまでじゃ」
「え? じゃあ、行くってどこに……?」
「宿に決まっておるじゃろう。この近くにいい宿があると聞いたのでな、手はずは整えておいた」
「早!」
「ワシをただの色男と侮るなよ珀姫。甲斐性あってこその奴良組総大将じゃ」
ふふん、と得意げな顔で言うと、ぬらりひょんは手を差しだしてきた。
その手を取ろうとして、再び「くしゅん!」と嚔がでる。
「やっぱりこれを着ておけ。寒いじゃろう」
再度ぬらりひょんが肩に羽織を掛けてくる。特別厚い羽織でもないけれど、ぬらりひょんの体温が移っていて温かい。
ありがたく受け取って、礼を言う。ぬらりひょんの手を取り、導かれるまま歩き出した。
目指すは下町、今日の宿だ。
「まあ、見てあの方々。なんて美しい……」
「どこぞの姫様かしら。旦那様もいらっしゃるみたいね」
「綺麗……天女様みたい……」
「まさしく天下一の美姫だ……それに見劣りせぬあの男は一体……」
ひそひそ、ざわざわ、こそこそと。
町に踏み入れた私達を待っていたのは、上から下まで観察してくる多すぎるほどの視線と、聞こえるか聞こえないかくらいの声で話される噂話。
最近江戸の街にも慣れてきて、こういうのを失念していた。
ついでに今日はぬらりひょんもいるのだ。彼は百人が百人とも美丈夫と称するほどの容姿をしているから、彼に対する賛辞も多い。
「流石じゃな、天下一美しい姫君の名は伊達じゃねえのう」
「貴方への賛辞も半分は含まれていると思うわよ」
「くく、悪い気はせんな」
「そう?」
私は苦手だ。何だか品定めされているみたいで。ぬらりひょんは楽しそうだけれど。
「上から下まで全部美しい……」
「あのお着物はどちらのかしら」
「御髪に触れてみたいわ……」
「一度で良いからうちの旦那もああいう色男にならんかねえ」
……褒められているのは承知の上で、やっぱり嫌。
ぬらりひょんに口説かれる時も綺麗だ何だと言われるのに、何がこうも違うんだろう。
彼に言われればこの上なく嬉しいのに、噂話の標的は居心地が悪すぎる。
なんだか気まずいというか、なんというか。
突き刺さる視線に思わず眉を顰めれば、不意にぬらりひょんからぎゅっと肩を抱き寄せられた。
「ちょ、っと、人前で」
「こっちじゃ珀姫」
「ん?」
入りこんだのは、人気のない裏路地。
それと共に、ぬらりひょんからぶわりと、妖気が溢れ出した。
「目立つのは嫌じゃろう? ワシが何とかしてやる」
「何とかって……」
「忘れたか、ワシが何の妖怪か」
「あ……!」
にやり、とぬらりひょんの口が弧を描いた。
「……ホントに便利ねえ、貴方の能力って」
「ふふん。もっと褒めてもええぞ」
ぬらりひょんにひょいと抱き上げられた状態のまま、人混みを進む。
先程とは違い、こちらに注目する人はいない。
それもそのはず、彼は畏れを発動しており、今の私達は誰の気にも止められない状態なのだから。
「……? ねえぬらりひょん、今日の宿は下町じゃなかったの?」
「ん? そうじゃよ」
「……なんだか妖気が濃い方に向かってない?」
「ああ。まあなんだ、妖怪の経営する宿の方が何かと便利かと思うてのう。安心せい、アンタのこともちゃんと伝えておるよ。人間の奥方を連れて行くと」
「えっ」
妖怪の経営する、宿。
何となくの想像ではあるけれど、幽霊旅館が脳裏に浮かぶ。
……食事に虫が出てきたりとか、風呂場に幽霊が出たりとかしないだろうか。
虫は嫌だし、幽霊は今の私じゃ対処出来るか分からないんだけど。
ぬらりひょん達は普通の食事を取るけれど、虫を食べる妖怪もいるかもしれないし。
そんな事を悶々と想像していれば、ぬらりひょんの歩みが止まった。
「着いたぞ珀姫。ここじゃ」
そこは想像していたのとは似ても似付かない、とても立派な旅館だった。
「……何と言うか、想像と違ったわ。良い意味で」
「? そりゃ良かったな」
部屋に案内されて、お茶を淹れて。用意されていた茶菓子と共に一服しながら、私はそう呟いた。
広い部屋は、二人には十分すぎるほど。床の間の掛け軸もお花も趣味がよく、季節にあったしつらえだ。
この部屋に来るまでの廊下も、点々と灯りが灯されていて、陰気にならない品の良さがあった。
ぬらりひょんは用意されていた饅頭を一口で食べながら、茶を啜っている。
その向こうの広縁からは、秋から冬へと移りゆく山々が見事に見えるようになっている。
「綺麗ね。高かったんじゃなくて?」
「総大将価格じゃ。問題ねえよ」
「そう……」
こんなにいい部屋は、京でも滅多に見ないのに。本当に見事な部屋だこと。
お茶も美味しいし。これ玉露じゃないだろうか。花開院の頃、母様に一口貰ったあのお茶と同じ味がする。
「そういや露天風呂があるらしいぞ。貸し切りにも出来るらしい。一緒に行くか?」
「態々貸し切りにすることないじゃない」
「いやアンタの体を誰とも知らん輩に見せるわけにはいかんじゃろ」
「え、……あっ一緒にってそう言う意味!? 絶対嫌」
「つれないのう。たまにはいいじゃねえか」
「い・や」
殿方と混浴など正気の沙汰ではない。それが例え主人だとしてもだ。
露天風呂にはそそられるけれど。後で一人で行こうかな。
「失礼致します、ぬらりひょん様、奥方様」
「おう、入れ」
「はい」
ぬらりひょんの言葉で襖が開く。そこにいたのは、人間に近い風体の、けれど妖気を溢れさせた、数名の男達だった。
見た目は普通の人間に限りなく近い。けれど鋭い耳や爪の形が、人間ではないことを証明している。
見覚えのない彼等に首を傾げると、男達は私に目を向けて膝をつき、頭を下げた。
「お初にお目にかかります、奥方様。ぬらりひょん様からこちらの土地の管理を任されている者にございます」
「初めまして。珀、と申します。よろしくね」
「身に過ぎたるお言葉にございます」
そう言って、彼等は更に深々と頭を下げる。
そうか、彼等が例の、奴良組の最南端を支配する妖怪か。
何の妖怪かは分からない。後で聞いておこう。
「悪かったのう。いきなり宿の手配を頼んで」
「とんでもないことでございます。総大将の頼みとあらば、何であろうとこなすのみ」
「堅いのうお前、相変わらずじゃな」
くつくつとぬらりひょんが笑う。信頼しているらしい。
カラス天狗に何処か似ている。きちんとしていて、粗相のない素振りだ。
彼等がこの部屋を用意するよう、手配してくれたのだろうか。ありがたいことだ。
「婚儀には参加とは相成りませんでしたが、お姿を拝見できて至上の喜びでございます。この度はご結婚、ご懐妊、おめでとうございます、お二方」
「おう」
「ええ、ありがとう」
「もし何か御用向きがありましたら、係の者を用意しておきますので、そちらの方にお願い致します」
「ああ」
「それでは、これにて失礼をば」
簡単な挨拶と、いくつかの文言を述べて、彼等は襖を閉めて去って行った。
「礼儀正しい妖怪もいるのね」
「ワシを見ながら言うな。言外に咎めとるじゃろう」
「不法侵入しない妖怪もいるんだなあ……って」
「不法侵入ってアンタな……」
あれはどう考えても不法侵入である。というかぬらりひょんという妖怪の畏れ事態が不法侵入に特化しすぎている。
その本質が、気配を消して相手を欺き、打ち負かすということにあってもだ。
ねー、と腹に語りかければ、返事をするようにぽこんと動きがあった。腹の子も同意しているようである。
「さて、じゃあ私は先にお風呂をいただこうかしら。食事は何時から?」
「酉の刻から準備を始めると聞いたぞ」
「そう。間に合いそうね」
「じゃあワシも行こうかのう。折角の露天風呂じゃしな、珀姫」
「……それはいいのだけれど、どうして私の腰に手を回すの? 男湯とは場所が違うんじゃなくて?」
「言ったじゃろ、貸し切りにできると。いいじゃねえか、夫婦水入らずで」
「お断りします」
「つれねえのう」
ぺい、と手を払って、私は部屋の扉を右方向に曲がった。
途中までは一緒だから、そこまでぬらりひょんが着いてくることは構わないし文句もない。
そう思って歩き出していた私は、気付いていなかった。
ぬらりひょんがやけに上機嫌である事に。
この後、いつの間にか仕組まれていた露天風呂の貸し切りによって、そしてぬらりひょんの有無を言わせぬ腕力によって、強制的に風呂場に連れ込まれるはめになることに。
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