――おや、こんなところに人の子が

――お主、名は何と?

――そうか、珀と。ん? 私かい?

――私の名前は――



「……め……さ……」
「珀姫、珀姫」
「っ、ん……」
「着いたぞ珀姫、起きろ」
「ん、う……?」


夢を、見ていたらしい。
目を開けた瞬間視界に差し込む、穏やかな夕方の陽の光。
そして眼前にぬらりひょんの顔。どうやら移動中に転た寝をしてしまっていたみたいだ。
目を擦りながら体を起こす。宙を飛んで移動するおぼろ車が、今は止まっているのが分かった。

あれから東、北と回り、そしてここは奴良組の最西端である。


「着いたの……?」
「おう。ここが奴良組の西の砦、捩眼山じゃ」


ぬらりひょんが差しだしてくれた手に捕まりながら、おぼろ車を降りる。
見えたのは木々の生い茂る山々。そしてこれまた立派な、大きな屋敷だった。


「確か最西端にいるのって……」
「総大将、珀姫様」
「!」
「おう牛鬼」
「ようこそ、我が捩眼山へ。歓迎致しますよ」


そう、牛鬼だ。
長い黒髪に鋭い眼光。確か花開院秘録には、古くから捩眼山を司る妖怪として描かれていた。
でも秘録に描かれていた絵図とは少し見た目が違う。何かがあって牛鬼がこの男になったのか、それともただ単に人の噂が当てにならないだけか。

牛鬼は深々と頭を下げると、さあ、と屋敷の門を開いた。


「客間の準備は整っております。こちらに」















「それにしても奴良組全土を包む結界とは、珀姫様は稀な事を考えなさる」
「流石に無茶が過ぎる気もするがのう」
「平気だって何回も言ってるのに」
「アンタの平気は信じとらん」
「あら、失礼しちゃう」
「仲が宜しいようで結構」


案内されたのは、桔梗の花が襖に描かれた客間だった。
襖を開けた先には、綺麗に掃除され、磨かれた一室。真面目な彼の事だ、総大将が来るとあって、はりきって整えたのだろう。
客間に荷物を運び込んでくれる牛鬼組の妖怪達を横目に、ぬらりひょんはさっさと座布団に上がっている。


「この後はどうなさいますか?」
「少し休憩してから、結界の呪具を埋めに行くわ。最西端のぎりぎりの所まで案内が欲しいのだけれど」
「それならば私が。しかし、お体はよろしいのですか?」
「ええ、平気よ」
「……総大将が、珀姫様の平気は信じないと」
「もう。貴方までそんなこと言わないで」
「これは失礼」


ぬらりひょんが慕われすぎるのも考え物だ。まったく、とぬらりひょんに目をやれば、彼は素知らぬ顔で用意された茶菓子に手をつけていた。
私も客間に入って、茶を入れようとすれば、いつの間にか牛鬼が手配してくれていたようだった。湯気の立つ湯飲みが二つ、机の上にある。


「では、私はこれで。何かございましたらお申し付け下さい」
「ええ、後でね」
「おう」


牛鬼が下がり、襖が閉められる。去って行く気配がして、さてと、と私は息をついた。


「ふう……」
「平気か珀姫?」
「少しだけ疲れたみたい。でも大丈夫よ」
「そうか」


微笑みを返すと、ぬらりひょんは「あまり無理をするなよ」と、もう何度目か分からない言葉を口にする。
そのまま煎餅にぱくつく彼をぼうっと眺めつつ思い出したのは、先程の、目を覚ます前に見ていた夢のこと。

なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。
子供の頃の、夢だ。
まだ花開院に憧れて、陰陽師になれると思っていた頃。

……何も知らない、無垢だった頃。


「……珀姫?」
「! ごめんなさい、なあに?」
「いや何というか……本当に大丈夫か? 少し寝るか?」
「え、いや、違うの。ちょっとさっき……夢見が悪くて」
「夢? ならええが」


禍福は糾える縄の如し。けれど、この腹の子には、出来るだけ不幸も苦労も体験して欲しくない。
……過保護だろうか。でも本心だ。私の出来ることなら何でもするのだが。
腹部をさすっていれば、ぽこんと元気な返事があった。


「また蹴ってる。元気ね、この子」
「……ワシの時には全然蹴らん。生意気なヤツじゃ」
「たまたまよ。あ、また蹴った」
「……ワシの珀姫を取る気じゃなかろうな」
「何言ってるの。聞きたいなら聞けば良いじゃない、今なんて丁度良いわ」
「そうか。じゃ遠慮なく」
「は、」


そう言うと、ぬらりひょんはごろんとこちら向きに、私の腿の上へと頭を乗せて横たわる。
膝枕しよう、という意味ではなかったのだけれど。彼は案外、甘えるのが好きらしい。


「……甘えんぼね、貴方の父様は」
「珀姫にだけじゃ」
「ふふ。……あ」


ぽこん、ぽこ。と。
軽く二回、内側から蹴る感触がした。
ぬらりひょんが耳を当てている時に蹴るのは、多分初めてだ。


「け、った……」
「分かった? 今の、二回蹴ったでしょう」
「ああ。……ああ」


ようやくだ。初めて蹴ってからほぼ二週間。
やっと聞くことの出来た胎動に、ぬらりひょんが笑みを浮かべる。
彼の大きな手が、私の腹にそっと触れた。


「いるな、ここに」
「ええ」
「ようやくワシにも聞かせてくれたな。……さては男じゃなコイツ。生意気加減から見て相当の跳ねっ返りじゃぞ」
「あら、貴方そっくり」
「なんじゃと?」
「ふふ、冗談よ」


でも確実にぬらりひょんの血を引いていると思う。彼には言わないが。
くすくすと笑っていれば、窓の外に見える夕日が徐々に傾いていた。
いけない、これ以上遅くなると、足場の悪いこの山では歩くのが大変になってしまう。


「ぬらりひょん、そろそろ行くわ。貴方も来る?」
「勿論じゃ。牛鬼を呼ぶか」
「は、ここに」
「!」


牛鬼、とぬらりひょんが言った瞬間。襖の外から声がして、牛鬼の気配がした。
驚いて肩を揺らす私に構わず、起き上がったぬらりひょんが襖を開ける。


「最西端なら、捩眼山の麓じゃな。歩いて行くには少し距離があるが……」
「おぼろ車を出しますか? しかし、捩眼山では動きにくいかと」
「いやいい。ワシが珀姫を運ぶ。牛鬼、お前は鍬を持って着いてこい」
「御意。……鍬?」


運ぶって、まさか山道を? 私を抱えて?
こんなにも足場の悪い道を、人一人抱えて進もうというのか、彼は。


「い、いいわよ。一人で歩けるわ」
「転んで腹の子に何かあったらどうする。心配せんでもアンタ一人運ぶくらい造作もないさ」
「そうですな。珀姫様には安静にして頂いた方が良いかと」
「いや、でも……」
「駄目じゃ」


強くそう言われてしまえば、結局断り切ることは出来ず。
宣言通り私を抱えてひょいひょい進むぬらりひょんに、私は思わず溜息をついたのだった。
……それしか出来なかった、とも言うが。







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