あの結界術のための旅から、およそ三月。
年も明け、すっかり冷え込む今日この頃。
私は家の中であちらこちらと、忙しなく歩を進めていた。


「珀姫様、洗濯なんですけど……」
「もう終えたわ。夕方になったら取り込もうと思うから、大丈夫よ」
「今日の献立どうされます? 予定では、えーっと確か……?」
「魚の煮付けと青菜の炒め物、それと納豆ね。材料は今買ってきたから、もう少ししたら作るのを手伝ってくれる?」
「総大将ー? 総大将どちらですー?」
「この時間だと多分、縁側で昼寝してるんじゃないかしら。用事があるなら呼んでくるわね」


そう言ってくるりと縁側に踵を返す私に、後ろの妖怪達はごくりと喉を鳴らした。


「珀姫様、もうすぐ臨月だよな……?」
「不甲斐ない……あの働きっぷりは何です?」
「朝から止まってるとこ見たことないけどそれが一月は続いてる気がする」
「くるくるとまあ、よく働くことで……」
「お馬鹿! あたしらがやらなきゃいけないんだよ!」


べし、と後ろで何かを叩く音が聞こえる。思わず振り返ると、頭を押さえる妖怪とぷりぷり怒る女妖怪がいた。


「どうしたの?」
「へ、いやなんでも! はい!」
「……? そう」


何だかよく分からないけれど、なんでもないということなので。
私はさっさとその場を後にした。
この後ぬらりひょんを呼んできて、後一刻もしないうちに料理を作らなくちゃいけない。
穴が開いた着物があったからそれを繕うのも早くしておかなければいけないし、火鉢にくべる炭を作らないといけない。
忙しい。とはいえ、特に苦痛には思わない。元々動くのは嫌いじゃないからだ。


「ぬらりひょん、いる?」
「……ん、」
「……あら」


ひょい、と縁側に顔を出すと、そこには陽だまりの中横たわるぬらりひょんがいた。
肩が静かに上下している。寝ているのだろう。
ゆっくり昼寝をさせてあげたいところだけれど、さっき彼を探している妖怪もいたし、何よりこの気温の中で寝ていては風邪を引いてしまう。
私はぬらりひょんに近寄って腰を下ろし、そっと肩に手を置いた。


「ぬらりひょん、起きて」
「……ん、……すー……」
「ねえ、呼ばれてるのよ。ぬらり……きゃっ!」


名前を呼ぼうとしたその時、彼はいきなり、がばりと腕をこちらに伸ばしてきた。
驚いて声を上げる。彼はもぞもぞと動きながら、腕を私の腰に回すと、私の腿にのしかかってきた。


「ちょ、っと……貴方、起きてるでしょう!」
「……ばれたか」
「もう。……具合が悪いの?」
「おう。珀姫不足じゃ、慰めてくれ」
「あ、こら!」


具合が悪いなら布団を敷こうと思ったのに。暇なんだったらさっさと起きて行きなさいと、私はぺしりとぬらりひょんの頭を軽く叩く。
けれど彼は動くこともせず。それどころか、腕の力を更に強めてきた。


「ぬらりひょん、貴方ね……」
「珀姫」
「? 何……?」
「お前さん、ちょっと働き過ぎじゃ。少し休め」
「そんな事ないわよ。どこでも女はそんなものでしょう」
「いいやそんな事ある。いいから座れ」
「あんまり時間ないんだけど」
「いいから」
「……もう」


有無を言わせぬ彼の言い方に、私は渋々縁側に足を下ろした。
料理の時間に間に合うだろうか。流石に私がいなくては、人手不足で厨が回らない。
それでも手慰みにぽんぽんとぬらりひょんの頭を撫でていれば、彼はむくりと顔を上げた。


「珀姫。アンタここ一月ほど、食事と家事しかしておらんじゃろう」
「……? そう?」
「そうじゃ」
「そんなことないわよ、他のことだってしてるわ」
「例えば?」
「例えば、えっと……」


買い物……は料理の買い出しか。それと足りなくなった裁縫用具や雑貨の補充。
散歩……もあまりしていない。まあ買い物が散歩みたいなものだし。
後は、後は……? えっと……?


「……?」
「ほれ見ろ。動くのが悪いとは言わんが、腹に子がいることを考えんか」
「お腹が張った時はちゃんと休んでるわ。繕い物とかして」
「それは休んでるには入らん。ちゃんと休め」
「それより、小妖怪がぬらりひょんを呼んでたわよ。一緒に行きましょう」
「……。ったく……」


ぬらりひょんは呆れた様に目を眇め、よいしょと起き上がると。
今度は反対に私の体を倒して、彼の腿に頭を乗せるようにした。
ごつごつした感触が慣れなくて気恥ずかしい。起き上がろうとしても、手で押さえられて許してくれない。


「……恥ずかしいんだけど」
「言っても休まんアンタが悪い」
「……」
「……心配なんじゃ。ワシの気持ちも考えてくれ。な、珀姫」
「……分かったわ」


さらりと、ぬらりひょんの手が私の髪を掬っては、戻していく。
何だか寝かしつけられる幼子のようだ。暖かい日の光の中、髪を触られると眠たくなる。

まあ、ぬらりひょんの言うことも一理あるかもしれない。
腹に子がいるとは言え、動けるうちは動いていた方が安産になると。そう聞いてから、出来るだけやれることは自分でやるようにしていたけれど。
無理をしているつもりはないが、……でもこの子は、ぬらりひょんの子でもあるのだ。
心配になるのも、無理はない。


「髪紐、」
「ん……なあに?」
「この髪紐、京にいたころ、ワシが贈ったものか?」
「そうよ。……初めて、貴方から貰ったものだから。大切にしてるの」


ぬらりひょんに町に連れ出され、初めて彼がくれた、藤色の髪紐。
紐の端に端正な珠細工の付いたそれ。ずっとそればかり付けていては痛んでしまうけれど、でも仕舞っておくのも勿体なくて。
すっかり愛着が湧いてしまって、江戸に来てからも度々付けているのだ。
彼の手が、すっと髪紐を辿るのを感じた。


「別に髪紐くらい、いくらでも買ってやるぞ。簪でも、口紅でも」
「うん……。でも、これが一番、思い入れがあるの」
「そうか……嬉しいもんじゃな」


ああ、何だか本格的に眠たくなってきた。
うとうとしながら答えると、くつりとぬらりひょんが笑った。


「眠かったら寝ておけ。ワシも付き合ってやる」
「貴方は……呼ばれているでしょう。私も厨にいかなくちゃ……」
「だから休めと言うとるに。心配せんでも、雪麗やら女妖怪やらが何とかするじゃろ」
「雪麗じゃ料理が凍っちゃうのよ……冷たい料理ならいいけれど」
「じゃあ半刻。それだけ経ったら起こしてやるから、今は寝ろ」


ふわり、と肩に羽織が掛けられる。頭を撫でられて、目を閉じる。
半刻。半刻だけなら、いいかな。
でもぬらりひょん、呼ばれていたのに。拘束してしまう。
私は良いから行ってきて。そう言ったつもりだけれど、言えたかどうかは定かじゃない。
だって私が寝付くまで、彼が優しく頭を撫でる感触は続いていたのだから。





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