「珀姫!」
「ひっ!?」
次の三日月の晩、妖は宣言通りに現れた。
私の部屋の窓を勢いよく開けて、それはもう唐突に。
悪気のない笑顔に、思わず溜息が出る。
「……あのねえ、妖怪にこんな事言っても無駄かもしれないけれど、脅かさないでよ」
「脅かしとるつもりはねえんだが」
「いきなり窓を開けて飛び込んでくるなんて、驚かない方がどうかしてるわ」
もう一つ息をつきながら、持っていた筆を置く。
机の上に乗った長方形の用紙を見て、妖は首を傾げた。
「なんじゃこれは? 陰陽術に使う道具か?」
「そうよ。この間みたいなことされたらたまらないから、手を触れずとも意志を乗せられる式神を作ったの」
「信用ないのう。そんなにワシが嫌いか?」
「……別に。でも、あんなことされたら陰陽師の沽券に関わるのよ」
金輪際止めて頂戴。そう言って、私は妖を睨み付けた。
この間のことは、確かに嬉しかった。嬉しかったけれど、でもそれとこれとは別だ。
妖は気にした様子もないようにひらひらと手を振ると、ふいに此方を向いたまま視線を止めた。
「……何、私の顔に何か付いてるの?」
「いや? 使ってくれとるんじゃな、それ」
「それ……? ……っ!」
口角を上げた妖を不思議に思って首を傾げる。直後、思い当たってパッと髪を抑えた。
黒髪を纏める、藤色の飾り紐。先日贈られたそれを、私は身につけていたのだ。
何だか恥ずかしくなって、顔が熱くなってくる。
「た、偶々よ、別にいつもって訳じゃないわ」
「構わんよ。矜恃の高そうなアンタが態々着けてくれとるんじゃ、少しなりとも気に入ってると言うことじゃろう?」
「!」
「思った通り、よく似合う。アンタの綺麗な黒髪に、藤の紐はよく映えるなあ」
「う、煩い……」
するりと髪を一筋手にとって言われ、私は目線を逸らした。
照れ隠しなのは分かっているようで、喉の奥で笑う音が聞こえ、余計に顔に熱が集まる。
……駄目、しっかりしなきゃ。こんなの本気にとってたらいつまで経っても慣れられないじゃない。
「さて、じゃあ行くとするかの」
「行く? どこに?」
「そろそろ頃合いだと思ってな。アンタをワシの仲間のところに連れて行く」
「……は?」
何でもないことのように言われた台詞に、一瞬思考が停止した。
固まった私を他所に、妖は私の背と膝裏に手を回し、軽々と抱え上げる。
「や、待って、もしかして貴方の仲間って……妖怪、なんじゃ……」
「もしかしなくても、そうじゃよ」
「なっ……! そんなの無理よ、下ろして……!」
「? なんでまた」
必死に妖の身体を押して抵抗する。
冗談じゃない、そんな妖怪だらけの場所になんか行けるわけがない。
感覚が麻痺して忘れかけていたけれど、元々目の前のこの男だって妖怪だったんだ。
ただあまりにも他と違うから、つい気を抜いていただけで。
「当たり前でしょう、私は陰陽師なのよ? 魑魅魍魎を倒すべき存在なの、知ってるでしょう……!?」
「知っとるが……それとこれとは別じゃろうに」
「何にも別じゃないわよ!」
「心配せんでも、ワシの仲間はアンタを喰ったりなんかしねえよ」
「そういうことじゃなくて……!!」
焦って頭を振ったその瞬間、覚えのある香りがふわりと鼻を掠めた。
甘く蕩けるような、優しい花の香り。
昔から慣れ親しんだ、上品な匂い。間違える、はずもなかった。
「……ん? どうかしたのか、珀姫」
「……珱、姫?」
「珱姫? ああ、あの京一の美姫と噂の姫のことか」
「……どうして、」
「なに、この間ちょっと寄ってみただけじゃ。珀姫、知り合いだったのかい?」
まるで気にした様子もなく、妖は首を傾げた。気まずさなんて、微塵も感じられない表情で。
焦りで回らなくなっていた頭が、急速に冷えていく。
……そうか、考えてみれば無理もないことだ。
この妖は噂でしか知らないような私のところにまで、陰陽師の結界をくぐり抜けてくるような好き者。当然、あんな美しい姫のところに行っていないわけがない。
一体いつから、勘違いしていたんだろう。この物好きが関わるのは、何も私だけではない。
「……」
「珀姫?」
「……知り合い……いえ、友達よ。良い子でしょう?」
「? ああ、そうじゃな。気立ても良いし器量も良い。噂になるだけはある」
にこりと微笑み返したのは、自分の愚かさを気取られないためだ。
それを疑問には思ったのだろうが、あまり深く突っ込まずに流した妖に安堵した。
同時に、胸の奥が少し、少しだけ苛立ちで熱くなった。自分から話を振っておいて、とは思うが、理性で制御できるものではない。
珱姫の人柄くらい知っている。見目の良さくらい知っている。あの子と関わった者は皆、揃いも揃って彼女を褒める。
決して悪いことじゃない。むしろ珱姫が認められている証のはずだ。
なのにどうして、私はこんな気持ちを抱いているのだろう。
「おい、大丈夫か? 気分が優れんのだったら、今日は――」
「……いえ、構わないわ」
嗚呼、駄目だ。
自分が何を言っているのか分からない。
理性は残っている。このまま妖に着いていけば、それが本家の者に知られてしまえば、どうなるかくらい知っていた。
にも関わらず、連れられることを望む自分がいる。これは反抗心なのか、それとも別の何かなのか。
生憎それを判断出来るほど、私は大人じゃなかった。
「構わないから……このまま、連れて行って」
「……分かった」
この妖怪は頭が良い。人の心情に驚くほど聡くて、いつも見透かしたような顔で笑うのだ。
きっと私が本心から笑っているのでないことも、気付いていた。
気付いた上で、彼は私を拐かそうとしている。
誰かの掌で転がされるのは好きじゃない。……でも、今だけは彼の言葉に乗ってやってもいい。そう思った。
自ら頭を寄せた妖の肩越しに、筆の乗せられた自分の机が見えた。
念をこめて、式神を操る。「心配するな」とだけ伝言を託し、私はゆるりと眼を細めた。
結局のところ、私はまだまだ未熟者だったのだ。そうでなければ、どうしてこんな行動をとっただろうか。
後で、心底悔やむ羽目になるとも知らないで。
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