「鯉伴様ー、鯉伴様ー!?」
「……あら」
「鯉伴様、どこでございまするかー!!」


繕い物をしていた手を止めて、私はふと顔を上げた。
廊下から聞こえてくる声は段々と近づいてくる。布を置いて、そっとふすまを開けた。


「鯉伴さ……」
「カラス天狗」
「! 珀姫様、鯉伴様をお見かけしませんでしたか?」
「いいえ、見ていないわ。また抜け出したの?」
「左様で。困ったものですな、総大将に似た脱走癖は」
「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって」
「いえ、珀姫様が謝罪なさることでは」


カラス天狗が鯉伴を探すのは、何も珍しいことではない。
ここ数年で鯉伴は随分成長して、いつの間にか生まれてからの年数の方が成人するまでの年数より多くなった。
となれば自然と生まれてくるのが、次期総大将としての期待である。
おまけに鯉伴は妖怪と人間の間の子。であれば人間としてのある程度の知識も持っていなくてはならない。
ということで、私は適任であろうと思われるカラス天狗に講師を依頼したのだけれど。


「勉強、嫌いなのかしら……」
「妖怪の方の勉強は楽しそうにしているときもありまするが……やはり実践がお好みのようで。座学となればなかなか……」
「実践……妖怪の技のことはぬらりひょんに一任しているから、分からないのだけど……今はどのような感じなの?」
「そうですね、妖怪ぬらりひょんとしての技はかなり筋が良く、身につけているようです。尤も総大将としては、成人するまではまだ妖怪を率いることは早いとのお考えのようですが」
「そうなの……」


頬に手を当てて、首をかしげる。実践の方が楽しいのだろうか。
人間としての知識を身につけるようにと言ったのは私だ。あの子には人間も妖怪も、両方の血が流れているから。両方の目で見て、物事を考えて欲しい。
けれど自由奔放が売りの妖怪として、じっと座って話を聞くのは退屈なのかも知れない。


「ともあれ、私は鯉伴様を探しに行きます。町の方に出ているかもしれませんからな」
「ええ、お願い」
「は」


カラス天狗を見送って、ため息をつく。
町は随分と治安が良くなった。以前も悪かったわけではないけれど、私が妖怪を滅してしまった事があってから、ぬらりひょんがシマをより警備するようになったと聞く。
私のためだ。また奴良組じゃない妖怪が現れて、私が殺してしまうのを防ぐため。
あれからもう数年経つというのに、優しい人。


「それで? 鯉伴、貴方はカラス天狗を引っかき回して、何をやっているのかしら」
「! なんだ、バレてたのか」
「これでも貴方の母親ですもの。分かります」
「ちぇっ」


ひょっこりと箪笥の影から顔を出した鯉伴は、以前より大分あどけなさがなくなっていた。
その面持ちは随分とぬらりひょんに近づいている。私の要素など髪色くらいなものだ。


「いやだってさ、毎日毎日机に座ってカラス天狗のながーい話聞くのつまんねーんだもん」
「それにしては、ぬらりひょんの技が随分と上達してるらしいじゃない」
「あ、それは別。楽しいし」
「楽しいことだったらやりたいの?」
「そりゃそう。あ、そうそう。それでさ、俺母さんにも教えて欲しいことあったんだよな」
「教えて欲しいこと?」


私がこの子に教えられることなんて、何があるだろう。
首をかしげた私に、鯉伴はにっと笑って言った。


「陰陽術! 教えてくれ!」
「却下」
「ええー! なんでだよ!」
「何でって、鯉伴、貴方ね……」


むすっとむすくれた鯉伴。その様子に頭を抱える。


「陰陽術がどんな術なのか、分かって言ってるの?」
「んー? 式神とか、結界とかだろ?」
「そうじゃなくて。あれは、妖怪を殺す技なのよ」


鯉伴は妖怪と人の子だ。しかも私の子。
使おうと思えば、陰陽術だろうと使えるかも知れない。けれど。


「危険すぎます。自分に跳ね返ってきたときの被害を考えていないでしょう」
「でも昔もいたんだろ、陰陽術使う半妖!」
「いたことはいたけれど、その人達はどちらかに振り切っていたのよ。妖怪なら妖怪、陰陽術なら陰陽術。どちらも使いたいなんてのは通用しません」
「ええー!!」


ますますむくれる鯉伴。最近少しだけ顔つきがぬらりひょんに近づいてきたけれど、まだまだ子供だ。

その頬をつんつんとつつきながら、私はくすっと笑った。


「鯉伴、私の可愛い子。もし私が教えた陰陽術で貴方が傷つくことがあったら、私は自分をとっても責めてしまうわ」
「……」
「だからお願い、私のために、陰陽術を学ぶのは止めて頂戴な」
「……ちぇ。分かったよ。母さん泣かせたら親父に殺されるしな」
「殺されはしないけれど……ごめんね」


頭をなでる。止めろよ、と振り払われたけれど、つやつやの手触りは私に似ている。

ふと思う。この子は数年前のあの事件を、覚えているのだろうか。
目の前で妖怪を殺してしまったあの日。何年経っても後悔しない日はない。
幼い時分ではあったけれど、だからこそ心に刺さって抜けない思い出でもあるのではないだろうか。


「……ねえ、鯉伴」
「ん?」
「陰陽師だった私が言うのも変な話だけれど……妖怪は、絶対に悪というわけでもないし、絶対に善というわけでもないの」
「……? うん」
「私の実家は、妖怪は黒……悪だと決めつけていたけれど。奴良組の皆を見ていれば分かるでしょう」
「あはは、そうだな」
「うん。だからね、鯉伴。貴方もぬらりひょんの跡を継いで、総大将になる日が来たら。誰かと戦う日が、来たら」


考えたくはないけれど、きっとその日はやってくる。
ぬらりひょんのように、鯉伴もきっと誰かと敵対する日がやってくる。


「短絡的に、殺してしまわないで。相手の事情を少しだけ考えて、本当に相手が悪なのか考えて。それから――」


それから、願わくば。


「救ってあげられるなら、救ってあげて欲しい」


牛鬼を救った、ぬらりひょんのように。


「救う? 何から?」
「何……そうね、その人が抱えている、苦しみから……かしら」
「……難しくてよくわかんねー」
「ふふ、そうかもね」
「……母さんも、救われたの?」
「私?」


きょとんとして、目を瞬く。
救われた。そう、そうかもしれない。
誰にと言えば、勿論。


「……そうかもね、ふふ」
「あ、今母さん親父のこと考えてるだろ」
「あら、どうして分かったの?」
「分かるよ。母さんも親父も、お互いのこと考えてるときすっげーわかりやすいぜ」
「あら……」


思わず頬に手を当てる。そんなにわかりやすかっただろうか。


「勿論、貴方は貴方でいいのよ。ぬらりひょんの真似をしなさいって言っているわけじゃないの」
「……うん、分かるよ。俺は俺なりに、立派な総大将になる」
「ではそれには、まず勉学からですな」
「げ」
「あら」


ぬ、と縁側から顔を出したのは、カラス天狗だった。


「見つけましたぞ鯉伴様! お勉強の時間です」
「やべ、じゃあな母さん」
「あらあら、ふふふ。またね鯉伴」
「お待ちくだされ鯉伴様! 逃がしませんぞ!」


カラス天狗の伸ばした手をすかっとすり抜けて、鯉伴は走って行く。
廊下は走らない、と注意する声はとうに彼には届かない。

鯉伴が総大将になったとしたら、奴良組はどうなるのだろう。
どう、変わっていくのだろう。
その日が少し楽しみで、私は笑ってしまった。
きっと良い未来が来る。私のこの予感は、きっと間違っていないだろう。






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