それからの日々は、つつがなく進んでいった。
私とぬらりひょんの婚儀の経験があったからだろうか。
婚儀の日取りが決まり、準備も滞りなく進み、そして婚儀の日も何もなく。
いつかのように妖怪達が乗り込んでこないよう、結界を張るのも忘れずに。
紋付き袴を着た凜々しい鯉伴と、白無垢を着た美しい乙女さんは、眩しいほど幸せそうだった。
けれど。
「っごほ、けほっ……げほ、かはこほ、っ……」
婚儀の後の宴が終わり、その直後。
離れに戻った私を襲ったのは、止まらない咳と、いつもより苦しい肺の痛み。
口元に当てた手には濡れた質感。見れば、赤い血液が手のひらを覆うほど付着していた。
「……っ」
……もう、あまり長くないのかも知れない。
鯉伴がこの時期にお嫁さんを連れてきてくれて良かった。
あの子の晴れ姿を見れたのだ、心残りはもうほとんどない。
懸念すべきは、ひとつだけ。
ぬらりひょんに、そして鯉伴にまとわりついていた、あの黒い影だ。
あれは一体、何なのだろう。
奴良組の誰も話題にしないことを考えれば、きっと見えているのは私だけ。
死ぬ前に解決できればいいけれど、誰に相談しようもない。
勿論誰だって親身になってくれるだろうが、存在さえ感知できないそれを解決するのは容易ではない。
「……困ったものね」
ふう、と息をつく。
もう床につこう。ずっと起きていれば、また咳の音で誰かに心配をかけてしまうだろうから。
ああ、それともうひとつ、やることがあったな。
私は京から持参した包みに、目を向けた。
「急に呼んでしまってごめんなさい、乙女さん」
「いえ……それよりもお義母様、体調は大丈夫なのですか? 鯉伴様に伺いましたが、その……」
「……あまり、優れてはいないわね。だからこそ、貴方をこうして呼びつけるような真似をしてしまったのだけれど」
「呼びつけるだなんて、そんな……」
婚儀から少し経って、乙女さんが奴良組になじんできた頃。
私は布団の上に座ったまま、彼女を自室に呼んだ。
「実はね、貴方にもらって頂きたいものがあって」
「妾に、ですか……?」
「ええ。鯉伴が奴良組の総大将を受け継いだとき、ぬらりひょんから刀をもらったのは知ってる?」
「はい、聞いております。確か……鵺切丸、だと」
「そう」
総大将が持つべきだと、ぬらりひょんは鯉伴にそれを渡した。
妖怪だけを斬る、陽の気を持つ刀。
特別な刀だ。それは誰もが知っている。
そしてもう一つ、特別な刀を私は持っていた。
す、と京から持ってきた包みを開き、一番上に乗せていたそれを手に取る。
乙女さんの前に差し出せば、彼女はぱちくりと目を瞬かせた。
「これは……日本刀、ですか?」
「そう。これはね、私の従兄弟が作ったもので……藤霧、というの」
「藤霧……」
「これを、貴方にもらって欲しくて」
「え!? これを、ですか……!?」
驚く乙女さんに、私は微笑みを浮かべて頷いた。
私が死んだら、これの所在もどうなるか分からない。
その前に、渡すべき人に渡さなければ。
「何故、妾に……?」
「これはね、霊力を込めれば、どんなものでも斬れる刀と言われているの。乙女さんは幽霊だから、少しだけ霊力が使えるでしょう?」
「は、はい……少しだけ。けれど、妾、刀は使ったことがなくて……」
「ええ、それはなんとなく分かっているわ。でも使えるのは貴方だけだし、それに……念のために、持っていて欲しいの」
「念のため……?」
「そう。奴良組総大将の妻となるということはね、危険と隣り合わせになるということだから」
私は陰陽術が使えたから、以前妖怪に襲われたときもなんとかなった。
けれど、彼女は?
幽霊はわずかに霊力が使えるが、そのほかの力は微力なものだ。化けて出て人を脅かしたり、人魂を使ったり、それくらいしか出来ない。
とどのつまり、戦闘に向いていない妖怪なのだ。
「勿論、鯉伴は貴方をきちんと護ると思うけれど……万が一、ということがあるから」
「……お話は、分かりました。ですがお義母様、妾がこれを頂いてしまえば、お義母様はどうやって身を守るのですか……?」
恐れを帯びた声に、私は思わずふっと笑った。
聡い子だ。
「私には……もう、必要ないから」
「それは、どういう……」
「…………」
何も言わずにただ微笑めば、彼女は完全に察したようだった。
すっと息をのむ音がして、乙女さんは目を見開く。
「……そんなに、状態が悪いのですか……?」
「……ぬらりひょん達には内緒にしてね、きっと大袈裟に騒ぐと思うから」
「そんな、ぬらりひょん様や鯉伴様にこそお話すべきです……!」
「……ううん、いいの。貴方には……ちょっぴり、面倒な秘密を背負わせてしまうけれど……」
「お義母様……そんな、」
「ごめんね、乙女さん。でも、……言わないで。この通りです」
もしかしたら、あの二人も察しているかも知れない。
私は以前と比べれば随分とやつれたし、日に日に動ける時間も短くなっているから。
頭を下げれば、乙女さんは困ったように両手を出した。
「あ、頭をお上げ下さい……!」
「……貴方が、いいと言ってくれるなら」
「そんな、そんなの……」
「ごめんなさい、狡いのは分かっているわ。でも、知らせたくないの。余計な心配をさせたくない」
「……お義母、様……」
彼女の良心につけ込んだ、卑怯な手だと思う。
それでも言いたくなかった。
認めたくなかったのかもしれない、自分でも。
もう、あまり時間がないことを。
「……わかり、ました」
「! ……ありがとう、乙女さん」
「いえ……いいえ、お礼など……」
乙女さんの声が、若干潤んでいたのは気のせいだろうか。
優しい子だから、辛い事を頼んでいるのは分かっている。
分かっていても、なお頼む私は、酷い女だろうか。
「……その刀ね、刀身が綺麗なのよ。藤色をしているの」
「……そう、なのですか」
「開けてみて、乙女さん」
乙女さんが白い手で、刀を持ち上げる。
すっと、鞘が動いた。
「! 綺麗……」
「ふふ、そうでしょう」
「刀をじっくり見るのは初めてですが、本当に綺麗ですね……。っ!」
「……?」
そっと刀身に手を這わせた乙女さんが、ぱっと手を放す。
何だろうと見てみれば、彼女の白い指先に薄く血が滲んでいた。
「あら大変、斬っちゃったのね。待ってて、薬箱があるから」
「あ、いえ、たいした怪我では……」
「痛いものは痛いでしょう? ええと、ああ、これだわ」
薬箱を取り出し、薬を塗って布を巻く。
じわりと滲んだ血に、そういえばこの間同じ事があったなと思いだした。
彼女は刀に触れるのに慣れていないのだから、注意をするべきだったのに。
「乙女さん、ちょっと失礼するわね」
「え……? あ……」
すっと手を伸ばし、彼女を優しく抱きしめる。
目を伏せて、相手のことを思う。そうすれば光の球が浮かんで、彼女の体に吸い込まれていった。
……よかった、まだ使えて。
「これ……! 鯉伴様の、」
「そう。あの子の力と同じものよ。急に抱きしめてしまってごめんなさいね」
「いえ……いいえ、」
手を放す。するとぽたりと、畳に雫が落ちた。
「! ど、どうしたの……?」
乙女さんの白い肌に、涙が伝っていた。
柳眉を寄せて、彼女ははらはらと涙をこぼしている。
そんなに怪我が痛かっただろうか。それとも急に抱きしめたのが不躾だっただろうか。
慌てて涙を拭おうと手を伸ばすと、乙女さんは私の手を両の手で包んだ。
「……鯉伴様に、聞いたことがあるんです。この力は、相手を心から大切に思わないと使えないと……」
「え……? ええ、そうね……?」
「お義母様……っ、本当に、本当にもうどうにもならないのですか……? お義母様がそんなにも妾を思って下さっているのに、妾はお義母様に、何も出来ないのですか……?」
ぽたぽたと溢れる涙を、止める術はない。
彼女が泣いているのを、私は驚きながら見つめていた。
……ああ、残酷なことを頼んでしまった。
この子には、優しすぎるこの子には、……あんなこと、頼むべきじゃなかったのかも知れない。
それでも、言ってしまったことは取り消せない。
「いいの。いいのよ、乙女さん。貴方はそんなこと、気にしなくて」
「でも……」
「じゃあ、一つだけ。……この刀、大切にしてくれる? たとえこの先、貴方がどんな波乱な運命に巻き込まれても、これだけは持っていてほしいの。肌身離さず」
「……もちろん、もちろんです」
「ありがとう。……貴方みたいな優しい娘を持てて、私は幸せ者ね」
ひっく、ひっくと乙女さんがしゃくり上げる音が聞こえる。
頭を撫でようと、そっと手を伸ばしたとき。
彼女の姿が、ぐらりと黒く揺らいだ。
「…………!」
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