ちょきん、とはさみの音がした。
数度、短く音がして。
ごくん、と白い喉が動いた。
「あ、雨降ってきたわね……」
雪麗は、厨の窓から外を見てぽつりと呟いた。
もう冬だ。雨が降ってきたと言うことは気温が下がる合図。
特に最近は、今のような昼下がりの時間帯でも酷く冷える。雪女の雪麗にとっては生きやすい季節だが、いかんせん病人にとっては厳しい季節だ。
そう、病人。
雪麗にとって最も大事な人間である、奴良組前総大将の妻、珀姫。
彼女はもう何年もずっと、治らない病に悩まされていた。
始めに倒れたときは7日間、目が覚めなかった。
それから元気になったかと思えばまた倒れ、倒れたかと思えばまた元気になり。
しかしその元気な期間は少しずつ、だが確実に短くなっていった。
元々細めだった体躯は、骨の形が分かるほど痩せ細っていき。
色白だった肌も、病的なほどに青白くなり。
ぬらりひょん曰く、最近は血を吐くこともあったという。
――もう、長くはないと思います。
そう、鴆が告げた日を思いだす。
それでもぬらりひょんは諦めなかった。ぬらりひょんだけでなく、奴良組皆がだ。
だって一番最近――と言ってももうずいぶん前になるが――入ってきた鯉伴の妻、山吹乙女ですら、珀姫のことをすっかり信頼するほど慕っているのだ。
奴良組の中で、特に本家にいる者にとって珀姫はいっとう大事な存在であり、病だからと言って諦めるわけには行かないのだ。
雪麗が出来ることは、精々見舞いに行って薬を飲ませたり、氷嚢を作って熱を出した彼女を冷やしたりすることくらいだが。
後はしょんぼりと肩を落とす男妖怪共の尻を蹴っ飛ばして元気づけてやることだろうか。
夫のぬらりひょんも息子の鯉伴も気丈に振る舞っているというのに、本家や奴良組の男共は珀姫の事を話題に出す度眉根を下げる。涙をこぼす者もいるくらいだ。
縁起でもない。しみったれた顔は止めろ。きっと良くなる。そう檄を飛ばしたのも一度や二度ではない。
珀姫が冷えないよう、夜には温かい粥でも作ってやろう。
これでも大分上達したのだ。前は料理となると冷たいものしか作れなかったが。
妖気を操る術を学び、珀姫から料理のいろはを教えてもらい。
今度は自分の番だと、雪麗はたすきを掛けた。
だが。
「やだ、雨酷くなってきてる……ちょっと妾珀姫に茶でも差し入れてくるから、ここ頼んだよ」
「はい、雪麗様」
「お任せ下さいな!」
ぱらぱらと降っていた雨がしとしとになり、そして盥をひっくり返したかのような豪雨になり。
雷まで鳴り始め、何だか化物でも出そうな雰囲気のある夜だ。
山吹乙女や他の女妖怪に厨を任せ、雪麗は盆の上に茶をのせて珀姫のいる離れへと向かった。
「珀姫、開けてもいい?」
そう告げると、いつもならすぐに「どうぞ」と返答がある。
だが妙だ。今日は何だか静かで、寝ているのだろうかと雪麗は首をかしげた。
「寝てるの? ……開けるわよ?」
そう言って、雪麗はふすまを開ける。
だがそこに、珀姫の姿はなく。
しきっぱなしの布団と、彼女の式神だけが残されていた。
「……厠かな?」
誰かが付き添いで行っていればいいが。
あのお姫様はすぐ無茶をするというか、自分を軽んじるところがあるから。一人で行ったのかも知れない。
ったく、と眉を寄せ、雪麗は盆ごと茶を部屋の中に入れてから、厠へと向かう。
しかし。
「いない……」
そこに珀姫の姿はなかった。
ざあざあと降る雨の音も相まって、何だか不安になる。
ならぬらりひょんの部屋か。そう思って訪ねるも、そこにはぬらりひょん一人だった。
「なんじゃ雪麗、何か用か?」
「……いないわね」
「誰がじゃ?」
「珀姫よ。部屋にいなくて、厠にもいないから、てっきりここかと思ったんだけど」
「――何じゃと?」
ぴくり、とぬらりひょんの眉が動く。
彼もどうやら、異変を感じ取ったらしかった。
「鯉伴の部屋かも。行ってみるわ」
「待て雪麗、ワシも行く」
そうして二人揃って鯉伴の部屋を訪ねたが、そこには鯉伴しかいない。
こうくるともう心当たりがない。
――珀姫が、消えた。
嫌な不安が、嫌な予感になって。
雪麗の心の中で、靄になる。
天気も相まって空は暗く、太陽がないから正確な時刻は分からないが、黄昏時は過ぎているだろう。
なのに彼女がいない、なんて。
おかしい。どう考えても変だ。
ぬらりひょんも考えることは同じなのか、「カラス!」とカラス天狗を呼んでいた。
「ここに。どうされました、先代」
「珀姫が消えた」
「珀姫様が……?」
「屋敷のどこにいるか、しらみつぶしに探せ」
「は」
そうして、本家に静かに、しかし段々とざわめきは広がっていく。
――珀姫様が消えたそうじゃ。
――厨にいるのではないか?
――本家のご自身のお部屋では?
――もしや物置などにいるのでは。
そのどれもの予想が外れ、本家の部屋は全てが開け放たれていく。
だがどの部屋を探しても、彼女の姿はない。
……まさか、外か?
いや、まさか。
珀姫は外に出られるほど元気ではないし、そもそもこの大雨だ。
それに奴良組の警備をかいくぐって彼女をさらう輩も、この江戸にはいるはずもない。
なら、どこに。
その答えは、翌日、最悪な結果として奴良組にもたらされた。
「総大将ー!! 総大将ー!!」
「…………なん、じゃと……?」
翌日の朝、すっかり雨が上がった奴良組本家に、ぬらりひょんが一人の女を抱えて帰ってきた。
長い黒髪は墨を溶かしたように黒々としていて。
白皙の肌には、痩せていてもなお見惚れるほどの造形をした顔があり。
間違えようもないほどに、目映いほどに美しいその女は。
奴良組で最も大切にされてきた人間の、変わり果てた姿だった。
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