「――、椿」
「……ん」


穏やかな声が、身体を揺する振動の合間に聞こえてくる。
……ああ、名を呼ばれている。けれど返事をしようにも、瞼が重くて仕方がない。
まるで胎内にいるみたいな心地良さの微睡みの中、私は声と振動をシャットダウンすべくごろりと寝返りを打った。途端、止んだ振動に気をよくしながら、再び気持ちの良い眠りに落ちていこうとして――


「――お嬢」
「っ!!」


低い声に呼ばれた懐かしい呼び名に、私は反射的に身を起こしてしまった。


「おはようございます、お嬢」
「…………意地悪」
「いつまでも寝てるからだろ」
「だってまだ眠……ふ、ああ」


言葉の途中で出てきた欠伸に手を当てていれば、私を起こした男は何処か呆れた目を向けてきた。


「ね、今何時?」
「九時半。何でそんなに眠いんだよ」
「昨日漫喫行ってたの、知ってるでしょ? そこで読んだヒーロー物が面白くって」
「ヒーロー物? 少女漫画くらいしか読まねえと思ってた」
「そのつもりだったんだけどね。そう言えば、それに出てきたドリンクが美味しそうだったなあ。コーヒーに卵入れるやつ。ねえ青山、今度作ってよ」
「はいはい。ほら、さっさと着替えろ」


男が荷台部分から出ていくのを見送って、押し付けられた服に袖を通す。昨日コインランドリーで洗ったばかりの服からは、有り触れた柔軟剤の匂いがした。

軽く化粧をして髪を整えながら、ふと辺りを見回した。コーヒー豆や焙煎道具なんかが置かれた荷台部分はかなり狭い。夜は私と青山が横になって寝ているけれど、それだって相当ぎちぎちだ。けれどこのコーヒーの香りに包まれた空間は寝心地なんかより余程重要で、だから私は一度も文句を言った事はない。
昔使っていた、パパにおねだりして買ってもらった天蓋付きベッドより気に入っている、なんて言ったらきっと怒られてしまうんだろうけど。


「着替えた?」
「ん、終わったよ」


外からの声に返事を返すと、再び荷台の入り口が開いた。
今更着替えを見られたところで、とは思うものの、以前とは打って変わって王子様キャラの青山は、割とそういう所にも手厳しい。
一回目の前で着替えようとしたら頭をはたかれた。目茶苦茶痛かったからあれは多分本気。女の裸なんてそれこそもう見慣れているだろうに、変なところで紳士的だ。律儀だね、と言うと凄く妙な顔をされた覚えもある。青山は時々よく分からない。


「ほら」
「ありがと。……うん、今日も美味しい」
「それはどーも」


渡されたマグカップには、仄かに湯気を立てる黒い液体。じんわりと舌に染みる苦みと酸味が美味しいと思えるようになったのは、多分あのポップなじいさんを紹介されてからだと思う。
懐かしい顔と独得な発言を思い出して顔を緩めていると、青山が胡乱げな目をしているのが分かった。


「何その目」
「いきなりニヤニヤしてるから。怪しいぞお前」
「ニヤニヤじゃなくてニコニコ。美少女の微笑みなんてもてはやされるべきでしょ、怪しまれる要素ゼロだよ」
「美少女?」
「そこ突っ込む?」


本気のトーンで聞き返されると割と凹みそうになる。
少なくとも顔立ちは悪くないと思うんだけどなあ。パパと違って強面でもないし、それなり、だと思うんだけど。
ああでも、よく考えたら青山自身が整った顔してるもんね。そりゃあ周りに求める顔面偏差値も高くなるわ、納得納得。


「まあそれは冗談だけど」
「冗談だったの?」
「当たり前。それより、そろそろ十時だ。いい加減開店しないと。ほら、そこ退けろ」
「ん、はいはーい」


ごそごそと荷台の奥へ潜っていく青山とは入れ替わりに、外へ出てメニューの看板を立てる。
今日も晴天、日差しが眩しい。タコの模様が青空によく映える。
ぐにぐにと頬を揉んで、営業スマイルの準備。流石に青山みたいな似非王子風っていうのは難しいけど、それでも笑顔は重要だ。


「あ、そうだ青山」
「はい、何でしょう椿さん」
「う、……青山さん。今朝みたいな起こし方、心臓に悪いからやめてね」


相変わらず青山の切りかえは完璧だ。あの頃の金髪ヤンキーとは似ても似付かないレベル。もし組の……それこそ平や三代目張ってるあの子が見たら、爆笑するんじゃないかなあとふと想像した。


「それならちゃんと起きて下さいね、椿さん」
「……、あ、いらっしゃいませー」
「椿さん」
「…………善処しまーす」


善処する、これイコールノーサンキュー。
日本語って素敵。控えめに控えめに希望を押し通せるこの素晴らしさ。
そんな事を思っていれば笑顔でびしりと額を弾かれ、痛みを発するそこを抑えた。くそう、王子顔で出来る最大限の暴力を振るってきている。
文句ありげな目をしてみても、青山の営業スマイルは変わらない。数秒そのまま無言で勝負しあってから、私はふいと視線を逸らした。
今日ばかりはちょっと分が悪い。何せ起こしてもらっている身である。ここで無駄に意地を張ると、本気で起こしてもらえなくなるかも知れないのだから。


「……でもさ」
「ん?」
「青山は何だかんだで優しいから、明日も起こしてくれる気がする」
「……」


営業スマイルを貼り付けつつ、青山にだけ聞こえるような小さな声でそう呟けば、彼は笑顔をそのままにぴたりと動きを止めた。

……お、これは珍しく、私が勝ったかもしれない。


「……椿」
「うん?」
「そう思うなら、俺の前で着替えるのはやめた方がいいな」
「……うん?」


そう思うなら、って……青山が優しいと思うなら、ってこと?
何でいきなり着替えの話に飛んだのか、そこの繋がりがよく分からない。
けれど首を傾げてみても、青山は笑みを深めるばかりで答えてはくれなかった。

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