「天下一の美姫、じゃと?」
「はい、最近巷で飛び交っている噂ではありますが」


猪口を差し出すと、鴉天狗は頷きながら酒を注いだ。
京に来て何度目かの出入りが終わり、いつもの店で飲んでいる時の事だった。
仄かに酔った赤ら顔の鴉天狗は、そう前置きしてから切り出した。
現実主義者の此奴が噂話とは、珍しいこともあるもんだ。


「なんでも、その椿姫というのが類い希なる美貌を持っているそうで」
「ほお……」
「長く艶やかな髪に大きく切れ長の瞳、まさにその姿は天女のごとき……という話です」
「天女か。そりゃあまた、随分と綺麗な姫らしいのう」


酒をあおり、くくっと笑う。
噂は当てにならない。それくらい知っている。
天女というのも、噂を流し始めた者が勝手に言い出したことに尾鰭がついただけだろう。
妖怪の世界にまで話が上る姫にも興味はあるが、さてどこまで信じていいものか。


「しかも彼女、どうやら神通力の持ち主だとか」
「神通力、じゃと?」
「ええ。相手の力を増幅させ、治癒力や回復力を立ち所に高めてどんな傷でも癒やすという力です」
「そりゃまた随分と凄い力だが……そんな姫、たちまち妖に襲われるんじゃねえのかい?」
「……まあ、普通ならそうでしょうね」


鴉天狗は言葉を濁した。
最近の京では、生き肝信仰の妖が増えていると聞く。
その天女とやらが死んでしまうのも惜しい気はするが、かといって太刀打ちできそうでもあるまいに。


「……実は、その椿姫とやら、どうも花開院の血筋らしく」
「花開院? ってーと、あの陰陽師の花開院か?」
「そうでございます。京妖怪達が唯一恐れる、由緒正しい陰陽師の本家……その血を引いているそうで、彼女自身も陰陽術を使うらしいのです」
「……なるほどのう。襲ってきた妖を叩き付けるなんざ、随分面白い姫じゃねえか」


興味が沸いた。
噂になるほどの美貌を持ちながら、しかし妖にも立ち向かうお転婆姫。
京妖怪を見くびっているわけでも自分の力を過信しているわけでもないが、自分なら簡単には倒されまい。
猪口を置いて立ち上がると、鴉天狗はぎょっと目を見開いた。


「そ、総大将!? どこへ……」
「ちょっくら出てくる。なに、そうかからずに戻るさ」
「まさか姫のところへ!? ワシの話聞いてました!? 陰陽師なんですってば!」
「おう、聞いとった聞いとった」


羽織の裾を翻すと同時に畏れを纏う。途端、鴉天狗の意識の中から自分の存在が消えた。
花開院の場所は分かる。姫がいるかどうかはさすがに分からんが、まあ何とかなるだろう。
花開院椿。名前の字面通りなら、美しいことこの上ないのだが。一体どんな女なのか、一目見ておくのも悪くない。
まだ見ぬ姫に思いを巡らせ、ぬらりひょんは喉でくつくつ笑った。










暫く歩いていると、やがて人気のない暗い道に出た。
こういうところは京妖怪のたまり場だ。火事と喧嘩は江戸の華、とはいうものの、むやみに争いを仕掛けるのは利口じゃない。
畏れを纏ったままうろついていると、少し先の方に嫌な気配を感じた。
強い妖ではない。が、決して弱い者でもない。このままひっそり通り過ぎるが得策だろう。


「――、――……!」
「っ……!!」


邪気の含まれた声が聞こえてきた。それとは別の、人間の声も。
京妖怪が人間を襲っているのだ、と理解するのは早かった。かといって、飛び込んで助けるほどお人好しじゃあない。
様子を見て、遊べそうなら遊んでいくか。無理なら畏を発動させて逃げればいい。
そう、ぼんやりと考えていた時。


「――式神、鵠g!!」


透き通った、しかし芯のある声が耳を打った。
少し高めの、女の声だ。まるで管楽器のように、どこまでも美しく響く音。
進む足が自然と速くなる。何かに取り憑かれたかのように、身体が動いていく。
角を曲がったその先、瘴気の向こうに見えた人間の姿を認識した瞬間、頭の中が真っ白になった。

紫水晶のような澄んだ瞳に、目を奪われた。人間の物とは思えぬほどに、真っ直ぐな光を宿したそれ。
暗闇の中で仄かに浮かび上がる白皙の上に乗った双眼に、動きが止まってしまう。
墨を流し込んだような緑の黒髪も、細くしなやかな体躯も見事ではあったけれど。何より瞳の輝きから、目を離せない。
狐に化かされたのではと疑うくらいに美しい姫が、そこには立っていた。


「…………椿、姫……」


聞かずとも分かる、是が噂の姫なのだと。
天女だなんて、生ぬるい。本物の天女ですら、こんなにも美しい者はいるまいに。
女は持っていた式神を袂にしまうと、憂いを含んだ息を漏らした。


「……ごめんなさい……」


囁くように、呟くように言われた言葉が、空気に溶けていく。
その声でぬらりひょんは、ようやく気を取り戻した。
ごめんなさい? 流れから言えば、彼女が言っているのは妖怪のことだ。

だが、それとすると随分おかしな話でもある。
彼女は陰陽師。妖怪を滅するのが仕事のはずだ。
なのに、どうしてその言葉は後悔するような響きを持っているのだろう。


「…………なるほど、なぁ……」


興味が沸いた、としか言いようがない。
人間に興味が沸くというのも珍しいが、嫌ではなかった。
元々好奇心は強い方だ。ただ、やたらめったらに発揮されないだけで。
にい、と口角を吊り上げ、ぬらりひょんは女の後を追って夜の闇へと消えていった。




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