そんな、ある夜のこと。
「……っ、違う……!」
胡蝶しのぶは暗い自室で、ろうそくの明かりだけでひたすらに文字を書き殴っていた。
それは彼女の年で考えるには恐ろしく難しい研究だった。
藤の花の毒を使って、鬼を殺すには。
鬼を殺す一番簡単な方法は、首を斬ることだ。
だが首を斬れないかと挑戦したことはもう数え切れないほどある。手にまめが出来て潰れてまたまめが出来て……そんなのをもう三桁は繰り返している。
それでもしのぶの筋肉は増えない。背が低いから筋肉量も限界がある。
訓練だって必死にやっている。カナエだってきちんと稽古をつけてくれている。
それでもしのぶは首が切れなかった。何度やっても駄目だった。
悔しいのはそのたびに、誰かが首を斬っていくことだ。
柱ならまだいい。自分より幼い少年や少女が軽々と首を斬っていく。そして「大丈夫か」と声をかけてくる。
「大丈夫」と返すのが、「ありがとう、助かった」と返すのが、どれほど惨めか。
きっと椿のような生まれ持ったものが多い人間には分からない。
自分だって戦いたい。自分や姉のような被害者を出さないために鬼を殺したい。
なのにしのぶは首を斬れない。周りのサポートに回るしか無い。
矜持が高いぶん、余計に悔しさが増す。
悔しさが増したぶんだけ訓練に身が入る。
それでも、首は斬れなかった。
だからしのぶはこうして、任務の合間にがりがりと帳面に書き殴っているのだ。
藤の花の成分を調べて、鬼に効く成分がどれなのかを考えて。
可能性を一つずつあげては潰していく、その作業。
それは終わりが見えないほど果てしない。泣きたくなる。
姉は励ましてくれるけど、でも。
この先の自分に未来はあるのか。
そう考えて、涙がぽたりと帳面に落ちたとき。
「ここ違うね」
「キャ……!!」
「静かに。もう夜だよ」
何の気配も無かった場所から、ぬっと人影が現れた。
条件反射的に悲鳴を上げそうになったしのぶの口が塞がれる。
一体何奴と顔を上げた先にいたのは、今最も見たくない顔。
椿だった。
「な、何のご用ですか。勝手に部屋に入ってこないで下さい!」
「声はかけたよ。夜食、カナエ嬢が持っていってっていうから」
「い、いりません!」
「そう? じゃあ私がもらおうかな」
「ご勝手に。速く出て行って下さい!」
「あああと、ここも違うね」
「!? 勝手に見ないで!!」
しのぶは慌てて帳面を胸元に抱きしめた。
見られたくなかった。椿にだけは、見られたくなかった。
なのに。
「しのぶ嬢はちょっと知識に穴があるね。勘違いして覚えていることがあるんじゃない?」
「は? な、何の話ですか」
「その帳面。ちらっと見ただけだけど、数カ所間違いがある。丁度その専門分野の本を持っているから持ってくるよ」
「は、い、いりませ……って……」
いないし。
椿は音もなく去った。なんだあの人、幽霊か何かか。いや、幽霊なんていないけど。
彼女はすぐに戻ってきた。数冊の分厚い本を抱えて。
「はいこれ。返すのいつでもいいから読んでおくといいよ」
「……いりません」
「なんで?」
「貴方には頼りたくありません」
「ふむ、頑固だね。私が嫌われているせいかな」
「そうお考えならそうなのでは? はやくいなくなってください」
しのぶは疲労で頭が回っていなかった。だからこそもうオブラートに包むのも面倒になって、つらつらと椿に常日頃思っていることを突きつけた。
「大体貴方に協力して頂かなくても一人で出来ます。貴方みたいな人は研究なんて片手間にしているんでしょうけれど、私は――」
「片手間? まさか。むしろ研究が私の本分だよ」
「……え、」
「それ、藤の毒の研究でしょ。私もやったなあ、前。まだ完成してないけど」
「な、なんで」
「え? 見たし解るよ」
「あの一瞬で!?」
「私は嘘はつかない」
けろっとした顔で椿は言う。ああもう本当に気に食わない女!
「あのねしのぶ嬢、研究なんてのは前の人間がやった後に続くのが一番手っ取り早い。なぜなら人には寿命があるから。限界があるから。でも論文には寿命が無いから」
「……お説教ですか?」
「ううん、お節介」
「…………」
「で、前の人間が書いた論文がこの本。参考文献として取り上げてるのがこれとこれ。あとこれは関連書籍だけど読んでおくと論文の理解が深まる」
「……貴方の手は借りたくないんです」
「矜持が高いのは結構だけど研究が遅れるから無意味だね、捨てなそんな矜持」
「む、無意味……!?」
椿は本当にけろっとした顔だ。悪口を言っている顔じゃ無い。多分思ってることをそのまま言ってるんだろう。しのぶもだけど。
「本当はね、私も研究に没頭すべきだったんだけど」
「……すべき?」
「でも鬼狩りとしての仕事もしなきゃならない」
「しなきゃ、って……」
「そう言われたから」
「……育手にですか?」
「ううん、ご先祖様に」
「……はあ」
適当なこと言ってるな、としのぶは思った。
聞いたことがある。椿の親は幼い頃鬼に殺されたのだと。それで天涯孤独の身だと。ならご先祖様と対面したことがあるはずもない。
「それでもしのぶ嬢みたいに、研究肌の人間がやる研究が一番進むんだ。だから競争ね」
「きょ、競争?」
「そ。私としのぶ嬢、どっちが早く藤の毒が作れるか」
「あ、貴方はそんな必要ないでしょう。首が斬れるんだから」
「首が斬れるかどうかと藤の毒を作るかどうかは全く別の話だね」
「……それに、競争なんかしなくても結果は見えています」
しのぶは知っていた。椿は頭がいい。
自宅に研究設備があって、大量の本と本棚があって、任務をしながら研究をしている。
そんな人間に敵うはずない、のに。
「そうだね。しのぶ嬢が先だろうね」
「……え? な、なんで」
「私は君ほど頭が良くないから」
「じょ、冗談言わないで下さい」
「本気だよ。だって私はもう十年は研究してる。でもしのぶ嬢は数年でそのレベルに達してる。どっちが上かすぐ分かるだろ」
「じゅ、十年……!?」
「そ」
またからかってる。
そう思って顔を上げたのに、椿はいつになく真剣な顔をしていた。
「だからこそ、回り道なんてしなければ、しのぶ嬢の研究は飛躍的に向上する」
「……まるで見てきたように言いますね」
「予測だよ。でも正しいと思う」
「……そうですね」
なんだか疲れた。
この人と話すと疲れる。
真剣に怒るのが馬鹿馬鹿しくなる。確信した言い方に、貴方が言うならその通りでしょうと考えたくなる。
「じゃあ私が研究したら、冬麗さんの研究は意味が無くなるんですか?」
「さあ、それはどうだろう。研究の意味なんて後から着いてくるものだから」
「…………貴方はなんで、そんなに自信があるんでしょうね」
「見えてるからかな」
「何が?」
「色々と」
またはぐらかす。
もういいや。なんだか突っ慳貪に接するのもばかばかしい。
しのぶは差し出された本を、両の手で受け取った。
「……お借りします」
「うん、どうぞ」
「…………」
負けた気分だ。でも悔しいとは思わない。
ちらりと見た椿の顔は、相変わらず何を考えているのか分からなかった。
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Wisteria
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