側に
私の母親は、乳母をしていた。乳を与えていたというそれほど大きくはないお武家様の2人目の男児と私は、乳兄弟ということになる。
そのことは母から聞いていたから知っていた。だが、そのことを意識することは殆ど無かった。何故ならば、その方は物心ついて間も無く、寺に預けられてしまったからである。世継ぎ争いを避けるためか、将又他に何か訳があったのか。理由など私如きが知る由も無いが、母が城に留まる理由は無くなったため市井に戻って来た。
だから、乳兄弟であるその人とは会ったこともないし、これからも会わぬだろうと思っていた。



十と二つを過ぎて間も無く、母は病で亡くなった。父は昔戦で亡くなり、今は母が再び嫁いだある武家で連れ子として過ごさせて貰っている。
悲観することはなかった。この戦乱の世では親を亡くすなどよくあること、それが己が身に降りかかっただけだ。
更に幸いなことに、母が乳母をしていたお陰で、例のお武家様から貰った財が残っている。元々母は私を養う為に側室として嫁ぐことを了承したので、母の財は昔から私に全て渡されていた。
母が亡くなったことで、完全な邪魔者となった私。喪が明けたら、この家を出て、1人で暮らそう。そう思っていた。





「おい、お前。」
「私、ですか?」
「お前に客だ。」

母の嫁ぎ相手であり、今のところ辛うじて養子として私をこの家に留めている、養父ともいうべき人は私を呼び止めた。どうやら名前すら覚えてくれていないらしい。
案内を任された女中についていき、部屋に通される。その中にいたのは、旅装束の少年だった。
月影のような銀色の髪。年に似合わぬくっきりとした目元。一文字に結ばれた意志の固そうな唇。細身をしゃんと伸ばし、堂々とした佇まいでこちらを見ている。

「貴様が美黎というものか。」

まだ声変わりして間もない声が問う。磨き上げられた蜻蛉玉のように澄んだ瞳に見つめられて、一瞬見惚れてしまった。

「はい、如何にも。」
「そうか……。」

彼は未だに、私を見ていた。じっくりと、何かを考えながら視線が滑っていく。終始無言だったが、その空気も、彼の視線も、不思議と嫌なものではなかった。

「貴様、私と共に大阪へ来い。」

少年はただ一つ、それだけ言った。
たったその一言しかその時は言われなかった。説明なども何もない。
だがその時の私は妙に満ち足りた気持ちで、はいと返事をしていたのだ。




少年の名は佐吉。私の乳兄弟である件の男児であられる方だった。
寺に預けられていたがご縁があり、ある武家に仕官することが叶われた。
その殿様のご友人であり軍師であるという方の屋敷に住み込みで文武の手解きを受けられることになり、その際にその方が仰ったそうなのだ。
身の回りの世話を焼く者を1人連れてきて欲しいと。
どんな意図があったかは定かではない。その方は佐吉様がそこそこの家の出であられることを見抜き、世話役を置くべきだと考えなさったのかもしれないし、お前に付けてやる女中は無いというお言葉だったのかもしれない。
真意はともかく佐吉様はそれを実行なさるべく、こうして生家のあるこの地に戻りになったということなのだそうだ。
佐吉様は生家の女中を引っ張ってくる気はなかったとも仰った。私がその御心を察することは出来ないが、もしかしたら自分を追い遣った生家にあまりいい感情を抱いていらっしゃらないのかもしれない。
でもその戻られた生家で、私の母の訃報と、遺された私のことをお聞きになり、ああして訪ねて来てくださり、更にはそのお世話役に抜擢してくださったのだ。

道中でぽつりぽつりと、佐吉様は独り言のように今迄のことをお話になった。
養父はあの後二つ返事で了解を出し、追い出されるようにその日のうちに私たちはあの家を出た。邪魔者が自ら出ていったのだ。彼らにとってもありがたいことだったろう。
今は宿の中。宿代は全て佐吉様が払ってくださった。蝋燭の灯りが揺れて、今は書を読み耽る佐吉様の銀糸の髪をゆらゆら照らす。それは、儚げで美しい。風のない月夜のしじまを思わせる寡黙なこの方は、私と同い年、もっと言えば私の方が僅かに早く産まれたというに、私よりもずっと年上に見えた。

「美黎、一つ尋ねたいことがある。」
「はい、何でしょう。」
「女中仕事はどれほど出来る。」

書から目を離さずに問うた主。その声音は間違いなく真剣だ。だからこそ、私は笑ってしまった。主君となった方の前であるというのに、だ。
笑いの波をどうにか堪えて、佐吉様の方をむけば、如何にも訳がわからず、また不機嫌だという顔でこちらを見ていらっしゃる。その表情だけは、未だ年相応のものに見えた。

「あいすみませぬ。大抵のことはあの家でもさせられておりました故、それなりには出来ると思います。
ですが、ふふっ、それを問うのは些か遅すぎではありませぬか?
私が出来なかったらどうするおつもりだったのですか?」

言われて納得なさったのだろう。更には不機嫌にさせてしまったらしい佐吉様は知らんの言葉と共にそっぽを向いてしまわれた。
其れ迄、佐吉様のことは大人びた方だと思っていたが、こうして年相応の抜けた部分を持っていらっしゃるのだと知った。
どうにもその様子が私のなけなしの母性とやらを擽り、不遜ではあるがどこか弟のように感じてしまった。烏滸がましくも、この幼い(私が言えたことではない)主君を私が支えてやらねばと、そんなことも無意識に思っていたに違いない。
出会ってまだ1日も経たぬうちに、私はこの方を好いていた。それがどんな「好き」かは、まだわからぬ子供であった。




竹中半兵衛様という方のお屋敷で、私は佐吉様専属の女中となった。
最初半兵衛様は佐吉様が私を連れて来たのを見て少し驚いていた。佐吉様と同い年、若しくはそれ以下にも見えるからだろう。
だからこそ私は一生懸命働いた。私が出来損ないでは、私を選んでくださった佐吉様の評価に関わるからだ。あの場所から連れ出してくださった恩を、仇で返すわけにはいかない。
その努力のお陰か、佐吉様は私に関することは特に何も言われていなかった。ちゃんとお勤めを果たす者として半兵衛様にも認識していただけているようで、とても安心したものだ。


「美黎!どこだ美黎!」
「ここにおります。」

稽古終わりの彼に手拭いを渡す。汗と砂にまみれた佐吉様にはもう慣れていて、私はいつも桶に水を入れて持って行く。佐吉様は手拭いを水に浸し、御召し物の上を脱ぎ、濡れた手拭いで汗を拭っていく。
白く細い御身は出会った頃から変わらないが、それでも柳のような弱々しさではなく、竹と例えるべきだろうか、細く締まった身体に鍛えられていた。

「佐吉様、ここ、どうなさったのですか?」

そんな御身を見ていてふと気づく。左の腕に傷があったのだ。大きくはないが、擦りむいている。
佐吉様は言われて初めてお気づきになったようで、しげしげと不思議そうにご覧になっている。

「着替えの前に手当てをいたします。もう少し辛抱下さい。背中、失礼します。」
「構わん。」

言葉少ない了解の合図にももう慣れた。主から手拭いを受け取り、そのお背中を拭う。それが終わったら襦袢だけを元に戻し、御部屋に案内する。

部屋の中でもう一度襦袢を外し、その腕の傷を見る。薬を塗り、上から包帯で軽く巻いていく。その間は何も話さず、布が擦れる音、外からの風が鳴らす音だけが耳に届いていた。
もう何度目かもわからない静かな空間だが、いつまでたってもこの静けさが好きだった。言葉なくとも、主と私、互いに信じ合っているような、そんな気分になるからだ。

流石に襦袢の着替えの際は手伝わないが、着流しを着付け、脱いだものを洗い場の方へと持っていく。因みにその着流しは私が仕立てたものだ。特に身なりに頓着する方ではないが、近頃着替えの折にこの衣を私に渡される。その動作はそれを着せて欲しいという意思表示だと知っているから、ちょっと嬉しくなる。
まあ、もっと言えば今さっきまでお召しになっていた稽古着は、私がこまめに穴や解れを直しているものだ。こうして私が手を入れたものを着てくださるとどうにも口角が緩んでしまう。

運び終えた私が廊下に戻ると、そこには佐吉様がいらっしゃった。どうやら私の後を追われたらしいのだが、何故そのようなことをなさったのか私にはとんとわからない。今迄もそのようなことはなかった。

「あの……何か?」
「着いてこい。」

そう言うと、私の手を引いてずんずんと進み始めてしまった。佐吉様の脚は長いため、少し早歩きで歩かれているが故に私はかなり急いで歩かねばならなくなった。
それなりに屋敷の中を歩いたせいで、段々と息が切れて来た。そんな頃に、佐吉様はある部屋の前で止まる。

「座れ。茶を点てる。」

言うが早いか、私の背を押して中に入れ、自らも入って湯を沸かし始めた。
いつまでも突っ立っているわけにもいかず、仕方なくその場に座る。主君に茶を点ててもらうなど、滅多になく、恐れ多いことだ。

佐吉様は流れるような美しい動作でもって茶を点てる。手元を何気なく見つめて入れば、のの字を描く茶筅に引きずり込まれていくような、そんな錯覚さえ覚えた。

「飲め。」
「頂戴致します。」

礼をして茶碗を手に取り、回してから飲む。深い苦味の中に甘みを感じながら、一口一口噛みしめるように飲む。
それでもあっという間に飲み干してしまった。口をつけたところを指で拭い、懐紙を取り出してその指を拭く。
一息ついたところで、私は思っていたことを問うてみた。

「佐吉様、どうして私をお茶に?」

すると佐吉様は心外だというように眉を少し動かした。そして小さなため息とともに、その問いに答えて下さった。

「じきに貴様の母親の命日の筈だ。」
「もう、そんなになるのですね……。」

そうだ。もう一年経つのだ。
母が死んでから、10日も経たずに私は佐吉様と大阪へ向かった。
つまりは、私が佐吉様にお仕えしてからも、もうじき一年が経つのだ。
もしかしたら、佐吉様は私を慰めるつもりだったのかもしれない。私の母は佐吉様にとっての乳母。もう1人の母とも言うべき人だ。そして私は、そんな佐吉様の乳兄弟。

「では、佐吉様もともに弔って下さいな。母は佐吉様のことを随分と気にかけておりました故、佐吉様が元気なお姿をお見せになれば、これほど嬉しいことは無いかと。」
「そうだな。」

袖から時折覗く、私が先程巻いた包帯。色白の手は剣を握る為に肉刺や胼胝でゴツゴツしている。そんな手が、あの美しい茶を生み出したのだ。それを飲めた私は、なんと幸福なことか。
障子からの柔らかな光が茶室を照らす。
知らず狭い部屋に満ちた主への思いに、私は暫く酔いしれていた。






あれから5年が経った。
半兵衛様のご教授の成果、佐吉様、否、三成様は豊臣秀吉様の左腕にまで上り詰め、他国の者にも凶王の二つ名で名を轟かせていらっしゃる。
更には大谷吉継殿、徳川家康殿といった御友人にも恵まれ、最近では島左近殿といった部下も増えた。
どんどん身も位も大きくなられていく三成様に対して、私は未だ三成様の元で変わらず側女中を続けている。彼の方とは正反対に、私は昔から何一つ変わっていないのだ。
否、一つだけある。あの日、宿で抱いたあの感情の答えが分かったのだ。だが言葉には出来るはずのない。あのような方に、私が抱くことを赦される感情では無いとすぐに悟る。
だから、ひた隠しにして、いつもと変わらぬように笑って接している。


「美黎!美黎!何処だ!」
「こちらにおります。そう叫ばずとも聞こえております。」

佐和山という城を賜り、三成様はそちらにいることも多くなった。私はやはり今も相変わらず、こうして水を入れた桶と手拭いを手に、鍛錬を終えた三成様の元へと向かう。
細いことには変わりないが、あの頃よりももっと逞しくなった身体は、無駄なく引き締まっている。
それなりの年月の間に、とうとう2人の間には会話が無くなった。無言ながらに三成様が私に手拭いを渡し、縁側に腰掛ける。私はそれを受け取り、その背中を拭く。

「もうじき戦がある。」
「そうですか。ご武運をお祈りしております。」

三成様は、ああと小さく声を漏らした。
私は戦の時だけは置いていかれる。1人、心内で三成様の面影を求めながら寂しさと戦うのだ。
三成様が敵と戦っている間、己の弱さと戦う己の、なんと浅ましいことか。




どうしたことか、此度の戦は私も御一緒することとなった。
どうやら怪我人が多いことが予想され、救護班の1人として私が選ばれたのだ。
三成様とは別行動であるが、遠く離れたところで身を案じる寂しさからは抜け出せたので、有り難かった。

と言いたいところだが、戦が始まってしまえばそんなことを言っている暇もなかった。
半兵衛様にしては珍しい少々性急な策によって、大小様々な怪我を負った兵士たちがやってくる。同じ救護班に割り当てられた者たちとともに一寸の時も惜しいとばかりに動き回る。

漸く落ち着いたのは、夜も更けた頃だった。私は三成様の女中であるから、私の寝泊まりする場所も自然とその近くとなる。
三成様は島殿と共に先陣を切られたというが、その身体には驚く程傷が少ない。それは、それなりに場数を踏んで来たからか。半兵衛様の元にいた頃から、彼はずっと戦場を駆けていた。いつからだろうか。彼に凶王三成の渾名がついたのは。戦場で相対した者を、目にも留まらぬ速さで斬り伏せるという、恐るべき存在に。

「貴様は、私の手を恐れないのだな。」

そんなことを思っていたのが伝わったのか、三成様は目を伏せて私に触れられている自らの手を見て静かに呟く。一瞬キョトンとして、それから苦笑が込み上げてきた。

「何を今更仰いますか。昔からこうしてお怪我の手入れは」
「そうではない。」

鋭く言い放った三成様は、素早く私の手をとり力を込める。殿方の力に私の手が耐えられるはずもなく、思わず悲鳴が漏れる。

「貴様の手など容易く折れる。この距離であれば、いつだって私は貴様の命を奪える。私の両の手は、血に塗れることを厭わない手だ。それを忘れてはいないか。」

三成様の目は恐ろしいほどに澄んでいる。透き通り過ぎて、闇が覗いている。
いつものようにまっすぐに見つめられ、私は口から溢れるままに音を紡いでいた。

「自惚れかもしれませぬが、三成様はいつだって私を救ってくださいます。
貴方様は御優しい方にございます。余程のことがない限り非の無い者には手を出しませぬ故。」

意味もなく斬られる相手など、少なくとも戦場以外ではいないだろう。黒田様や小早川様がよく三成様に何か言われているが、血を流すようなことには絶対しない。島殿が博打に行くと怒られるが、それでも斬り捨てはしない。
そういう方なのだ。気に入らぬことがあれば、まず言葉で改めるように言う。それは相手が誰であっても変わらない。私にだって、不満があるときは直せと言ってくださるのだ。
余程のことがない限り、この方は非の無い人を討てない。

「ならばもし、その余程のことがあった場合、貴様はどうする。」
「その時は、三成様の思うままに。私はそれに従います。」

余程のこと。この方はそれを何と思われたのだろう。どんな思いでそれを仰ったのか、私にはわからない。

「そうか。……貴様は私を裏切らないのだな。」

ぼそりと呟き、背を向ける我が主。その表情を知ることはできない。知る勇気もない。
松明の炎がじりじりと焼ける音がする。私の心でも、色々なものが燻っていた。




その半月後、秀吉様の奥方様が亡くなった。秀吉様自らその手で殺めたと聞く。
その数日前、私は老いて仕事を辞めた方の後任として、女中頭に任命された。それは即ち、私は三成様の側仕えから外されたのだ。
何故、何故私は、三成様のお側に居られぬのか。秀吉様がねね様を葬ったように、私が弱みになるからだろうか。ならばいっそ、屠ってくださればよかったのに。貴方様の刃で死ねるなら、それは本望でしたのに。
それともこれは私へ神々が下した罰なのか。身もわきまえず、主に烏滸がましい思いを抱いてしまった浅ましき下賎な者への。

「致し方ありませぬ……。これが、三成様が望まれたこと。私には何も出来ない。全ては、三成様の思うままに。」

言い聞かせるように、独り言ちる。
知らず目尻から溢れた涙は、三成様に触れていた私の掌に落ちた。




もう、貴方様に触れることは無いのだろう。
でも、密かに想いを抱き続けることだけ、誰か赦してはくれまいか。
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