■ 魔界お泊まり紀行〜おやすみ編〜

「さて、これからあなたを味わわせて頂くわけですが……怖いですか?」
「ええそれはまあ。こんな悪魔力全開の相手に組み敷かれたら"いち人間"の私なんかは震えちゃいますよね」

 見上げた先、いつもより数段ギラつきの増した瞳にそう言い返す。
 どうしたって勝てっこない相手。圧倒的な力の差。捕食者と被食者という決まりきった立ち位置。今なら蛇に睨まれたカエルの気持ちがわかりそうだ。

 そんなわけで私はといえば、ベッドに腰を下ろすところまではなんとか動けたもののそれ以降がてんでダメダメだった。
 緊張で硬くなるだけなら可愛いと済ませてもらえただろうが、引き結んだ筈の唇はいつの間にか不安に震え、あまつさえその奥では制御を外れた歯列がガチガチと音を立てている。
 今の軽口だって余裕ぶってするりと吐きたかったのだが、実際はかなり震えて聞こえたことだろう。

 そんな、ラブラブ熱愛中の恋人を前にあまりにも失礼な態度をとり続けているというのに、対峙するベルゼブブさんは一向に気分を害した様子を見せない。それどころか、むしろ。

「……あの、ご機嫌ですね?」

 疑問ではなく確認を問いかければ、わかりますか?と随分と調子のいい響きが返ってくる。うん、やっぱり上機嫌だ。
 視線を逸らせないまま硬直する私の頬めがけて、ベルゼブブさんの手がゆっくりと伸ばされた。
 顔や首の皮膚とは違う、深く鈍い色合いの指はもう随分と見慣れたものの筈なのに、今日に限って呼吸すら忘れてその瞬間を待ってしまう。
 すらりと長い指に輪郭を包まれた。親指でなぞられて初めて、自分の目尻に滲んでいた涙に気付く。
 ベルゼブブさんの手はどこまでも優しい。けれど、いつもの空気には程遠い。
 触れ合うことを楽しみ、軽い口付けを交わし、さあじゃあ晩ご飯にしましょう──そんな風に軽々と日常に戻れてしまうような"安全な" 触れあいとはどうしたって違う雰囲気なことくらい、いくらこの手の経験がない私だってわかってしまう。

 どうしようもなく、触れられた頬が熱い。

 衝撃は心臓だけでは収まりきらず、首筋の動脈までもが今にも弾けてしまいそうな程どくどくと音を立てている。
 反面、不思議なもので背中は凍えきったように実感がない。思考だって不思議なくらいに冴えている。触れてくる指を飾るのは、昆虫の腹のようなでこぼこの皺。それがくすぐったくて気持ちよくて、なのにそんな感覚まで今の私にはしっかりと怖くて。

 いっぱいいっぱいの私は、つい、この制御できない感情ごと全てに対して目を瞑って突っぱねてしまいたくなるのだけれど……見つめ合う瞳がそれを許してくれない。いや、違うな。私が嫌なのだ。

 きっと私が本気で乞えば、こんな状況にありながらも「仕方ないですね」と溜息だけを残して、二つ三つの嫌味をお土産に逃してくれるだろう。あるいは酒をねだって酔いを言い訳にすることだって、何か都合のいい術をかけてもらうことだって、許されただろう。そう思えてしまうくらい、ベルゼブブさんに甘やかされてきた自覚はある。
 けれど、そんなのは私が嫌なのだ。ここで瞳を閉じて逃げ出すことも、責任を他所に預けて抱かれるのも、都合よく正気を手放すことを許されてしまうのも、私が嫌なのだ。

 少しでも目を逸らして瞼を閉じてしまえば、それこそ私が自分自身を放棄することになってしまいそうで必死で目を見開く。
 そんな、非力な人間なりのちっぽけな踏ん張りなんて、ベルゼブブさんにはきっと全部とっくに、気付かれてしまっているのだろうけど。


「私を恐れないでください──まともな男ならこう言うのでしょう」

 ゾクゾクするくらいに綺麗に歪められた唇の奥には鋭い歯が覗いている。
 まるで戯曲の悪魔のようだ。圧倒的な存在感で私というちっぽけな人間を見下すベルゼブブさんは、芝居がかった口調で続ける。

「しかし生憎なことに私は悪魔ですので、あなたのその態度が嬉しくて仕方がないのですよ。悪魔と褥を共にしようなどと、それも処女を差し出そうなどと度し難い程に愚かな選択だというのに、更にどうしようもなく救えないことに、あなたはこの後に及んでまだ、至って正気だ。これが人として一体どれ程"取り返しのつかない行為"なのかを理解し、この大悪魔に畏れを感じている。けれど……そんな"まっとうな"魂を持ちながらも、私と在ることを望んで下さるのでしょう?」

 本当に、なまえさんは私を煽るのがお得意のようですね。

 ベッドがいっそう深く沈む。
 あれだけ逸らせなかった視線が不可抗力によって遮られた。限りなくゼロに近付いた距離を殊更に思い知らせるかのように、続く言葉は直に耳へと流し込まれる。
 さあ、これでいよいよカエルは蛇のとぐろに捕らえられてしまった。
 頭が触れ合う感触にドキドキすればいいのか、回された腕の感触にドキドキすればいいのか、見上げる天井の豪華絢爛な装飾にドキドキすればいいのか、いかにも一級品というベッドのふかふかさにドキドキすればいいのか。そんなことすら分からないまま私の退路は一つ二つと絶たれていって、もはや選び取れる先は多くない。

「さあ、あなたの感性が知らせるまま存分に畏れて下さい。この"暴露"の悪魔を相手に、苦痛や畏怖を隠そうなどと思うだけ無駄なことなのですから」
「そ、そう言っていただけると、気が楽……です……けど、私、別に本当に、そんな……そこまでは……」
「ふふ。こんなに硬くなっておいて、まだ気を使う余裕があるおつもりですか? いい子ですから、そう難しく考えないで下さい。言っているでしょう、”あなたの思いは伝わっている”と。悪魔を畏れることも、初めての行為に戸惑うことも、慣れない接触に身構えるのも当然のことですから──あなたがどれほど不様な姿を晒そうとも、それすら私にとっては"ご馳走"のうちなのですよ」

 服越しの接触ですらこんなにもドキドキしているというのに。身体を合わせてしまったら、一体どうなってしまうのか。
 むしろ、悪魔の……この強く美しい男性が、素人一般人間女性に過ぎない私相手に本当にその気になってくれるのか。満足してくれるのか。がっかりさせてしまわないか。そんな不安に潰されそうだった。蛇の胃に収められてしまった後で「あんまり美味くなかったな」なんて言われたらきっと死んでも死にきれない。なのに、やっぱりやめたいと踵を返すのもどうしても嫌で。
 けれど、そんなごちゃごちゃする思考にベルゼブブさんはさっさと止めを刺してしまった。

 上手くできなくてもいい。取り乱してもいい。そして、どれだけ溺れてもいい。
 大悪魔の"暴露"の前に、ちっぽけな人間が太刀打ちできなくても何も恥ずかしいことはないし、悔しく思う必要はないし、悲しく思う理由もない。そんなのは、私がいざという時用に隠し持っていた狡い理屈だ。けれどベルゼブブさんはそっと汲み上げて知らないふりをして先回りしてくれた。
 ああ本当に、やっぱり私は甘やかされている。
 ベルゼブブさんの柔らかな柵で、退路がまた一つ塞がれた。辿り着ける先は、もうこのベッドでの夜しかない──いや、違う。最初から、私に退路なんてものは必要なかったのだ。行き着きたかった場所は、このひとのいる場所以外になかったのだから。

「ベル……ゆ、優一さんは、余裕たっぷりみたいですね」
 ささやかな決意を見せつけるべく再びの軽口を叩けば、まさかという失笑に首筋をくすぐられる。
「そんなものが本当にあったならば、とっくにあなたの手を引きティータイムへ誘っていますよ。それでは鎮まらないから、こうしてあなたを口説き落とそうとしているのです」
「正直なところ、てっきりもっとこう、がーーーっと勢いに任せて押し倒されてどうこうしちゃうものかと思ってました」
「そういうやり方がお好みでしたか?」
「うーん、どうでしょう……でも、とりあえず、そろそろ優一さんの顔が見たいです」

 今度はベルゼブブさんから戸惑いが伝わる。きっとあのままではいつまでも目を逸らせなかっただろう私を慮ってのことなのだろうけど、だからこそ今、もう一度目を合わせたい。
 くいくいとシャツを引いてねだれば、ようやくあの瞳が私の前に現れた。
 さっきよりもずっと近くで見る目には、真摯な輝きが垣間見える。けれどそれ以上に、そこにあるものは紛れもない欲の色だ。本人が言うように溢れ出る愉悦に混じり、タチの悪い凶暴で露骨な熱が抑えきれない激しさでギラギラ滾っている。
 なるほど、余裕たっぷりでは決してないな。

「んっ」
 思い切って、口角めがけて唇を寄せてみた。
 相変わらずカタカタうるさい歯茎のおかげで格好はつかないけれど、そんなことはお構いなしにちゅっちゅと唇だけの接触を繰り返して、深くて熱いキスを催促する。
 うまく言葉に出来ない私が精一杯の露骨さで伝えるのは、ここから先へのお誘いであり宣言だ。

 ベルゼブブさんのことだから、きっと今この身の内から溢れ出そうな思いなんて顔を見ただけでわかってくれただろう。けれど最初の一手を待っているだけなのは性に合わない。相変わらず怖いことは怖い。でも、怖いことが決して嫌なわけでもないのだ。制御出来ない胸のざわめきすらこの夜に対しての期待の形なのだと、勢い付いた今なら開き直ってしまえる。

 ベルゼブブさんが怖がる私ごと楽しんでくれるのなら、私だって怖がりな自分を楽しんでやるのだ。そして、こんな面倒臭い私を許してくれるベルゼブブさんをこの心身に刻みつけたい。
 だから全部抱えたまま、一刻も早く"どうにかなって"しまいたい。奪って欲しい。暴いて欲しい。もっと私を見て欲しい。もっともっと、あなたを見せて欲しい。


「ああもうクソ、また煽りやがって」


 知りませんからねとヤケクソ染みた舌打ちに続いて、ぬらりと長く厚い舌が呼吸を奪いにやってくる。

 さあ、みっともなく愚かしく、ひとでなしの夜を始めよう。



(2016.06.18)(続かない)
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