■ 後編

 ベルゼブブ優一の視界は一瞬にして暖かい肉の塊によって塞がれた。
 つまり、いきなり女の胸に顔を押し当てられる形で自由を奪われたわけで。柔らかい感触と温もりと暗闇に思わずあわあわと口を動かし翼を動かしてはみたけれども、そうしながらも自分に被さるなまえの柔らかな感触をしっかり楽しんでしまうのは別に悪魔だから──ということはなく、単に男の業というやつだ。
 しかも、それだけではない。肉眼で確かめられないのが残念だが、なまえの胸に埋もれている今の姿を淫奔の悪魔がよだれを垂らしながら眺めているだろうと思うと非常に気分がいい。そんな悪魔らしい悪趣味さでひっそりにやけていると、覆い被さっているなまえにもぞもぞと動きがみられたので"ささやかな抵抗"は止めることにする。後頭部に寄せられた柔らかな唇に全神経を集中させ、別に髪へのキスというだけではなく何やら言いたいことがあるらしい女の次を待つ。
 勿体つけるように小さく漏れる吐息すら愛おしくて、いつものようにせっつくこともせず待ってやる。
 先ほどまでの"じゃれあい"とも、直前の穏やかな時間とも違う様子に一体なんのつもりかと多少の疑問が浮びはしたものの、どうせいつものファザコン的な甘えだろうと思っていたのだが……。さて、今度はどうしたんですか?


「よそ見して、ごめんなさい」

 ……一瞬、いつの行動を示しての言葉なのかがわからなかった。
 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな小さな声は、ぶっきらぼうな響きをしていた。
 常ならば、例えば誠意の欠片も感じられないような無愛想な謝罪など何の価値ももたない。が、これを発したのがなまえだとするなら話は全く別である。なまえにしては珍しい愛想のない口調は、この場合においては、器用なようで意外と不器用な彼女のせいいっぱいぶりを誤魔化すどころか真逆に作用する。加えて、押し当てられた胸の下でどくどくと早鐘を打つ心臓。更には、いつもとは違うガチガチの両腕。何より、こうしてお互いの顔を隠そうとする行動。

 贔屓目なしでいえば、今すぐ拘束を解いて隠された顔を暴いてやりたい、というくらいには愛らしい。
 贔屓目に見ていいのならば、このまま魔界の自分の部屋まで連れ去ってしまって、薔薇を散らした寝台に落としてしまいたい。そして靴を脱がせたばかりの足の指一本一本から全身まで、余すところなくじっくりと舌を這わせて、恥じらう姿ですら一欠片も洩らさず味わい尽くしてやりたいくらいに──愛らしい。

 悪魔を相手にしているとは到底思えない調子の良さで、畏れなんて物はどこかに置き忘れてしまったような気安さを見せていたかと思えば、不意にこうして謙虚さと素直さを全開にして持ち上げてくるからこの女は油断出来ない。
 気紛れに可愛がられているわけでも、本当に侮られているわけでもないと分かるから、たとえクッションのように抱き締められたり愛玩動物のように扱われることがあっても不快にはならないのだが──極稀にこうして不意打ちで煽ってくるところは本当にタチが悪いと思う。彼女の無意識が"悪魔だから好き"というファザコン思考から"ベルゼブブ優一様だから特別好き"に育つ日をそれなりに気長に、それなりに虎視眈々と、それなりに期待しながら待ってやろうかとしているのに、こうも可愛い姿を見せられたら直ちに全てを台無しにする勢いで求愛したくなる。

 緩みかけた理性の糸を固結びしながら、照れ隠しも兼ねてくどくど嫌味を返してやろうか……と少しだけ考えて、けれども結局あれきり黙ってしまったなまえの身体を静かな調子でぽんぽんと叩く。

「さあさあなまえさん、いい加減にしないと私が潰れてしまうでしょうが」
「……まだダメです」
「うるせぇ、とっととその情けねーツラを見せやがれっ!」

 もとより、相手はただの人間。振りほどくなんて容易いことだ。

 案の定そこにはまるでウブな少女のように真っ赤になった顔があった。いやいやと首を振られても構わずに、じっくりねっとり見つめながら赤い頬に指先を這わす──もっとも、当然ながらそれは本来の姿であればというイメージに過ぎず、現実にはただ翼の先で触れたというだけだ。
 そっと撫でればくすぐったそうに「うひゃぁ」と身を震わせたものの、なまえは逃げようとも止めさせようともしない。
 この翼が、その気になれば彼女の肉体を傷付けることなど容易いだけの攻撃力を持つことを知らない筈がないのに。このくちばしの裏には、柔肌を噛み千切るにはうってつけの鋭い歯が並んでいることを知らない筈がないのに。

 ソロモンリングがかかっていようとも、このゼロ距離でただの人間を壊すなど悪魔である自分にとっては簡単なことだ。この手をひとの喉や胸に突き刺せばそれで仕舞いだし、肉を裂いて心臓に食らい付くことだってその気になれば朝飯前だ。
 思わずその瞬間を想像してしまい、幸福な場面には不釣り合いな冷気に背筋を襲われる。今までこの女が被害者になる惨劇が起こらなかったのは、アクタベの監視があったという理由もあるが、結局のところは自分やアザゼルやその他の使い魔たちがなまえを"そういった意味で損ねる気がなかった"だけなのだと改めて気が付いてしまう。
 けれどもそんな生ぬるい悪魔は全体として見れば決して多くない。むしろ、少数派と言ってもいいだろう。
 なぜなら悪魔は基本的に、人間を搾取することに痛みを覚えない。特に下級悪魔や力を振るうことしか頭にない脳筋タイプのバカは、直情的かつ短絡的発想により簡単に人間を傷付ける。グリモアの契約者であり悪魔使いであるアクタベやさくまとは違い、なんの力もないなまえがその気になった悪魔相手に取れる自衛手段など考えるまでもなく皆無だ。

 もしやこの女は、幼少期の思い出や自分たちとの出会いによって、悪魔自体に何かとても大きな勘違いをしているのではないか──そんな危機感が首をもたげる。


「まったく、予想通りの顔をして。いいですか、わかっているでしょうが私は悪魔ですよ。気を許して下さるのは結構ですが、こんな調子で他の悪魔とも親交を深めようなんて無謀な考えはお持ちでないでしょうね? あなたはまだまだ理解に乏しいようなので忠告して差し上げますが、私のように紳士的な悪魔など稀なのです。悪魔を甘く見てはいけません。あなた自身は悪魔使いでもないただの人間なのですから──軽い気持ちで隙を晒して、うっかり憑かれでもしたらどうするんですか。あんなトカゲになる程度では済まないような悲惨な目に合うかもしれませんよ」
「え、ええ? いえ、別に悪魔だから仲良くしたいとかそういうことは決して。それに、憑かれたらって言いますけど、ベルゼブブさんがいてくれるなら大丈夫でしょう?」

 間髪入れずの反応に、何を言っているのだろうこの女はと本気で頭を抱えたくなった。
 けれど頭を抱えるのも暴言を吐くのもなんとか思いとどまって、触れていた翼を静かに放す。そして今度はそれなりの勢いで額へ叩きつける。この体でデコピンをしようとするとこうなってしまうのだから仕方がない。
 結果、ぺしりと小気味のいい音がして、うへえと色気の欠片もない声が続いた。

 上半身を仰け反らせてまばたきを繰り返す間抜け面を眺めながら、やれやれと肩をすくめる。こうなれば自棄だ。とっくの昔に書類仕事に戻っている契約者(悪魔探偵助手)や、部屋の隅で生ぬるい視線を向けている同僚(犬顔)に後でどれだけからかわれようが知ったことか。彼女の友人(?)として唯一口を挟める立場にいる悪魔探偵(極悪人)も今日はその気がないようだし、ならばこれくらいは言ってもいいだろう。


「ええそうですとも。その通りですとも。この魔界の貴公子ベルゼブブ優一がいるのです。そんじょ其処らの三流悪魔ごときにあなたを許すわけがありません」


 ただの軽口以上の重みをたっぷり込めて、ただの戯れ以上の熱をじっとり含ませて。
 あなたに今、そっと悪魔の言霊を捧げましょう。クソが!



(2016.06.12)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨)
[ / 一覧 / ] 

top / 分岐 / 拍手