■ 記憶の虹彩

 広田鋭一には彼女がいる。
 神高ラグビー部七不思議のうちのひとつとすら囁かれるその名は、苗字なまえという。

 巨漢揃いのラグビー部の中でも群を抜く巨漢である広田と並べば、大概の女子生徒は小柄に映る。
 とりわけ華奢ななまえが相手となれば、ふたりの体格差にかの国民的アニメ映画を重ねて囃し立てる者も少なくなかった。しかし確かにある意味"大きくてふわふわ"ではあるが、当然ながら広田は広田である。独楽に乗って空を飛ぶことも出来なければ、オカリナを奏でることもない。あの灰色のキャラクターのようにいたいけな女児を慈しむ代わりに、大きなからだを攻撃に使う、闘志あふれるラグビー部員である。

 けれども、けれども。
 なまえはそんな広田を好きだと言うのだ。



 同じ部の八王子睦がその温厚さで圧倒的な"安全圏"としてある種の女子人気を獲得しているのと比べれば、広田のクラス内での評判は"危険では無いが別に安全でも無い"ふつうの男子という極々ふつうのものだった。無論、広田としても不満はなかった。そんな、これといって女子と喋ることはないが避けられるほどでもないという安定を崩した人物は、苗字なまえと名乗った。

 10月のある日、広田は苗字の言葉を告白と理解するなり問答無用で断りの言葉をぶつけていた。これは何かの間違いか、はたまたタチの悪い悪戯だろうと疑ったのだ。
 しかし下を向いた苗字はすぐさま顔を上げ、せめてもう少し考えてくれないかと食い下がった。広田が思わずたじろぎ少しだけトーンを落として宥めの姿勢となるくらいには、小さな肩を震わせる苗字の姿は必死に見えた。
 もしや、これは、冗談なんかじゃなく、本当に?
 健全な男子高校生として揺らがないわけはなかったが、残念ながらどれだけ揺らいだところで答えは変えようがない。自分が優しい言葉も甘いセリフもろくに吐けず、気など回せない男であることを広田は自覚している。おまけに、ようやく部が代替わりしたのだ。やっと、やっと、自分たちの時代になった。やらなくてはいけないことは山ほどある。やりたいことも山ほどある。

 今もこの先も、"彼女"に割ける時間や余裕が出来るとは到底思えなかった。つまりどうしたって、上手くいかないことは目に見えていた。

 しどろもどろになりながらもどうにか場を収めようと浮かんだ端から理由を挙げ続ければ、相手は静かに聞いてくれた。ただし、本当に黙っているばかりで広田の望む言葉が紡がれないのには困ってしまう。もういいとか、わかったとか、いっそ罵りでもいいから、何かこの告白タイムの終了を告げる言葉が欲しいというのに。
 急かすつもりで顔を上げたのは失敗だった。あのなぁと言いかけた口からそれ以上の言葉が続くことはなく、代わりに苗字の瞳に浮かびはじめた水滴に気が付いてひゅっと息が巻き戻る。
 女子を泣かすのは、やばい。
 けれど苗字はその涙を溢さなかった。きりきりと瞼を見開き、潤んだ瞳を広田に向けていた。
 震える膝や固く握り締められた拳を確かめるまでもなく、苗字が無理をしていることなど明らかなのに。余裕がないくせに、傷付いているくせに、夕日を移した瞳だけは今も熱く激しく燃えているのだ。ゆっくりとゆっくりと、広田を見つめたまま苗字が唇を動かした。震える声が迷いもなく紡ぐのは、広田が望んだ言葉のどれでもなく、ここに至っても変わらない彼女の望みだった。

 色恋沙汰に免疫のなかった広田に、それ以上何が言えただろう。


 広田鋭一には苗字なまえという恋人がいる。
 あの広田先輩の彼女をやっていられるのだからと人格者か何かのように称されがちな彼女は、実のところ時に広田以上に頑固で、諦めが悪く、欲張りだった。



(2016.12.28)(タイトル:インスタントカフェ)
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