■ 赤に反応するように

「……今日も遅くまでいるんなら……その…帰り……」
 一緒に帰らねぇか、という一言をようやく絞り出せた時には時計の針が随分と進んでしまっていた。
 それまで右往左往させるばかりだった目を戻してそっと窺えば、ふにゃりと笑って頷く苗字と目が合う。正直、ここまで喜ばれるとは思っていなかった。予想以上の反応に広田の心臓がどくりと大きく跳ね上がる。
「じ、じゃあ、そういうことだからな。終わったら……校門で、な!」
 話したいことは他にもあった筈なのに、居た堪れなさが限界を迎えた。言うだけ言って教室へと駆け出した広田の背を笑うように、休み時間終了を告げるチャイムが鳴り響く。


  ***


 始まりのあの日から数週間経ったが、広田鋭一と苗字なまえとの間に発展らしい発展はまるでなかった。
 広田は広田で部活に忙しい日々を送っていたし、苗字も苗字で積極的に何かを求めようとはしてこなかった。
それもこれも部活を優先したい広田にとっては都合のいいことではあるが、形だけの"お付き合い"どころか形すらままならない"お付き合い"をこうもあっさり受け入れられては都合がいいどころか居心地が悪くてかなわない。


 苗字は広田のことを昨年から気にしていたと言ったが、広田としては「八王子くんの隣だったこともあるんだけどなぁ」とまで言われても小首を傾げるしかできなかった。
 圧倒的な情報不足に観念し、ただの世間話を装い弁当片手にそういえばこんな奴を知ってるか……と苗字の名を出せた時には、広田自身どこかあの告白は夢だったのではという気になっていた。そんな広田の不安をよそに「楽しくていい子だよね」と八王子が微笑み赤山が頷き、横で松尾までがああ!と声を上げる。
「あの頭いい子だろ。こないだノート見せてもらったら、見やすかったなぁ」
「あれ? 同じクラスだっけ」
「いんや選択で一緒なだけ」
 人当たりがよくて、勉強ができて、だいたい遅くまで図書館にいる?
 聞けば聞くほど、自分に縁がある人間だとは思えない。ますますあの日のことが夢に思えてくる。いや、それ以前になぜ、クラスの違う眞子までがうんうん頷いているのか。
「練習終わりとか、見かけるよなあ。で? どうしたんだ広田、突然そんなこと聞いて? ん?」
 にやにやと声を落とした松尾は誤解しているとしか思えなかったが……かといって説明するには時計の針が足りないし、掻い摘むのも面倒くさい。有耶無耶になることを狙ってうっせぇと吼えれば、今度は八王子や眞子までが笑い始めた。何事かと周囲の視線が集まるが、このクラスにとってラグビー部が騒がしいのはいつものことである。すぐに、ああまたあいつらかとクスクス笑いが教室を包んだ。全てが裏目に出てしまい、広田としては堪ったものではない。
 けれど恥ずかしいのも困るのもこれで終わりではなかった。
 では帰ろうかと立ちあがったタイミングで、廊下を歩く苗字が目に入ってしまったのだ。あれほど見えていなかった苗字の姿を、今ではもう、こんなにもすぐに見付けてしまう。気が付けば、軽くなった弁当箱を掴み、大股で駆け出していた。後ろ姿を見送る彼らが一体どんな顔をしているのかということすら、今は考える余裕がない。

 追いついて、声をかけて、そして何を言おうというのか。
 何一つ決まらないままに広田の足は苗字に追いつき、唇は彼女の名を呼んでいた。くるりと振り向いた苗字はぱちぱちと瞼を動かした後、嬉しそうに頬を染めた。あの日の言葉が嘘でも夢でも妄想でもなかったことを確かめるには、それだけで十分だった。



(2016.12.28)(タイトル:インスタントカフェ)
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