| ■ 昔のようには走れない ざわざわざわざわ。ぎっしりと埋まった席の間を泳ぐように現れた店員さんの手から、先ほど頼んだ「とりあえず生」を受け取り開きっぱなしのメニューへと視線を移す。これとそれとあれと、こっちと、あ、これも。幾つかの品を指差せば居酒屋特有の元気な声が応えてくれる。出だしは快調。ああ今夜も良い夜になりそうだ。 「それじゃあまぁ、お疲れさまー」 「お疲れさん」 軽く掲げた先をカチャンと鳴らして、ふたり揃ってジョッキに口をつけた。 始まりは一緒に。けれど口を離すのはわたしの方がずっと早い。ふた口分で熱い息をこぼしたわたしの向かいに座り、こくりこくりと喉を鳴らして美味しそうに一気飲みしている吉田くんの姿はすっかり見慣れたものである。「とりあえず生」をあっという間に空にしてしまった吉田くんはいつものようにまたビールを注文し、会話の間にもこくりこくりと喉を鳴らし続け、順調に酔っ払っていく。対するわたしといえば本気仕様の焼酎に持ち替えてほくそ笑んでいたりするのだけれど──今の吉田くんがわたしの向ける不穏な視線になど気づくわけもない。そう、今夜のわたしは悪いことを企んでいるのです。こうして始終にこやかにしてはいるものの、内心では腹を抱えて笑い転げたい位の浮かれっぷりなのです。 「だ、だからっ、今回も試験前に補講したのにっプリントだって別に作ったのにっ……」 「まあねー数学は苦手な子は本当に苦手だからねー」 「えええ……なまえちゃんも数学嫌いだった?」 「ああもう、まーたそんな泣きそうな顔して。嫌いじゃないよ苦手だっただけ」 赤みの増していく顔を眺めながら、蕩けていく表情を楽しみながら、ちびりちびりと飲む酒のなんと美味しいことか。誰かに知られてしまえば悪趣味だと眉を顰められそうだけれど、ストレス解消法としてはなかなか侮れないのだから仕方がない。 「吉田くんはがんばってるよねー」 すごいね。偉いね。さすがだね。お疲れさま。良いと思うよ。そのうち報われるって、きっと。 前後不覚な酔っ払いにかける言葉のシャワーは、どれもこれも本当はわたしが言って欲しい言葉たちなのだと自覚している。 別段、仕事がつらいわけじゃない。生きるのがつらいってわけでもない。けれど時折どうにも乾きを感じて仕方がないのだ。面倒臭くてどうしようもない夜にそれでも頑張って化粧を落として寝たとか、休日の朝にちゃんと洗濯機を回せたとか、たったそれだけのことでも「よくやったね」と誰かに褒めてもらいたいような、そんな時があるのだ。 ただまあ……だからといって恋人もいない"そこそこ"の年齢の女が同世代の男を身代わりにして慰めにしようなんて、どうしたって不毛だし、正当化しようという気にもなれない愚行なのだけれど。 「なまえちゃん?」 「ごめんごめん、何でもない。ほら吉田くんこっちの串も美味しいよ」 「おお!本当だ美味しい!」 それでも実際この通り。きらりと瞳を輝かせる吉田くんを見ていると、心にかかった分厚い雲が晴れていく。浮かれたままに「それでねぇ」と続ければ、ありきたりな日常に積もる他愛のない話にでもにこにこ頷いてくれるのだから堪らない。このにこにこの先にも後にも何もなくていい。聞き流してくれていいし忘れてくれる方が気楽だ。だって今のわたしたちはただの酔っ払いだから。シラフでは言えないようなつまらないことを口にしあって、シラフでは聞けないような話に相槌を打つのだ。 甘やかせば甘やかすままに甘えてくれる吉田くんは、同時にわたしのこともどこまでも甘やかしてくれる。こうやって取り留めもなく過ぎていく時間の原因が実のところは彼自身の素行ではなく、何かと理由をつけては飲みに行こうと誘うわたしにこそあるのだと吉田くんはいつになったら気がつくだろうか。それは案外早いかもしれないし、あるいはその日が来るより早くこの夜が終わってしまうかもしれない。 「数年前だったらきっと、好きになっていたかもね」 「まりも?」 「……うん、まりも。若い頃だったら、ふにゃふにゃ可愛くて優しい姿にめろめろだったかもしれない」 「えーと、うーんと、もきちももすけもあげられないけど……こどもができたら……どう?」 「ちょっと待ってそれどっちもオスよね?」 ぴしゃりと返せば、吉田くんが楽しそうに笑った。ああほら、やっぱり、ふにゃふにゃで可愛い。まりものこどもってなんだろう。というかまりもに名前つけちゃうのか。高校の時の吉田くんって、そんな面白い子だったっけ。 なんとなく気恥ずかしい思いでテーブルの角へと視線を逃す。うっかり口をついた言葉だったけれど、改めて考えるとなんとも不適切な発想だった。だって若い頃のわたしはもっと違う系統の男性ばかり追いかけていた覚えがあるのだから。みんなの憧れの先輩だとか、采配に定評のある上司だとか。オンとオフの落差もギャップが可愛い男も大好きだけれど、デートで酔っ払ってふにゃふにゃになるような男性を求めた記憶はない。 「なーんだ、結局なるようにしかならないわけか」 ならば深手を負わないうちに訂正しよう。恋愛の土俵から降りてようやく見えた相手との"もしも"なんて、考えたところで虚しいばかりだ。土俵に立つのを諦めたわたしとフリーの彼がこうして"友達付き合い"をしていられるというのは、たまたまお互いの状況がかみ合ったからに過ぎない。なんだかんだと言ってみたところで、どうせ吉田くんだってその内わたしの与り知らぬ所で若くて可愛い相手を見つけて結婚していくのだろう。 けれどそれでいい。何の問題もない。ここ数年の間に、見飽きるほどに見てきた流れじゃないか。 「すみませーん。お水ふたつお願いしまーす」 「ええービールぅ……」 「そろそろ薄めないと後が怖いよ?」 二日酔いなんて御免でしょうがと覗き込めばうらめしそうな瞳が見つめ返してくる。 どうでもいいけど、この年でさらっと上目遣いをしてくるあたりタチが悪い。意図的にこういうことをやる男には免疫があるけれど、まさかの天然物とは参った。いや、どうでもいいんだけど。どうでもいいんだけどね? たとえ、じきに明けてしまう夜だとしても、どうかもうしばらくはこの心地いい関係が続けば良いのに。 とろけた瞳が閉じ切ってしまわないように、満たされた胃が暴れないように、見守る先で非日常はゆっくりゆっくりと日常に戻っていく。もったいないけれど、いつまでも前後不覚ではいさせられない。 誤作動を起こしかけた心臓を冷えた水で宥めようとする今夜のわたしも、結局のところいつもと同じだ。前にも行けず後ろにも下がれず、それでも終電にだけは間に合うように。だってほら、お互いもういい大人ですので。 「ね、吉田くん?」 「ん?」 (2017.02.02)(タイトル:fynch) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |